太田述正コラム#11782(2021.1.16)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その33)>(2021.4.10公開)
「足利直義の出奔を知った三条殿足利義詮は・・・1351<年>8月3日、将軍足利尊氏は同月5日に帰京した。
翌6日、尊氏は寝返ったばかりの細川顕氏を使者として越前国金ケ崎城に滞在する直義の許へ派遣し、帰洛して政務に復帰することを「懇望」した。
ここからも、尊氏が直義を欺く意図がなかったことがうかがえる。
また尊氏は、直義が力を入れていた南朝との講和交渉を継続することも表明した。
だが桃井直常の上洛を尊氏が拒んだため、これは実現しなかった。・・・
注目すべきは、この段階ですでに尊氏が関東へ下向し、義詮に京都の留守を託す構想が流布していることである。・・・
『太平記』<は、>・・・大軍を擁<するに至っ>たにもかかわらず直義が京都に攻め上らなかった理由を藤原有範<(注58)>(ありのり)の意見を採用したからとする。
(注58)1302~1364年。「父は『建武式目』の立案者のひとりである藤原藤範。・・・1316・・・年従五位下に叙し,・・・1336・・・年東宮学士,翌年少納言,・・・1338・・・年に弾正大弼,・・・1346・・・年に大学頭,翌々年に治部卿となる。光厳上皇の天竜寺供養願文の草案を作成,足利直義の養子直冬の侍読となり,<1346>年から・・・1351・・・年には室町幕府の禅律方頭人を務めた。観応の擾乱のとき(1350~52)には直義の北陸没落に供奉したが,その後帰京して・・・1357・・・年従三位に叙せられ,・・・1362・・・年に正三位,式部大輔となり,翌年駿河権守を兼任した。」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%9C%89%E7%AF%84-1105763
「禅律方<は、>・・・室町幕府に置かれた禅宗・律宗寺院(個人としての禅僧・律僧も含む)関係の訴訟等を取り扱った機関。室町幕府は禅律方を設けて禅律寺院を保護・統制したと推測される。禅律方の長官を頭人と呼称するが,この禅律方頭人の存在が確認できるのは,1337年・・・の細川和氏から79年・・・の某まで(一時期中止される)である。頭人・奉行等で構成される禅律方の職掌は,訴訟当事者の一方が禅律寺院(僧)である所務訴訟(所領関係の訴訟)等の裁許を行うこと(判決は頭人の奉書で発給される),またこれら寺院の規式の作成等であった。・・・
一三七九<年>に僧録制度が創設されて以後、その職務は僧録司に吸収された。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A6%85%E5%BE%8B%E6%96%B9-1180541
この時期の直義に主体性がなく、ただ周囲の思惑に沿って行動している様相がここからもうかがえる。
ここで登場する藤原有範は、藤原南家の中で儒学者を輩出した家系<(注59)>出身の公家である。・・・
(注59)貞嗣-高仁-保蔭-道明-伊文-永瀬-能通-実範-成季-永実-永範-孝範(藤原北家の者を猶子
としたもので非実子)-経範-茂範-広範-藤範-有範
-季兼-季範(熱田大宮司尾張員職の養子とな
る)-由良御前-源頼朝
-範忠 -娘(季範養女)-足利義兼
https://geocity1.com/okugesan_com/nanke3.htm
有範が京都攻めに反対した具体的な理由はよくわからない。・・・
実態は、京都に反攻できるだけの兵力が集まらなかっただけであろう。・・・
⇒藤範・有範親子が南北朝時代に足利氏に重用されたのは、藤原南家貞嗣流と、清和源氏嫡流筋(頼朝家と足利家)との密接な関係が背後にあったからでしょう。
ですから、有範は、足利家やその係累・家臣達から、政治軍事情勢についての情報が得られる立場にあった可能性があった、と思われます。(太田)
<他方、>尊氏は義詮を伴って近江国に出陣した。
その軍勢は200騎あまりであった。
こちらはこちらで、擾乱第一幕の痛手を回復していなかったようである。
だが<、やがて、>・・・尊氏軍はかなりの規模になった。・・・
9月20日頃から、尊氏と直義の講和交渉がはじめられた。
21日、直義は越前国を発して近江国へ向かった。
交渉は順調に進展した模様である。・・・
10月2日、尊氏と直義は・・・近江国錦織興福寺(にしこおりこうふくじ)で対面した。・・・
ところが、現実には講和は破綻していた。・・・
11日には、直義<は、>・・・関東下向の意思を表明した・・・。・・・
<当時、>尊氏派では義詮、直義派では桃井直常・石塔頼房くらいしか主戦派は存在せず、両軍の総大将の尊氏・直義以下ほぼ全員に厭戦気分が蔓延してい<た。>
それでも対立は収まらない。
何とも不思議な戦争である。」(151~153、156~158)
⇒「不思議」と書いているということは、亀田は、観応の擾乱が続いた理由はもとより、発生した理由すら分からない、と、言っているに等しいのであって、そんな筆者の手による『観応の擾乱』を読まされる我々はたまったものではありません。(太田)
(続く)