太田述正コラム#11604(2020.10.19)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その9)>(2021.1.11公開)
「・・・1176<年>、清盛と後白河の紐帯であった建春門院滋子が35歳で急死すると、両者の間の亀裂、平家一門に対する院近臣の不満が表面化してくる。
⇒既に記した理由から、このくだりについても、私としては、理解できません。(太田)
翌<1177>年、・・・大規模な火事や、山門の強訴などが続く中、藤原成親<(注23)>(なりちか)・西光<(注24)>(さいこう)・俊寛<(注25)>ら院近臣による平家打倒の謀議が発覚した。
(注23)1138~1177年。「藤原北家末茂流・・・中納言・藤原家成の子。正二位・権大納言。・・・異母兄の隆季・家明が美福門院に近く仕えたのに対して、成親は妹が藤原信頼の妻となっていた関係から信頼と行動をともにするようになり、後白河院の側近に加わった。後白河院の成親への信頼は厚く、慈円は<信頼がそうであったように>両者が男色関係にあったとする。・・・
平治の乱では藤原信頼とともに武装して参戦する。敗北後、信頼が処刑されたのに対して、成親は妹・経子が平重盛の妻であったことから特別に助命され、処分は軽く解官にとどまった。・・・
重盛との関係は親密で、成親の娘はのちに重盛の嫡子・維盛の妻となっている。・・・
<また、>父の頼長に連座して配流されていた藤原師長が中央に復帰すると、成親は師長に娘を嫁がせてその復権に協力している。・・・
鹿ケ谷<事件の後、>・・・備前国に配流され、18日、解官され・・・7月9日に死去した(『百錬抄』)。食事を与えられずに<崖から突き落とされて>殺害されたといわれる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%88%90%E8%A6%AA
(注24)?~1177年。「阿波国の豪族・麻植為光の子。・・・のち、藤原家成の養子、乳兄弟とされる信西(藤原通憲)の家来となり、左衛門尉に昇る。 平治の乱で信西が死ぬと出家して西光と名乗る。のち後白河法皇に仕え、「第一の近臣」と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%85%89
(注25)1143~1179年。「村上源氏の出身<の>・・・真言宗の僧。・・・後白河法皇の側近<。>・・・藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流された。(鹿ケ谷の陰謀)・・・
姉妹に大納言局(・・・平頼盛の妻)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%8A%E5%AF%9B
鹿ヶ谷(ししがたに)事件<(注26)>である。」(24)
(注26)「鹿ヶ谷<での>・・・謀議が事実であったかどうかは当時でも疑問視する向きが多く、西光と成親が清盛の呼び出しに簡単に応じていることから、平氏側(清盛)が院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との衝突を回避するためにでっち上げた疑獄事件の可能性もある。清盛が狙いをつけたのは院近臣の中核である西光・成親で、後白河には手を下さず福原に引き上げた。後白河は「こはされば何事ぞや、御とかあるべしとも思し召さず」と白を切ったという。また、清盛も後難を恐れて院御所への出仕を拒む諸臣に出仕を命じている・・・。
延暦寺攻撃という後白河の命令に清盛が抵抗した理由については次の理由が考えられている。当時の人々からは、神罰や仏罰の存在が真実であると考えられていた。しかも平安京を仏法で守護していると信じられてきた延暦寺を攻撃するともなれば、ただでは済まされず必ず仏罰を受けると思われていた。これは、『平家物語』のこの事件の件において、かつて関白藤原師通が延暦寺大衆の攻撃を命じた仏罰を受けて死亡したという故事を載せていることからも理解可能である。特にそれを命じたのが治天の君であり、「王法」の代表者とされた後白河であったことは、王法と仏法の相互依存によって国家が守護されるという「王法仏法相依」理念の崩壊を意味することにもなりかねない深刻なものであった。実際に攻撃を命じられた清盛の立場からすれば、延暦寺攻撃による因果応報によって自己及び平家一門が仏罰を受けて滅亡するという事態を危惧することは十分に考えられ、それを強制的に平家一門に行わせようとした後白河及び院近臣に何らかの意図を疑う余地があったと考えられる。「延暦寺攻撃命令=平氏一門滅亡の謀略」という発想は、その後の足利義教・細川政元・織田信長の比叡山焼き討ちの事実を知る後世の人々には突飛に見えても、清盛及びその時代の人々には通用する構図であったと考えられるのである。
一方、重盛は、白山事件で家人が矢を神輿に当てる失態を犯したのに加え、妻の兄<である成親>が配流されて助命を求めたにも関わらず殺害されたことで面目を失い、6月5日に左大将を辞任した。この結果、宗盛が清盛の後継者の地位を確立した。また、清盛の弟で、成親捕縛時に重盛と共に居合わせた頼盛も、妻の兄弟の俊寛が参加していた事で同じく面目を失い、後白河の院近臣としてただでさえ微妙だった立場がより悪化していく事になる。清盛は山門との衝突を回避し、反平氏の動きを見せていた院近臣の排除に成功したが、清盛と後白河の関係は修復不可能なものとなり治承三年の政変(1179年)へとつながっていく。・・・
<なお、>白山事件<とは、1177年に、>・・・山門(比叡山延暦寺)の大衆が加賀守・藤原師高の配流を求めて強訴を起こした<もの>。発端は後白河の近臣である西光の子・師高が加賀守に就任し、同じく子の藤原師経がその目代となり、師経が白山の末寺を焼いたことに激怒した白山の僧侶が山門に訴えたことだった。国衙の目代と現地の寺社が、寺領荘園の所務を巡り紛争を起こすことは各地で頻発していたが、この事件では白山が山門の末寺で、国司と目代が院近臣・西光の子であることから、中央に波及して山門と院勢力の全面衝突に発展した。
後白河は目代・師経を備後国に流罪にすることで事態を収拾しようとしたが、大衆(僧徒)は納得せず4月12日に神輿を持ち出して内裏に向かう。後白河は強硬策をとり官兵を派遣するが、翌日警備にあたった重盛の兵と大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たって死者も出したことから事態はさらに悪化する。大衆は激昂して神輿を放置して帰山、やむなく朝廷は祇園社に神輿を預けて対応を協議した。4月20日、師高の尾張国への配流、神輿に矢を射た重盛の家人の拘禁が決定、大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着する。父親の西光については一時配流が決定された・・・が、実際には後白河の取り成しを大衆側が受け入れる形で許されることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%82%B1%E8%B0%B7%E3%81%AE%E9%99%B0%E8%AC%80
⇒祖父の白河同様、後白河も、男色相手を能力を度外視して登用したりする点を始めとして、欠点の多い治天の君でしたが、後白河と清盛に関しては、「注26」を踏まえれば、前者の方が後者よりも、はるかに開明的な考えの持ち主だったと言えそうですね。
そのことに加え、というか、これは更に重要なことですが、前者は当然、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の全体像を知っていたけれど、後者は、武家に関しては、源氏>平氏>藤原氏、である、という、武家であれば誰でも周知の認識しくらいしか持ち合わせていなかったのではないか、と、私は見ており、だからこそ、私見では、清盛は道を誤り、武家であり続けつつ自分の平家を堂上平氏と合体させることによるところの堂上平家化、と、その平家の摂関家並みへの家格向上を目指すという無理を冒した結果、その死後、間もなくして平家は滅びてしまった、と、私は考えるに至っている次第です。
(続く)