太田述正コラム#11756(2021.1.3)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その20)>(2021.3.28公開)

⇒どうして信長が本能寺に宿泊していたのか、その本能寺とは何宗のいかなる寺で信長といかなる関係があったのか、という疑問を今まで抱かなかった自分は何と怠慢であったことよ、と慚愧に堪えない。
 島津斉彬が信徒になった日蓮正宗は日蓮本仏/勝劣派であったのに対し、本能寺は法華宗(本門流)で釈尊本仏/勝劣派、瑞龍寺は(狭義の)日蓮宗で釈尊本仏/一致派、という違いこそあれ、
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E3%83%BB%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97
https://www.kosaiji.org/hokke/monryu/
後醍醐天皇(非信徒)(コラム#省略)、織田信長(非信徒)、豊臣秀吉(非信徒)、島津斉彬(信徒)、が、日蓮宗、という一本のベクトルで繋がった、というわけだ。
 蛇足ながら、「直常<の>9人の子<の一人である>・・・幸若丸は・・・後に幸若舞を創始したと云う<し、>・・・織田氏も元々は斯波氏の被官であり、信長は幸若舞をこよなく愛して本能寺で光秀に殺される前にも幸若舞を舞ったと伝承される」
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/0ba195ed640fcfb6b5baf32deaafd62a
ところ、「元々は斯波氏の被官」の部分は史実で「光秀に殺される前にも幸若舞を舞った」の部分はフィクションだろうが、『信長公記』で信長に幸若舞を踊らせた太田牛一は、「斯波氏-日蓮宗-本能寺」という背景・舞台においてこそ、信長にその舞を踊らせたわけだ。(太田)
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[本能寺は信長の定宿にあらず?]

 「・・・信長が上洛した折には、必ず「本能寺泊」と思っている人が、いまだに多いようだ。
 実は信長の約49回の上洛中、天正年間の「本能寺泊」はたったの2回である(厳密には上洛当初の元亀元年〈1570〉7月と8月の2回もあるが、これらを加えても4回にすぎない)。
 この2回とは、最後の上洛となる天正10年5月29日と、1年前の天正9年2月20日である。
 ではその前はどこに宿泊していたのかというと、「妙覚寺泊」が約20回、「二条御新造(二条御所)泊」が14回、「相国寺泊」が6回、「知恩院泊」等々で、ことと次第によっては「本能寺の変」ならぬ「妙覚寺の変」と呼称する可能すらあったということである。
 つまり本能寺は、信長にとってさほど重要な寺ではなかった。最後となる「本能寺泊」は、たまたま信長上洛の護衛に駆けつけた嫡男信忠がすでに妙覚寺に詰めていたので、昨年宿泊した「本能寺泊」にしたということだったのだ。・・・
 信長が“たった2回”宿泊した本能寺は、大坂城完成までの仮の宿であり、しかも本堂の堂宇とは隔離された、あくまでも別館だったのである。
 たった2回の本能寺泊の実態にもかかわらず、「本能寺の神話化」、すなわち城塞化が続出するのである。・・・」(井上慶雪(注35)「本能寺は「織田信長の定宿」は大きな誤解である 本能寺の変にはなぜこんなにも誤謬が多いのか」より)
https://www.msn.com/ja-jp/money/career/%e6%9c%ac%e8%83%bd%e5%af%ba%e3%81%af%ef%bd%a2%e7%b9%94%e7%94%b0%e4%bf%a1%e9%95%b7%e3%81%ae%e5%ae%9a%e5%ae%bf%ef%bd%a3%e3%81%af%e5%a4%a7%e3%81%8d%e3%81%aa%e8%aa%a4%e8%a7%a3%e3%81%a7%e3%81%82%e3%82%8b-%e6%9c%ac%e8%83%bd%e5%af%ba%e3%81%ae%e5%a4%89%e3%81%ab%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%81%93%e3%82%93%e3%81%aa%e3%81%ab%e3%82%82%e8%aa%a4%e8%ac%ac%e3%81%8c%e5%a4%9a%e3%81%84%e3%81%ae%e3%81%8b/ar-BB1clk5P?ocid=UE03DHP
(12月30日アクセス)

 (注35)1935年~。早大文(仏文)卒、「電通勤務を経て、1978年、井上デザイン事務所設立。拈華菴茶道文化研究会主宰。茶の湯文化学会会員。明智光秀公顕彰会会員。」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%85%B6%E9%9B%AA_200000000189262/biography/

⇒約49回なる上洛回数中に、「当初の」本能寺泊2回が入っているのかどうか定かではないが、井上が、どうして最初から本能寺泊4回と書かないのか、理解に苦しむ。
 それはそれとして、すぐ気付くのは、本能寺の変の時、嫡男信忠が詰めていた妙覚寺も日蓮宗の寺であり、「妙覚寺は美濃国の戦国大名・斎藤道三との関係が深く、父とされる松波庄五郎は妙覚寺で得度しており(のち還俗)、また道三の四男は十九世の日饒である。日饒は織田信長にとっては義弟にあたり、信長は二十数回に及ぶ京への滞在において妙覚寺を宿所としたケースは18回に及び、本能寺に滞在したのは3回に過ぎない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E8%A6%9A%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
ことから、信長の日蓮宗への思い入れの強さは疑いの余地がない。
 (なお、今度は、信長の本能寺滞在は3回、とある。一体どうなっているのやら?)
 ちなみに、相国寺は臨済宗の「足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%9B%BD%E5%AF%BA
ところであり、誰でも知っている知恩院は、浄土宗の総本山だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%A9%E9%99%A2
 また、京都の日蓮宗の寺院群に関しては、既に1532~1536年の法華一揆の間にも法華衆(信徒達)が「京都市中に要害の溝を掘って・・・いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%80%E6%8F%86
くらいなので、「京都の法華衆<が>壊滅し、法華衆徒<が>洛外に追放され<てから>6年<後に、彼らの>・・・京都帰還<がなって>」(上掲)からも、それを「城塞化」と形容するかどうかはともかく、日蓮宗の諸寺に防護壁等は設けていたのではないかと思われ、信長らが上洛の際に宿所とするのにふさわしかった、ということは言えるのではなかろうか。
 いずれにせよ、信長は、「迷信・・・を嫌った<ことも私(太田)としては挙げたいが、>・・・南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用い、<既に記したように(太田)>京都では法華宗寺院を宿所に選ぶなど、一定の範囲で法華宗も信仰していた形跡が伺える・・・神田千里<(注36)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
ところだ。(太田)

 (注36)ちさと(1949年~)。東大文卒、同大博士(文学)、高知大助教授、東洋大教授、同大定年退任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%8D%83%E9%87%8C
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(続く)