太田述正コラム#11596(2020.10.15)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その5)>(2021.1.7公開)
「・・・保元の乱後、政治の主導権を握ったのは信西であった。・・・
妻の紀二位朝子(きのにいちょうし)が雅仁<(後の後白河天皇)>の乳母になったことを機に、政権の中枢へと食い込んだのである。
・・・1156<年>閏9月、信西の主導により「そもそも九州の地は一人の有なり。王命のほか、いずくんぞ私威をほどこさん(日本の地はすべて王一人のものであり、王の命令には必ず従わなくてはならない)」という王土(おうど)思想<(注17)>を標榜した七ヵ条の新制が発布された。
(注17)「国土全体を天皇の領土とみなす古代・中世の政治思想。その起源は『詩経小雅』の「溥天(ふてん)の下(もと)、王土に非(あら)ざるは莫(な)し」や、『孟子萬章』の「普天(ふてん)の下、王土に非ざるは莫く、率土(そっと)の浜、王臣に非ざるは莫し」などの古代<支那>思想にあり、日本古代国家の成立とともにその国家的理念として導入され、律令体制の基盤である公地公民制を支えるイデオロギーとなった。
律令制が解体して中世社会への転換が進むなかで、王朝貴族政権は国家の危機にあたって、それに対処するために王土思想を宣揚した。承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱(936~941)に際し、東海・東山両道の国司に平将門(まさかど)の追討を促した940年(天慶3)の太政官符(だいじょうかんぷ)・・・において、「抑(そもそ)も一天の下、寧(いずくん)ぞ王土に非ざらん。九州の内、誰(たれ)か公民に非ざらん」と、王土王民の理念を強調して軍功を募ったことは、その顕著な例である。
また王土の思想は、公田を蚕食する荘園の乱立に対して、その抑制に努める公家政権の「新制」(荘園整理令)の基本理念であった。1156年(保元1)、保元の乱に勝利した後白河天皇は、その発布した「保元新制」の太政官符・・・の第1条において、神社仏寺院宮諸家の新立荘園の停止を命じたが、その冒頭に「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と王土思想を宣言し、それが中世王権としての天皇権力の基本理念であることを内外に表明したのである。」(戸田芳実)
https://kotobank.jp/word/%E7%8E%8B%E5%9C%9F%E6%80%9D%E6%83%B3-1150563
戸田芳実(1929~1991年)(コラム#11241)は、京大文卒、同大院博士課程単位取得退学、神戸女子薬科大講師、助教授、京大博士(文学)、都立大人文学部助教授、神戸大文教授、同大名誉教授、神戸女子大文教授。・・・「石母田正の「中世的世界の形成」に影響を受け、その後の進路を決定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E8%8A%B3%E5%AE%9F
⇒「注17」内の戸田による説明中の、「公田を蚕食する荘園の乱立に対して、その抑制に努める公家政権」のくだりは、一般論としても、後白河天皇期に限っても、私としては違和感があります。
私は、後白河は、従って信西も、荘園の「乱立」自体を問題視したわけではなく、荘園は、その多くが不輸不入権を伴っていたことから、国衙が直接コントロールできない一方、公田と荘園の双方に係る秩序の維持や「管理」に任ずるべき地方武士勢力の「整備」、換言すれば地方分権基盤の「整備」、が追い付いていないことから、荘園の増加ペースのスローダウンを図らざるをえなかったものに過ぎない、という見方をしています。(太田)
さらに、荘園の整理・訴訟に関わる記録所の興隆、王権の象徴である大内裏の再建、朝廷儀礼の復興、京中の整備など、信西は後白河親政のもと王権の高揚を意図した政策を次々と打ち出した。
莫大な費用がかかる大内裏復興では造内裏行事所を設け、造営費用を諸国に分割して請け負わせる方式を取った。
これは以後、特別な事業の費用調達方式として定着していく。
本郷恵子<(注18)>氏は、信西を「優れた学才」「合理的な実務能力」「傑出した構想力」によって「中世社会のグランドデザインを描いた人物」と高く評価する。」(18~19)
(注18)1960年~。東大文(国史)卒、同大院博士課程単位取得退学、同大博士(文学)、同大史料編纂所助教授、准教授、教授。夫の本郷和人も同じ専門。昭和天皇の大意後の称号について「上皇」とすることを首相の私的諮問機関において提言した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%83%B7%E6%81%B5%E5%AD%90
⇒ここも、本郷の唱える、信西イコール「中世社会のグランドデザインを描いた人物」説、には違和感があります。
私見では、日本の「中世社会のグランドデザイン」は、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想によって、とっくの昔に「描」かれており、信西は、後白河の意を体して、「中世社会」到来直前に、(「記録所の興隆」はともかくとして、)「中世」以降にも日本の権威の中枢であり続けるところの、天皇家・摂関家・その他公家達が所在することとなる、日本の首都の京都の、自分達の手によるところの、ひょっとした最後になるかもしれない、整備を行ったということなのであり、だからこそ、彼らは、京都以外には、何の関心も示していないのです。(太田)
(続く)