太田述正コラム#11626(2020.10.30)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その20)>(2021.1.22公開)
「・・・1192<年>8月9日・・・実朝は頼朝・政子夫妻の次男として誕生した。・・・
幼名(ようみょう)は「千幡(せんまん)」、乳付(ちつけ)役は政子の妹阿波局(あわのつぼね)、北条氏が千幡の乳母夫(めのと)(後見)となった。
ここに頼家<(注50)>の乳母夫比企氏<(注51)>との確執の因が生まれた。
(注50)「北条氏と2代将軍源頼家との争いが激化し、・・・1203年・・・5月19日に北条氏側と見られた・・・阿野全成・・・が頼家の手の者により謀反人として捕らえられて殺害された。頼家は<全成の妻の>阿波局も逮捕しようとしたが、政子が引き渡しを拒否する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E5%B1%80_(%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%A8%98)
「実朝が暗殺された後、<全成と阿波局の四男の>時元が謀反の疑いで義時の命により誅殺される」(上掲)
阿野全成(あのぜんじょう。1153~1203年)は、義朝の側室の常盤御前の子で、義円、義経、の同母兄。「父義朝が敗死したため幼くして醍醐寺にて出家させられ<たが、>・・・1180年・・・、以仁王の令旨が出されたことを知ると密かに寺を抜け出し、・・・石橋山の戦いで異母兄の頼朝が敗北した直後の8月26日、佐々木定綱兄弟らと行き会い、・・・匿われ・・・10月1日、下総国鷺沼の宿所で頼朝と対面を果たした。兄弟の中で最初の合流であり、頼朝は泣いてその志を喜んだ。・・・
<全成が殺害された後、その>三男の・・・頼全(よりまさ/らいぜん)<も>京都・・・で・・・殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E5%85%A8%E6%88%90
(注51)「比企氏(ひきし)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)を領した藤原秀郷の末裔を称する関東の豪族。・・・
一族である比企尼が源頼朝の乳母を務めた関係から、比企氏は早い時期から頼朝を支えた御家人となる。比企氏の家督を継いだ能員<(よしかず)>が、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍となる頼家の乳母父となった事から、将軍外戚として権勢を強めた。しかし頼家の母方の外戚である北条氏との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、一族は滅亡した。・・・
・比企尼…頼朝乳母。流人となった頼朝を20年間支援し続けた。夫の死後、甥の能員を猶子として比企氏の家督を継がせた。
・丹後内侍…比企尼長女。安達盛長室。娘が源範頼に嫁ぐ。
・河越尼…比企尼次女。河越重頼室。頼家乳母。娘が源義経に嫁ぐ。
・三女…伊東祐清室、のち平賀義信室。頼家乳母。子に平賀朝雅。
・比企能員…比企尼の甥。猶子となって比企氏を継承。比企の乱で死亡。
・若狭局…能員娘、頼家側室。一幡母。比企の乱で死亡。
・比企余一兵衛尉…能員嫡男。比企の乱で死亡。
・比企宗員…能員三男、頼家近習。比企の乱で死亡。
・比企時員…能員四男、頼家近習。比企の乱で死亡。
・比企五郎…能員五男。比企の乱で死亡。
・比企能本…能員末子、比企の乱時2歳。出家して妙本寺を建立。・・・
・比企朝宗…能員兄弟。
・姫の前…朝宗娘。北条義時室。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E6%B0%8F
⇒「確執」はあったにせよ、最初に北条氏に攻撃をしかけ、その過程で、自身の身内(伯父)の全成を殺害した頼家は、紛れもなく、頼朝の哀しい性を受け継いでいた、というべきでしょう。(太田)
・・・1199<年>1月、頼朝が急死し、頼家が二代将軍になると、北条・比企両氏の確執は顕在化した。
・・・1203<年>8月、頼家が病で危篤に陥ったのを機に、北条氏は攻勢をかけて比企氏を滅ぼす。
比企の乱<(注52)>である。
(注52)比企能員の変。「源頼朝の死後、18歳の嫡男頼家が跡を継ぐが、3か月で訴訟の裁決権を止められ、十三人の合議制がしかれて将軍独裁は停止された。合議制成立の数か月後、頼朝の死から1年後に将軍側近であった梶原景時が御家人らの糾弾を受けて失脚し、一族とともに滅ぼされる(梶原景時の変)。侍所別当であり、将軍権力を行使する立場として御家人達に影響力をもつ忠臣景時を失った事は、将軍頼家に大きな打撃となる。
景時亡き後、頼家を支える存在として残されたのは、頼家の乳母父であり、舅でもある比企能員であった。・・・
この比企氏の台頭に危機感を持ったのが、頼家の母北条政子(尼御台)とその父時政である。・・・
<もっとも、>表面的に北条氏の活躍が目立つものの、実際は東国有力御家人の諒解のもとにこの事件は進行したと考えられる。・・・
<更に言えば、>頼朝死後の鎌倉幕府将軍の権力は、将軍職は頼家が継いだものの、生前の頼朝がもっていた地位と権力は実際は政子と頼家により分掌されていたと見ることも出来よう。つまり政子の関与により頼家から実朝への将軍職委譲がなされたという事件の側面をみることができる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E8%83%BD%E5%93%A1%E3%81%AE%E5%A4%89
奇跡的に回復した頼家は出家させられた上、伊豆の修善寺に押し込められ、翌年、殺害された。
享年23。・・・」(67~68)
⇒「1203年・・・7月20日:頼家が急病に倒れる。8月27日:頼家の容体が危篤と判断されたため家督継承の措置がとられ、関西三十八カ国の地頭職は弟の千幡に、関東二十八カ国の地頭職並びに諸国惣守護職が嫡男の一幡によって継承された。すると一幡の外祖父・比企能員は千幡との分割相続となったことに憤り、外戚の権威を笠に着て独歩の志心中に抱き、謀反を企てて千幡とその外戚以下を滅ぼそうとした。9月2日<:>能員が娘若狭局を通じて頼家に北条時政を討つように訴えると、頼家は能員を病床に招いて時政追討の事を承諾した。これを政子が障子の影から立ち聞きし、事の次第を時政に知らせる。時政は大江広元に能員征伐を相談すると、広元は明言を避けつつもこれに同意する。そこで時政は仏事にこと寄せて能員を名越の時政邸に呼び寄せ・・・誅殺した。」(上掲)というわけですが、大江広元が北条氏と手を結んだのは、彼自身、(故人である)後白河と藤原基通、の頼朝観を、その朝廷人脈を通じてうすうす知っており、私同様、頼家の全成誅殺で、頼朝家そのものを見限るに至っていたからではないでしょうか。
なお、実際に、日本の権力が、一幡(比企)系の東日本権力と千幡(実朝/北条)系の西日本権力に分割されていたら(大きな変化は起きなかったとは思いますが)歴史がどう展開したか、見てみたかった気もします。(太田)
(続く)