太田述正コラム#11622(2020.10.28)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その18)>(2021.1.20公開)

 24日に北条時政は頼朝の代官として千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。
 [11月25日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。]
 28日に時政は吉田経房<(注44)>を通じ義経らの追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせることに成功する(文治の勅許)。

 (注44)1142~1200年。「藤原北家勧修寺流吉田家・・・右衛門権佐・・・<、引き続き>左衛門権佐<と、武官職も経験。>・・・<最終>官位は正二位・権大納言」
              光房-|
                 |-経房
            俊忠- ○-|  
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E7%B5%8C%E6%88%BF

⇒「1181年・・・に参議に昇進し、2年後に従三位に昇叙した頃から、一転して源頼朝の友人の一人として経房の名前が突然浮上する事になる。今まで平氏政権の下で順調に出世し、反平氏の行動と全く無縁であった彼がなぜその地位を手に入れたのかは判然としない。これについては経房が兄・信方と共に2代にわたって伊豆守であり、伊豆国の在庁官人であった頼朝の義父・北条時政と交流があったという説がある。また経房と頼朝の関係を見ると、二人ともかつては上西門院の側近で面識があったと考えられる。」(上掲)とされるが、そういうことではなく、経房は、大江兄弟の実父である光能とは従兄弟であるところ、素性を偽っていることから、大江兄弟のどちらも、朝廷と直接仲介役を務めるわけにはいかないので、武家総棟梁と朝廷との仲介役は、経房が務める、という話が、(1183年まで存命していたところの)光能、と、経房、の間でできていたのではなかろうか。(太田)

 12月には「天下の草創」と強調して、院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、九条兼実への内覧宣下といった3ヵ条の廟堂改革要求を突きつける・・・。議奏公卿は必ずしも親鎌倉派という陣容ではなく、院近臣も後に法皇の宥免要請により復権したため、頼朝の意図が貫徹したとは言い難いが、兼実を内覧に据えることで院の恣意的な行動を抑制する効果はあった。

⇒経房は、従って大江兄弟も、後白河/摂関家嫡流、の頼朝に対する厳しい評価を熟知しており、そのことを仄めかしつつ、頼朝をなだめすかして、「天下の草創」を骨抜きにすることを頼朝に黙認させたのだろう。(太田)

 ・・・1186年・・・3月には法皇の寵愛深い摂政の近衛基通を辞任させ、代わって兼実を摂政に任命させる。

⇒後白河は1192年に亡くなるが、後鳥羽天皇は、「1196年・・・11月、<基通を>再び関白に任じら・・・(建久七年の政変)<ており、彼は、>・・・1198年・・・正月には土御門天皇の践祚と共に摂政に任じられる<ことになる>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E9%80%9A
ところ、これも(1199年1月まで存命の)頼朝は黙認したわけだ。(太田)

 4月頃から義経が京都周辺に出没している風聞が飛び交い、頼朝は貴族・院が陰で操っていることを察して憤る。5月12日には和泉国に潜んでいた源行家を討ち取った。頼朝は捜査の実行によって義経を匿う寺院勢力に威圧を加え、彼らの行動を制限した。その間に発見された義経の腹心の郎党たちを逮捕・殺害すると、院近臣と義経が通じている確証を上げる。11月、頼朝は「義経を逮捕できない原因は朝廷にある。義経を匿ったり義経に同意しているものがいる」と朝廷に強硬な申し入れを行なった。朝廷は重ねて義経追捕の院宣を出すと、各寺院で逮捕のための祈祷を大規模に行うことになった。京都に見捨てられた義経は、奥州に逃れ藤原秀衡の庇護を受けることとなった。
 <その後のことは略す(太田)。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D

⇒頼朝と義経を共倒れにするという目論見はうまくいかなかったとはいえ、後白河/摂関家嫡流(藤原基通)、の頼朝への嫌悪感の大きさが、改めて窺えるというものだ。(太田)

 「頼朝は義経や奥州藤原氏の怨念を鎮めるために鎌倉に永福寺を建立したが、現在は廃寺になっている。この寺を巡っては『吾妻鏡』・・・に、左親衛(北条時頼)が「頼朝は自らの宿意で義経・泰衡を討ったもので彼らは朝敵ではない」として永福寺の修繕を急かす霊夢を見たことが記されており、少なくとも『吾妻鏡』が編纂された頃には義経の名誉が回復されていたことを示している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C

⇒これは、北条時頼がかつての後白河らのスタンスに立ったということではなく、頼朝が、愚かにも、義経を始めとする河内源氏の有力武士達を殆ど殺害してくれたおかげで北条得宗家が鎌倉幕府を簒奪できた、という冷徹な評価を頼朝に対して下していた、ということだと思う。(太田)
—————————————————————————————–

(続く)