太田述正コラム#11786(2021.1.18)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その35)>(2021.4.12公開)
「南朝との講和手続きが完了した翌日の・・・1351<年>11月4日、将軍足利尊氏は京都から出陣した。
16年前、尊氏は中先代の乱に敗北した弟直義を救うために京都を発った。
今は、その弟を倒すために京都を出るのである。・・・
尊氏の出陣後、南朝から派遣された四条隆資・洞院実世が上洛し、11月7日に崇光天皇・皇太子直仁(なおひと)親王が廃されて、北朝は消滅した。
この直後くらいから、幕府は発給文書に南朝の正平年号を使用しはじめた。
この一事だけでも、最後まで北朝の観応年号を使い続けた直義とは雲泥の差である。
かつて北朝を擁立して幕府をひらいた後も、しばらく建武年号を使い続けた尊氏である。
正平年号の使用にも抵抗はなかったであろう。
一方直義は11月15日、鎌倉に到着した。
彼が鎌倉へ転進した理由は、関東地方が直義に忠実な上杉憲顕の勢力圏内だったからである。・・・
12・・・月11日、駿河国蒲原(かんばら)河原で尊氏軍と直義軍の戦闘があった。
尊氏軍が敵兵数百人を討ち取るかなりの大勝だったらしい・・・。
16日、直義は袖判下文を発給した・・・。
直義は、擾乱の最終段階でようやく恩賞充行を行使したのである。
しかし、時はあまりにも遅かった。
これが現存する直義の生涯最後の袖判下文となった。
<この>薩埵山包囲戦<(注62)>の最中、直義は伊豆国府から一歩も動かなかった。
(注62)薩埵峠(さったとうげ)の戦い。「『太平記』に<出てくる、>誤りである<ところの、>・・・「十一月晦日駿河薩埵山に打上り」とある・・・記述」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E5%9F%B5%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3)
に基づくミスノーマー。「駿河国の由比(静岡県静岡市清水区)・内房(静岡県富士宮市)一帯において・・・行われた<ところの、>・・・桜野の戦い」(上掲)と呼ぶのが正しい。
摂津国打出浜(直義本陣は山城国八幡)・近江国八相山(同じく越前国敦賀)のときとまったく同じ構図である。
戦場と本陣が違う国にあるのも同じだ。
直義の消極性と言えば、軍勢催促状にもそれが現れている。
擾乱第一幕においては、直義は武士に動員を命じる際、師直・師泰の誅罰を大義名分に掲げていた。
しかし第二幕では、その師直・師泰はもういない。
この時期においては、直義は尊氏軍を単に「嗷訴<(注63)>(ごうそ)の輩(ともがら)」などと称するのみであった・・・。
(注63)平安時代中期以後、僧兵・神人らが仏神の権威を誇示し、集団で朝廷・幕府に対して行なった訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す。・・・
強訴の理由は寺社の荘園を国司が侵害したり、競合する寺社が今までより優遇措置を得ることなどである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E8%A8%B4
最後まで尊氏を名指ししなかったのである。・・・
翌・・・1352<年>正月1日・・・直義は・・・伊豆国走湯山(そうとうざん)権現社・・・で尊氏の勧告を受け入れて降伏する。・・・
その後、尊氏は直義とともに正月5日に鎌倉へ入った。
こうして観応の擾乱第二幕は、尊氏の勝利で決着した。
尊氏の勝因は、宇都宮・薬師寺ら関東勢の奮戦であった。
関東地方を自己の勢力圏と考えて東国に転進した直義は、皮肉にも関東の武士に敗北したのである。
⇒そんなこと以前に、将軍の尊氏が、北朝に加えて南朝の威光まで背景にして、自ら直義征討軍を率いて東国に下向してきたのですから、禁治産者と形容してもおかしくないほど劣化してしまっていた直義に、というか、直義の旗印の下に蝟集した機会主義者たる足利氏係累及び家臣達に、もはや勝ち目など皆無だったのです。(太田)
ところで戦いの最中、鎌倉公方基氏は安房国方面へ逃れていたとする説もあるが、これを裏づける確実な史料は存在しない。
直義とともに伊豆国府にいたとするのが自然である。」(167~171、173)
⇒同母兄の義詮と違って、叔父の直義の養子となり、10歳の時に、鎌倉公方に任命されて直義と離れるまで、直義に育てられた基氏は、この時まだ11歳であり、当然、直義と一緒に行動した、と思われます。(太田)
(続く)