太田述正コラム#11778(2021.1.14)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その31)>(2021.4.8公開)

 「結果的にせよ、御前沙汰こそが新たな室町幕府体制への大きな第一歩となった。
 これが鎌倉以来の理非糺明訴訟に依然こだわっていた直義との違いを生み出し、尊氏–義詮が勝利できた大きな原因の一つとなったのである。

⇒直義が「依然こだわっていた」ことを裏づける典拠を亀田は何一つ示してくれていないので困ってしまいます。
 私は、直義(と尊氏)は、室町幕府が発足した時、取敢えず、鎌倉幕府の諸制度をそのまま使っただけであって、もともと、それらの制度に「こだわ」りなどなかったと見ていますし、また、当時までに政治に関心を失うに至っていたと私が考えている直義が、尊氏/義詮による、かかる制度の変更に反対であった、とも、私は見ていません。(太田)

 ただし、こうした改革が目立つ成果を見せるのは、どうしても時間がかかる。
 室町幕府は、まだまだ存続をかけた大決戦を続けなければならなかったのである。
 7月・・・19日、ついに・・・直義・・・は、・・・使者<を>・・・尊氏の許へ派遣し、政務からの引退を表明した。
 義詮との不和をその理由に挙げた。

⇒「不和」というのは、政策的なものではなく、先に記したところの、二人のアイデンティティの違いに由来するものである、というのが私の見方であるわけです。(太田)

 尊氏はこれを受諾し、今度は義詮を政務担当者とした。・・・
 もっとも、御前沙汰の発足によって事実上はすでに<義詮は政務担当者として>復活していたが。・・・
 だが尊氏は思い直し、・・・使者<を>・・・派遣し直義に翻意を説得した。
 問答が7~8回に及び、直義はようやく政務復帰を了承した。
 22日には尊氏・直義・義詮の3人が面会し、誓約の告文<(注53)>(こうもん)を作成した。

 (注53)「1 神に対して申し上げること・願いごとなどを書き記した文書。つげぶみ。こうぶん。2 自分の言動に虚偽のないことを、神仏に誓ったり、相手に表明したりするために書く文書。起請文(きしょうもん)。こうぶん。」
https://kotobank.jp/word/%E5%91%8A%E6%96%87-497337

 表面上は円満解決を演出しているが、そもそも繰り返すように、この時点ではすでに義詮の御前沙汰が始動し、直義の引付方が消滅している。
 そうした体制をどうするか、なんら具体的に取り決めないままの和解に実効性が存在するわけがない。

⇒そういう問題なのではなく、直義の政治への関心の減退が問題の根源である、というのが私の見方であるわけで、恐らく、尊氏/義詮もそれは分かっていたけれど、直義を野に放てば、誰の旗印に彼が担ぎ上げられるか分からないので危なくて仕方がなく、さりとて、まだ、直義を物理的に抹殺する踏ん切りもつかない、ということが、尊氏の、このような揺れ動く対応をもたらしていた、と、想像している次第です。(太田)

 こんな茶番劇を演じている間にも、事態はどんどん推移していった。
 10日頃、播磨守護赤松則祐<(注54)>が興良親王<(注55)>を奉じて武力蜂起した。・・・」(144~145)

 (注54)のりすけ(1314~1372年)。「元弘の乱<の際、>・・・則祐は比叡山延暦寺に入って律師妙善と称しており、その縁によって後醍醐天皇の皇子で天台座主であった護良親王に付き従い、熊野、十津川、吉野城などで転戦した。・・・1333年・・・、護良親王の使者として倒幕の令旨を父・円心(則村)に届け、赤松氏は播磨で挙兵、父に従って東上し瀬川合戦にも従軍、京都の六波羅探題を攻撃する。・・・
 建武政権下において、足利尊氏が中先代の乱平定後に後醍醐天皇に反旗を翻すと父や兄らと共に尊氏に味方し、建武3年(1336年)に尊氏が後醍醐天皇方の北畠顕家や楠木正成に敗れ、九州へ落ち延びた後は父と共に播磨で待ち構えた。
 赤松氏の役目は後醍醐天皇方を播磨で足止めし、尊氏の再起の時間を稼ぐことで、父は播磨の広範囲に戦線を展開、則祐は感状山城で第二戦線の大将を命じられる。後醍醐天皇方の新田義貞によって坂本城を中心とする第一戦線が崩され、第二戦線の支城も次々に陥落するなか、則祐は奮戦し感状山城を守り抜く。白旗城下で激戦が展開されている最中に九州に落ちていた尊氏の所へ訪れ、東上を促す。
 ・・・1350年・・・、観応の擾乱の最中に父が没し、長兄・範資が当主及び播磨・摂津守護となるが、翌・・・1351年・・・に急死、遺領は分割され、摂津は甥の光範に与えられ、則祐は当主・播磨守護となる。この決定の理由については、舅が幕府の実力者佐々木道誉だったことと、長年父の下で功績を積み重ねてきたことが挙げられる。次兄・貞範が幕府に疎まれていたことも家督相続に繋がった。
 同年7月に護良親王の皇子・陸良親王を推載、南朝に降った。このため尊氏の嫡男・義詮の討伐を受けるが、直後に義詮の叔父・直義が京都から出奔したため、この軍事作戦は謀略で則祐の降伏は偽装ともされるが、真相は不明。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E5%89%87%E7%A5%90
 赤松氏は村上源氏季房流? 「赤松則祐の五男・有馬義祐の後裔・有馬豊氏は関ヶ原の戦いで東軍に属し、大坂の陣においても徳川方で功を挙げたことにより筑後国久留米に21万石を与えられて国持大名となり、宗家と明暗を分けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F
 (注55)おきよししんのう / おきなが(1236?~?年)。「後醍醐天皇の孫にして、大塔宮護良親王の王子。母は権大納言北畠師重の女(親房の妹)である。南朝から征夷大将軍に任じられ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 
(続く)