太田述正コラム#11588(2020.10.11)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その1)>(2021.1.3公開)

1 始めに

 坂井孝一の『承久の乱–真の「武者の世」を告げる大乱』を読んでいきたいと思います。
 次の東京オフ会の「講演」演題と完全にかぶる時代をこの本は対象としていることから、(有料読者の皆さんに対してだけですが)ネタバレ的観点から、本来、取り上げにくいのですが、そこは腹をくくることにしました。
 なお、坂井(1958年~)は、東大文(国史)卒、同大院博士課程単位取得、創価大専任講師、助教授、教授で、東京芸術大学器楽科(ピアノ)准教授の坂井千春が実妹で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%BA%95%E5%AD%9D%E4%B8%80
「私自身が観世流の能や葛野流の大鼓を嗜んでいることから、室町期の芸能史(とくに能楽)の研究にも携わっています。」
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/112182.html
という人物です。

2 坂井孝一『承久の乱』を読む

 「・・・井原今朝雄<(注1)>氏は、院政期の政治形態は天皇・摂関。院の三者による共同執政というべきもので、その時々の三者の力関係によって左右されたとする。・・・

 (注1)けさお(1949年~)。静岡大人文学部卒、高校教諭等を経て中大博士、国立歴史民俗博物館教授、総合研究大学院大教授併任、国立歴史民俗博物館教授、同定年退職。「2009年に刊行した『中世の借金事情』について、名古屋大学准教授の大屋雄裕から「買ったり読んだりする価値のまったくない本」 と批判された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%8E%9F%E4%BB%8A%E6%9C%9D%E7%94%B7

⇒この場合の「力」とは何であって、その相対的多寡はいかにして秤量されるのかが示されないのであるのならば、全く説明になっていません。(太田)

 かつては院政期には院庁<(いんのちょう)>が政治の中心機構であったと理解されていた。
 しかし、院庁が関与できたのは院の家政問題だけであり、政務自体は相変わらず朝廷の太政官で執行されていた。
 元木泰雄<(注2)(コラム#11442)>氏は、太政官を白河が自身の意向に沿って運営できたのは、恩を売った若い摂政の<藤原>忠実を意のままに操ることができたからであるとしている。・・・

 (注2)1954年~。京大文(国史)卒、同大院博士課程指導認定退学、日本学術振興会特別研究員等を経て、大手前女子大講師、助教授、京大博士、同大総合人間学部助教授、同大人間・環境学研究科助教授、教授、同大名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%9C%A8%E6%B3%B0%E9%9B%84

⇒ここで、坂井はきちんと書いてくれていませんが、院政期には、院庁は政治の中心機構ではなかったかもしれないけれど、院は政治の中心で基本的にはあったわけであり、その一方で、院が直接太政官に乗り込んで指示を出すことは慣行上できなかった(コラム#省略)以上、院と太政官の連絡を担当する(院庁の)院司の役割は重要であり、子供の使いにならないためには、院は自分の指示内容を、この院司が太政官で摂関以外から万一質問された場合にきちんと説明できるよう、あるいはうまくはぐらかすことができるよう、その趣旨、背景を含め、この院司に理解させなければならなかったはずである、ということを頭に入れておいてください。(太田)

 <振り返れば、>1107<年>7月、堀河が29歳で死去する。
 白河は、<自分の父親の>後三条が皇位を予定していた<自分の弟の>輔仁を無視し、堀河の息子で自身の孫にあたる五歳の宗仁(むねひと)親王を践祚させた。
 <それが>鳥羽天皇である。
 さらに、鳥羽の外伯父として摂政補任を求める閑院流藤原氏(藤原四家で最も栄えた北家の傍流)の権大納言公実(きんざね)を退け、摂関は天皇との外戚関係の有無に関わりなく道長の子孫が父子相伝する職(しき)とみなし、関白忠実を摂政にスライドさせた。
 ここに摂関を継承する家「摂関家」が成立した。
 同時に、白河は忠実に恩を売り、摂政を院のもとに従属させるに至った<のだった>。・・・」(7~9)

⇒摂関を職とみなし、「摂関家」を成立させることは、私のいう桓武天皇構想の射程内の話であって、そのタイミングだけを、当時の天皇家と藤原北家主流とが話し合った上でコンセンサスの下で行われた、というのが私の主張(コラム#省略)であるわけです。(太田)

(続く)