太田述正コラム#11606(2020.10.20)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その10)>(2021.1.12公開)
「多田行綱(ただゆきつな)の密告を受けた清盛は、ただちに成親・俊寛を斬罪に書した。」(24~25)
⇒鹿ヶ谷の陰謀が発覚したのは、多田行綱<(注27)>が密告したから、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%82%B1%E8%B0%B7%E3%81%AE%E9%99%B0%E8%AC%80 前掲
ということになっていますが、この多田行綱に興味が湧き、少し調べてみました。
(注27)?~?年。「摂津国多田の地に武士団を形成した源満仲(多田満仲)より数えて八代目に当たる多田源氏嫡流。・・・
鹿ケ谷の陰謀以降平家に属していたとされるが木曾義仲の快進撃と呼応する形で寿永2年(1183年)7月22日に摂津・河内国の両国で挙兵し反旗を翻した。そして行綱の軍勢は摂津河尻で平家の船を押さえるなどして都に上る物流を遮断し、入京を目前に控えた義仲や安田義定、足利義清、源行家らと共に京都包囲網の一翼として平家の都落ちを促した・・・。続く24日には、同じ清和源氏で摂津国内の武士太田頼資が行綱の下知により河尻で都に上る粮米などを奪ったほか民家に火をかけた。これらの行動は平家に大きな打撃となり都落ちを決定付ける要因の一つとなる。そして翌25日に平家が西国に向けて都落ちすると、26日には朝廷が平親宗を遣わし行綱に安徳天皇と三種の神器の安全のために平家を追討しないよう命じる御教書を下した。
義仲入京後の動向は・・・不明<だ>・・・が、間もなく義仲と後白河院の関係が悪化すると院方に付き、同年11月の法住寺合戦では子息と共にその主力として院御所の防衛に当たるが、義仲軍の猛攻によって官軍が壊滅すると多田荘へ逃れ自領の「城内」に篭り引き続き義仲軍に反抗した・・・。義仲の敗亡後は源頼朝方につき、<翌>1184年・・・2月の一ノ谷の戦いでは源義経軍の一翼・多田源氏の棟梁として活躍する。・・・
平氏滅亡後の・・・1185年・・・6月、頼朝に多田荘の所領を没収され行綱自身も追放処分となった。この原因には一ノ谷の戦い以降、義経と深く手を結んでいたであろうことや、清和源氏の嫡流を自認した頼朝が先祖・源満仲以来の本拠地である多田荘を欲したことなどがあったと考えられている。追放から5ヶ月後の・・・1185年・・・11月、頼朝と対立した義経の一党が都落ちすると豊島冠者らと共にこれを摂津河尻で迎え撃った(河尻の戦い)。この行動は追放処分により失った多田荘を回復するためのものであったと考えられているが、その後も処分は解かれなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E8%A1%8C%E7%B6%B1
「鹿ケ谷の陰謀では院近臣の藤原成親らから反平家の大将を望まれるが、平家の強勢と院近臣の醜態から計画の無謀さを悟り平清盛にこれを密告」(上掲)だけでは、今一つよく分からないのですが、下の囲み記事に目を通してください。↓
—————————————————————————————–
[多田行綱]
「・・・多田行綱・・・の後白河、清盛、義仲、後白河とたびたび帰属先を変えた生き方は、・・・すべてが・・・後白河院の意を受けて行動した<ものであった>と言ってよいのではないだろうか。
もう一つ、・・・着目したいのが、近衛家との深いつながりである。・・・
1153<年>7月16日・・・行綱<は、>近衛基実<(注28)>邸で元服の式を行っ<ている>。・・・
(注28)1143~1166年。「藤原北家、関白・藤原忠通の四男。官位は正二位・摂政・関白・左大臣。・・・松戸の基房<や>・・・九条兼実<や>・・・慈円<の兄>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%AE%9F
そして、その基実が早世したあとで、<行綱が。>・・・<自分>と同年生まれ<で、基実>・・・の長男<である>基通<(注29)>とも深い関わりを持っていたと想像することも的外れではないのではないだろうか。
(注29)1160~1233年。「摂政関白・近衛基実の長男。官位は従一位・摂政、関白、内大臣。近衛家2代当主。・・・母<は>藤原忠隆の娘<で>養母<が>平盛子・・・正室<は平> 完子」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E9%80%9A
・・・その基実<は>、清盛の摂関家と結ぶ政策の一環として、その女の盛子と結婚し<ている>。
また、その基実が・・・1166<年>に急死したあと、幼少だった基通を後見するという名目で<基通の実母ではない>未亡人盛子が基実の遺領の大部分を伝領したため、基通も平氏との関係が深く、清盛の女の寛子と結婚した。
一方、<この基通は、>その容姿などから後白河院の寵愛を受け、・・・1183<年>の平氏都落ちの際には、その計画を後白河院に告げて、院が平氏に同行させられるのを防ぎ、後鳥羽天皇の践祚に伴って、後白河院が九条家の兼実<(注30)>などを退けて摂政に即けるが、平氏滅亡後は、源頼朝と結んだ九条家の兼実が摂政になり、後白河院の死去で後ろ盾を失う。
(注30)1149~1207年。「官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。・・・五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。・・・
同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が・・・いる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F
そのように考えると、行綱の行動の背後には、【後白河院-基通(基実)-行綱】というネットワークのつながりの強さ<が>あり、後白河院と近衛家への忠誠が行動原理だったことが推測できるのである。
さらに、そうした基通と九条家の人々との関係の悪さも気になるところである。
九条家の人々の書き残した言葉からは、基通ら近衛家の人々に対する厳しい敵意のようなものが感じ取れる。・・・
ここで思い出されるのが、・・・鹿ケ谷事件の行綱の密告の真偽である。
・・・川井康<(注31)>・・・説のような、行綱の密告が事件後に広まった噂だとする考え方が真相であったとしたら、その噂が<慈円著の>『愚管抄』に書いてあり、・・・<兼実の同母弟であったことから>九条家と近い立場だった・・・慈円<(注31)>と深い関りの中で成立したとされる『平家物語』に当初から取りこまれたことを考えあわせると、・・・そこに基通を介在した行綱に対する慈円の感情を見たくなるのである。・・・」(清水由美子(注32)「『平家物語』における多田行綱–「裏切り者」と言われた男の素顔–」より)
(注31)1958年~。神戸大文卒、同大院博士課程単位取得退学、同大博士(文学)、現在日大経教授。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784062919883
(注32)「清水由美子さん・・・は千葉大学卒業後、高校教諭を務め、3人の息子を育て終えて、千葉大の修士課程・東大の博士課程に入学、本書はその学位論文です。地方の旧家の長男の妻という大役も果たし、現在は複数の大学非常勤講師を掛け持ちし、どの役もしっかりこなしている、という体力気力十分の人。」
https://mamedlit.hatenablog.com/entry/2019/09/30/192053
清泉女子大、中大、成蹊大、白百合女子大等非常勤講師。
https://kachosha.com/books/9784909832214/
現在、東大教養学部の「日本語日本文学」担当の客員教官?
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/zenki/2020A_syllabus_intermediate_integrated.pdf
—————————————————————————————–
(続く)