太田述正コラム#11780(2021.1.15)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その32)>(2021.4.9公開)

 「<7月>27日には、義詮の正妻渋川幸子が男児を出産し、・・・28日には、将軍尊氏が佐々木導誉を討伐するために近江国に出陣している。・・・
 佐々木導誉は赤松則祐の舅であった。
 則祐が挙兵して間もなく、彼も娘婿に同調して南朝に寝返ったらし<く、>・・・後村上の綸旨を賜っ<ている>。
 美濃の土岐氏も・・・綸旨を拝領したようだ。
 29日には、いよいよ義詮が播磨へ出陣する予定だったが、急遽延期された。
 これは、義詮軍に従軍するはずだった石橋和義<(注56)>が突然出家したためである。

 (注56)?~?年。「<和義と>同族の斯波高経・・・<は>足利尊氏は同年代であったが、高経と和義の官途の補任年代からみても和義も尊氏や高経と同年代であったと推察できる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E5%92%8C%E7%BE%A9
 「足利泰氏の庶長子斯波家氏の子広沢義利は上野国広沢郷を伝領し、広沢太郎を称した。その子の吉田義博は三河国吉田郷に移り住み、吉田三郎を称した。その子石橋和義は初め尾張、次いで石橋と称せられる。和義は足利尊氏に従い、尊氏西走の時、備前国三石城の守備を任された。和義は脇屋義助に包囲されながらも城を守りきり、戦功を上げた。これにより、伯耆国、備後国、若狭国などの守護を歴任したほか官途奉行、引付頭人、評定衆などと幕府の重役を歴任した。しかし・・・1363年・・・、再従兄弟である斯波高経と対立し、全役職を解かれて失脚してしまう。・・・
 正長・永享期に吉良氏や渋川氏とともに、足利一門の名門 御一家として幕府内において一目置かれるようになる。御一家は守護大名衆の列からは外れていたものの、格式としては三管領よりも上と位置づけられ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%B0%8F

 中間派の和義は、虚実入り混じった幕府内の政争に嫌気がさしたのではないだろうか。
 だが同日夜、義詮は思い直して出陣した。・・・
 ふと気づくと、尊氏–義詮父子はもちろん、尊氏派の諸将も大半が京都を出ていた。
 これは京都の直義を包囲して殲滅する尊氏の謀略である。
 そう解釈した直義は、桃井直常の進言に従って30日の深夜に京都を脱出して北陸へ向かった。
 これが、従来からの不動の定説である。
 しかし、これも果たして事実だったのであろうか。
 より正確に言えば、直義がそう解釈したのは確かだろうが、尊氏が本当に直義の包囲殲滅を意図していたかは疑問が残る。
 すでに述べたように、赤松則祐と佐々木導誉の南朝寝返りはほぼ事実であったと考えられる。
 包囲殲滅作戦は直義の誤解であった可能性を排除できない。
 尊氏にとって、直義の京都脱出は予想外の出来事であったかもしれないのである。

⇒直義を京に留め置くことは、尊氏も義詮も不在ともなれば、直義が一手に幕府の経常業務を処理する責任を負う形になる以上、かつまた、京には兵力が殆ど残っていない以上、直義を野に放つことを意味しない、と、尊氏は安易に考えたのに、そんな直義が京から逐電する形で、いわば自分で自身を野に放ってしまった、ということではないでしょうか。
 もとより、それは、直義自身のイニシアティヴによるものというよりは、桃井直常の使嗾に、直義が、無気力なまま無定見に従った、ということでしょうが・・。(太田)

 そうはいっても、少なくとも直義が北陸への向かったのは確かである。
 このとき直義に供奉した主な武将は、・・・大半が、擾乱第一幕において直義派として活躍した武将たちである。
 だが、この一行には大高重成<(注57)>が入っていない。

 (注57)?~1362年。「高師氏の甥で、高師直の父の従兄弟。・・・夢窓疎石と室町幕府草創期の実質的指導者足利直義の対話を記録した『夢中問答集』を出版。武威に優れ<ていた。>・・・直義と尊氏の側近高師直が対立するに至ると、重成は直義を支持し、そのため若狭守護職を没収された。しばらく直義に従っていた重成だが、後に尊氏に帰順し、再び若狭守護に再任されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%AB%98%E9%87%8D%E6%88%90

 かれは希望していたと思われる若狭守護に補任されなかったばかりか、官職も建武期の伊予権守に据え置かれたままで尊氏派の細川清氏に追い越された。
 努力に報いない直義に嫌気がさして、この時点で見限ったのである。
 また細川顕氏も直義には従わず、義詮から京都守護を命じられた。
 当時の顕氏は直義にもっとも忠実な武将であると世間に評されていた<、というのに・・。>
 このとき直義に従った武将も、全員が彼に心の底から忠誠を尽くしていたわけではないようだ。・・・
 8月6日までに直義は越前国敦賀へ到着し、金ケ崎城へ入城した。
 15年前に越前へ没落した新田義貞と、行動パターンがよく似ていることが指摘される。
 若狭は山名時氏、越前は斯波高経、越中は桃井直常、越後は上杉憲顕と、北陸は直義派の守護で占められており、信濃の諏訪氏や関東の上杉氏ともつながり、あるいは山陰の山名氏を介して九州の足利直冬とも連携が可能だった。
 こうした地理的特性が、直義が逃亡先に越前を選んだ理由だ。
 だが、これは直常が述べた意見で、直義自身の主体性は感じられない。
 尊氏・直義兄弟の和平はわずか5ヵ月で破綻し、観応の擾乱第二幕がはじまった。」(146~149)

⇒夫婦喧嘩よりも、もっとくだらない、賢兄と愚弟に対して係累や家臣達が二手に分かれていやいや無理やり起こさせたところの、兄弟喧嘩、を、我々が延々と目撃させられているといったところであり、犬も食わないどころの話ではありません。(太田)

(続く)