太田述正コラム#1257(2006.5.26)
<ルソーの正体(その1)>
1 始めに
小林善彦先生は、駒場の時のクラス担任でフランス語の教師(助教授。後に東大教養学部教授を経て学習院大学教授)でしたが、ルソー(Jean-Jacques Rousseau。1712??78年)の研究家でもあり、東大紛争中は、私の発案で有志で小林先生を囲んでカミュの「異邦人」を読む勉強会をしたり、私の米国留学の際には推薦状(もちろん自分で書く)に署名していただいたり、大変お世話になりました。
ですから、余りルソーの悪口は言いたくはないのですが、今回は、ルソーの人格を問題にしたいと思います。
(以下、特に断っていない限りhttp://books.guardian.co.uk/review/story/0,,1762868,00.html(4月29日アクセス)、及びhttp://www.nytimes.com/2006/03/13/books/13masl.html?ei=5090&en=50626c87070a4ff3&ex=1299906000&partner=rssuserland&emc=rss&pagewanted=print(5月26日アクセス)による。)
2 人格破綻者ルソー
英国を代表する哲学者と言ってもよいデービッド・ヒューム(David Hume.1711??76年 )が、比類ない人格者であったことは、彼の友人のアダム・スミスを始め、衆目が一致しているところです。
ところが、そのヒュームが、好意を仇で返されてひどい目に遭わされた人物がいます。ルソーです。
話は1763年に遡ります。
当時のヒュームはロンドンに住み、ベストセラーとなった「イギリス史」の著者となり、かなりの収入がありました。
しかし、イギリス人はこの本(六巻本)は好きでも、著者は嫌いでした。ヒュームはホイッグ党支持者ではなく、キリスト教徒でもなく、しかもスコットランド人であったからです。さりとて、故郷のスコットランドに帰る気もヒュームにはありませんでした。この年、スコットランドの首相がヒューム以外のスコットランド人を公式歴史編纂官に任命したからです。
そんな彼のところに、新任の駐パリ・英国大使の補佐官にならないかとの話が舞い込み、ヒュームは一も二もなくこの話に飛びつきます。
パリに行ってみると、ヒュームは、フランス人の間で既に人気者となっていた自分を発見します。すっかり良い気分になったヒュームは楽しいパリ生活を始めるのです。
やがて、ヒュームは、1765年の暮れにパリのサロンの一つでルソーと出会います。
英国大使の任期が1766年に切れたため、イギリスに戻ることになたヒュームは、サロン主の一人(当然女性)から、ルソーの亡命に手を貸して欲しいと頼まれ、引き受けることにしました。
ルソーには当時、「社会契約論」(「人は自由に生まれたが、あらゆるところで鎖につながれている」という有名な出だしで始まる)と小説「エミール」(僧侶の若者教育に果たす役割を否定した)を書いた廉で逮捕令状がフランスで出ており、彼の著作は発禁処分をくらっていました。そこでルソーは故郷のスイスに逃げたところ、そこでも迫害を受け、進退窮まっていたのです。
ヒュームのフランスでの友人達は、揃ってヒュームがルソーを連れて行くことに反対しました。
ダランベール(D’Alembert)やディドロ(Diderot)は、二人ともルソーにひどい目にあったので絶交したという経験を教えましたし、ドルバッハ男爵(Baron d’Holbach)に至っては、間違いなくルソーに君は手を噛まれことになるだろう、「君は奴を知らない。はっきり言おう、君は胸に毒蛇を入れて暖めているようなものだ」とまで言って警告しました。
しかし、ここまで言われても、ヒュームは聞き入れなかったのです。
イギリスに着くと、まもなくルソーは正体を現します。
(続く)