太田述正コラム#11690(2020.12.1)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その52)>(2021.2.23公開)

⇒「近衛家実<は、>・・・左大臣をへて,・・・1206<年>摂政,氏長者となり,同年関白。以後・・・承久の乱(1221)前後の2カ月半を除いて,・・・1228・・・年まで・・・23年にわたり,土御門,順徳,後堀河の3代の天皇の摂政,関白をつとめた。・・・ただし政治の実権を握ったのは・・・1223・・・年以降のことである。この年院政をしいていた後高倉上皇が没すると,鎌倉幕府は使者を京都に送り家実への支援を表明,かくて家実の施政が開始される。その政治方針は伝統に回帰することにあり,復古的で消極的な措置がとられた。承久の乱で敗北した朝廷にとり,こうした施政は何の益にもならなかった。綱紀は弛緩し,財政は悪化する一方であった。家実はこうした事態に有効な手段を講じることなく,<1228>年に九条道家に政権をあけ渡す。」と本郷和人は書いています
https://kotobank.jp/word/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%AE%9F-1075400
が、家実が承久の乱直前に関白を解任された(私が推測するところの)真の理由を解明できないまま、彼を乱の後に復権させた、北条氏・・具体的には、北条氏べったりだった九条、西園寺両家・・の諜報能力の低さに呆れます。
 朝廷で実権を握ってからの家実の「消極的」治世は、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、に従い、日本の権力中朝廷に残されていた部分を幕府にできるだけ早期に、できるだけ多く、移譲させるのが目的で、そうすることが、北条氏にとって、その器の小ささから、北条氏の失権と将軍家へのれっきとした武家の総棟梁的な武家の将軍への就任をもたらす、という目論見に基づくものであった、というのが私の見方です。(太田)

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[近衛家実の目論見の「成就」]

一、後醍醐天皇に振り回された近衛経忠

家実-兼経-基平-家基-家平-経忠
          -経平-基嗣⇒
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E7%B5%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%B9%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%9F%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%B9%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%B9%B3

 「<近衛>家基には二人の子がおり、一人は鷹司家出身の妾が生んだ長男の家平(経忠の父)で、もう一人は亀山天皇の皇女が生んだ次男経平であった。家基の没後、二人はどちらが近衛家の嫡流かを巡って対立し、その争いはそれぞれの息子の代に受け継がれ、経忠は経平の子・基嗣と激しく争っていた。特に基嗣は後醍醐天皇の皇女を妻にしており、強力な対立相手のはずであった。だが、経忠は建武政権下において再び天皇から重用され、建武元年(1334年)2月右大臣・藤氏長者に復し、同2年(1335年)11月左大臣へと昇進する。・・・1336年・・・8月足利尊氏の入京に伴って持明院統の光明天皇が擁立された際には、再び関白宣下を受けた。
しかし、後醍醐が京都を脱して吉野に潜幸すると、天皇への旧恩から吉野朝廷(南朝)への参仕を決意。職を辞するも、当然認められなかった。
ついに・・・1337年・・・4月、京都を出奔して南朝へ赴いた。これに激怒した北朝側は経忠の関白職を解いて基嗣をその後任とし、子の経家・冬実は昇進停止となった。南朝では左大臣の任にあったものの、志を得なかったのか、・・・1341年・・・京都に戻っている。しかし、ここにおいても冷遇されたらしく・・・、藤氏長者の立場を利用し、関東の小山氏・小田氏に呼びかけて藤氏一揆(藤原氏同盟)を企て、自ら天下の権を執らんとしたという。この一件については、経忠が北朝との和睦工作を進めるに当たって、障害となる主戦派の北畠親房を排除する動きとの見方がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%BF%A0

二、後醍醐天皇を見切っていた近衛基嗣

 「当時近衛家の系譜は父・経平の代で分裂しており、基嗣はその嫡流の座を従兄の経忠(経平の兄・家平の子)と争った。出世争いは年長の経忠が先んじ、・・・1330年・・・、後醍醐朝で関白任官する(短期間で辞官)。基嗣はその後光厳朝で左大臣に至るが、・・・1333年・・・、鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇の重祚と前後して解任される。
 建武政権で登用された経忠は政権崩壊後、光明朝で関白に任ぜられる(建武政権においては、関白は廃止されていた)が、吉野に脱出して南朝を打ち立てた後醍醐天皇の下に馳せ参ずる。京の朝廷は経忠を解任し、後任の関白に基嗣を任じた。基嗣は室町幕府の誕生に関白として立ち会い、辞官後も内覧として朝政に加わった。経忠の一家は南朝の衰微と共に没落し、以降近衛家は基嗣の子孫を嫡流として続いてゆく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%97%A3

⇒基嗣は、腰の定まらなかった経忠とは違って、後醍醐の再中央集権化/日蓮主義なる大方針、よりも、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の本格的実現、すなわち、武家総棟梁による安定的な幕府の構築/地方分権化、を追求した、と見る。
 なお、近衛家基は1296年に36歳で亡くなっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%9F%BA 前掲
嫡子は経平だと考えてはいても、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想をその時点でまでせいぜい9歳であった経平には伝えていなかったであろうことも、嫡流争いをもたらした原因の一つではないか、と、私は想像している。
 そして、近衛経平は32歳で亡くなって関白に就任できなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%B9%B3 前掲
ので、同コンセンサス/構想を後醍醐天皇を含むところのそれまでの諸天皇から伝えられる機会がなかったが、その子の基嗣が関白に就任した時に、ようやく後醍醐から基嗣に伝えられた、と見たい。
 その上で、後醍醐が、自分の再中央集権化/日蓮主義の大方針を示唆した時に、基嗣はすぐに態度を明らかにすることを控えたがために後醍醐に馘首された、と。(太田)
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(続く)