太田述正コラム#11398(2020.7.8)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その73)>(2020.9.29公開)
ところが、この内村鑑三の、無教会派の有力弟子達が、戦後の日本において縄文的弥生人根絶やしを正当化する講壇イデオロギーを提供するのです。
代表的な2人を上げれば、政治学者の南原繁と(植民政策学者改め)国際政策学者の矢内原忠雄です。
この二人に共通するのは、内村鑑三とは違って、武士の家の出身ではないこと、と、欧米に居住した経験がないこと、です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81 A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%86%85%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%84 B
南原は「国家主義とマルクス主義を批判<しつつ、戦前には>・・・日本に<は>宗教改革が必要であ<ると説き、戦後には>・・・「単独講和を主張した当時の内閣総理大臣・吉田茂に対し<反マルクス主義者であったにもかかわらず、実現可能性のない(太田)>全面講和論を掲げ、論争となっ<て>・・・吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判され」(A)、矢内原は「1937年<に>・・・個人的に発行していたキリスト教個人雑誌『通信』に掲載された南京事件を糾弾する目的で行われた彼の講演の中<の一節>(「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」)<、等が>不穏の言動として問題とな<り、>・・・1937年・・・12月に、事実上追放される形で、東大教授辞任を<(1945年まで)>余儀なくされ・・・(矢内原忠雄事件)<、また、>1952年・・・に発刊された「キリスト教入門」ではカトリックとプロテスタントの秘跡の記述や「(カトリックでは)一般の人が聖書を読むことを禁じている」などと記していることからもカトリックもプロテスタントも良く知らなかったのではないかと推察されている」(B)、という有様であり、どちらも、社会科学の学者としての資質を問われるような人物であったにもかかわらず、それぞれ、戦中から戦後にかけて法学部長、戦後に経済学部長、を務め(A、B)、その後、この2人が戦後日本で東大総長を連続して務めることで、戦後の日本の社会科学の、悪しき基調と方向性を決定づけてしまったのです。
付言すれば、南原はあの近代主義者の丸山眞男・・キリスト教徒にはなっていませんが・・を東大法学部の助手に採用しています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7
し、矢内原は近代主義者でイギリス崇拝者である大塚久雄(1907~96年)・・やはり内村鑑三の弟子だった・・と経済学部で同僚でした。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/archive/25/akae2001.pdf
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E4%B9%85%E9%9B%84
なお、近代主義とは、日本の場合、「昭和初期、文芸、美術などで新奇な現代的表現をめざした芸術上のグループの運動、主張<で>モダニズム<ともいう>」、と、「日本の近代化に関して、近代市民社会の原理を制度上のみならず人間変革をも含めて確立しようとする主張」、の二つの意味があります
https://kotobank.jp/word/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9-54352
が、私の言及しているのはもちろん後者の方であり、それを私の言葉に変換するとすれば、「プロト欧州文明を欧州文明へと「発展」させた啓蒙主義の諸主張を日本は総体的に継受すべきだとする主張」であるところ、近代主義者達は、日本文明を至上とするところの、日本の識者達の厩戸皇子から始まる大勢が共有してきた伝統的な考えに対して、まともな根拠も論理もなしに真っ向から異議を唱えた、実に情けなく、かつ困った人々である、と言っていいでしょう。(太田)
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[日本におけるモダニズム]
〇文学
「1920年代半ばから1935年頃までは、モダニズム文学とプロレタリア文学の併立期である。第一次世界大戦後のヨーロッパに起こったダダイスム・未来派・表現派などの技巧はそのまま日本に輸入され、日本の小説家たちも従来の平板な写実主義や芸術至上主義を唱えているだけではすまされなくなった。既成の文壇や個人主義リアリズムを批判するかたちで、横光利一や川端康成らによる新感覚派がおこった。横光の『蠅』(1923年)は映画の手法の影響が見られ、『純粋小説論』(1935年)では「自分を見る自分」の必要性から「第四人称」の設定を試みている。1935年、川端は『雪国』を書き始め、独自の美意識を完全に開花させた。非情と虚無が底流をなす川端の美意識は『末期の眼』(1933年)に端的に表されている。
もう一つのモダニズム文学の流れは新興芸術派倶楽部と呼ばれる小説家たちであるが、むしろその傍流にあった人々から個性的な世界を樹立する作家が現れた。私小説の伝統を受け継いだ『檸檬』(1925年)の梶井基次郎と、頭ばかりが肥大化した知識人を戯画化した『山椒魚』(1929年)の井伏鱒二がその代表である。
新感覚派の流れを受け継ぎ、新興芸術派の解体後に優れた業績を残したのが堀辰雄と伊藤整の新心理主義である。ジョイスやプルーストの心理主義の影響を受け精神分析や深層心理の芸術表現を試みた。なお、この時代には小林秀雄が『様々なる意匠』(1929年)で登場し、近代批評のスタイルを確立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%8F%B2
「湯川豊は<日本の>モダニズム文学の特徴を次のように書いている。
前衛的で・・・新しさを求める。
古典の再発見ということが、理念の中心にある。
そこには研ぎすまされた方法意識がある。従来の文学がもっている表現方法がどんなものであるのかを知り、それを土台にして新しい文学をつくる、ということ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0%E6%96%87%E5%AD%A6
〇建築
「一般に日本の近代建築運動の始まりは山田守・石本喜久治・堀口捨己らの分離派建築会に置かれる。・・・建築が芸術であることを主張し、過去の様式や装飾を否定した新しい造形を試みた分離派建築会の作品には、ドイツ表現主義の影響が見られる。・・・
第二次世界大戦後は、モダニズムの旗手として前川國男と丹下健三、村野藤吾らが建築界をリードした。また、日本の伝統建築(伊勢神宮や桂離宮などの数寄屋建築)とモダニズムの近親性が論じられた。これは柱と梁で構成される日本の伝統的建築と、煉瓦や石を積み上げて造る西洋の建築を対比し、前者がモダニズムの理念と適合しているとするものである。
このように日本においては、モダニズム建築の理念が第二次世界大戦による中断を含みながらも急速に普及し、過去の歴史様式をまとった建築は否定されるようになった。この背景には、戦争の激化とともに物資が乏しくなったため、また戦後になると戦災から一刻も早く立ち直るため、とにかく時間をかけず廉価に建設することが社会的な要請として最優先され、職人が腕を振るって装飾を付けるようなことは無意味であり無駄だと考えられたこと、また海外及び日本の建築雑誌に紹介されるのはモダニズム建築ばかりであったことなどが理由として挙げられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0%E5%BB%BA%E7%AF%89
「<戦後に活躍した>丹下健三 (1913-2005)は、伝統的な日本のスタイルとモダニズムを組み合わせた20世紀の最も重要な建築家の一人であ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
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(続く)