太田述正コラム#12042006.4.27

<古の枢軸の時代を振り返って(その2)>

 ギリシャだけは、他の地域とは若干様相を異にしていた。

 枢軸の時代のギリシャにおいては、精神的・哲学的覚醒も見られたが、人類の第二の枢軸時代とも言うべき16世紀に西側において始り、現在まだ現在進行形であるところの、科学的・技術的覚醒の先駆けとなる科学的・技術的覚醒が見られた点だ。

 ギリシャの精神的・哲学的覚醒は、いわゆるギリシャ悲劇がその役割を担った。ギリシャ悲劇は、哀れみの感情を喚起するとともに、観客に対し、異邦人を、たとえその者が言語に絶する罪によって汚染されていようと、敬意を払うべきことを教えた。悲劇的な演劇は、偏見と先入観から解放するディオニソス的エクスタシーに観衆をいざない、彼らをして、それを観る前には不可能であるように見えたところの、同情に基づく行為を行うことを可能ならしめた。更にギリシャ悲劇は、未知の精神的領域に敬意を払うことをギリシャ人に教えた。

 東西で違いも見られる。総じて言えば、東ユーラシアでは、西ユーラシアに比べて、聖なるものについて、より非人格的かつ抽象的な概念を発展させた。

イスラエルの地が生んだ唯一神教は、後に、それぞれの時代にふさわしい、ラビ的ユダヤ教(Rabbinic Judaism)、キリスト教、そしてイスラム教を生み出すことになる。

パリサイ派ラビのヒレル(Hillel the Elder。紀元前1世紀=ヘロデ王と同世代)(http://en.wikipedia.org/wiki/Hillel_the_Elder。4月27日アクセス)は、黄金律こそ、「トーラー(Torahモーセ五書Pentateuch)=律法)(注)のすべてであり、ほかのことは注釈に過ぎない」と語り、イエスは神学ではなく愛と非暴力を教え、パウロは愛なくして信仰は無意味であると記した。コーランでは同情心を持てと教え、イスラム教徒が自衛目的以外で戦うことを禁じた。ムハンマドは、戦が終わった時、彼に従う人々に、「より偉大なるジハード、すなわち、われわれの社会と心を改革するという巨大かつ緊急性のある課題への挑戦」を再開するように促した。

()旧約聖書の最初の5つの書である、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の総称http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC。4月27日アクセス)。

 このような、枢軸の時代の精神的・哲学的覚醒にわれわれは改めて学ぶべきだ。

3 私の疑問

 以上、アームストロングの指摘を、彼女が詳しいと考えられる、西ユーラシア、すなわちギリシャとイスラエル、とりわけイスラエルにおける枢軸時代を中心にご紹介しました。

 私の疑問は二つあります。

 まず第一は、唯一神教と「自己批判と自己変革・暴力の回避・他人への同情や共感」とは本質的に相容れないのではないか、という疑問です。

 アームストロング自身、エホバ以外の神、例えばバール(Baal)を崇拝するな、ということを強調するユダヤ人預言者達がいたことは事実だけれど、アモスやエゼキエルはそうではなかったし、そもそも聖書において、明確な唯一神主義的主張はほとんど見出せない、という言い訳じみたことを言っています。

 そして第二は、もはや人類は、特にアングロサクソンと日本人は、ヤスパースやアームストロングの言う、枢軸の時代に学ぶべきものはあまりないのではないか、というより根本的な疑問です。

 私は、次のように考えています。

 アングロサクソン文明は、枢軸の時代のギリシャとイスラエルの強い影響を受けつつも、ついに独自性を貫き通した非精神的・非哲学的文明であり、日本文明は、枢軸の時代の支那とインドの強い影響を受けつつも、ついに独自性を貫き通した非精神的・非哲学的文明である、という点で、それぞれ西ユーラシア大陸、東ユーラシア大陸の異端児なのです。

 また、現在われわれが生きている近現代とは、アングロサクソン文明が世界を覆い尽くそうとしている時代なのであり、日本文明は、非精神的・非哲学的文明であるという点でアングロサクソン文明と極めて親和性を有する文明なのであり、アングロサクソン文明同様、普遍性を有する文明なのです。

 ですから、アングロサクソンと日本人が枢軸の時代の精神的・哲学的覚醒を学ぶ意義があるとすれば、それが支那・インド・イスラム/欧州の各文明を理解する重要な手がかりを与えてくれるところにあるのであって、それ以上でも以下でもない、ということなのではないでしょうか。

 

(完)