太田述正コラム#11792(2021.1.21)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その38)>(2021.4.15公開)

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[佐々木氏について]

 「宇多天皇の皇子のうち、第8皇子敦実親王の3男・雅信王が、・・・936年・・・に臣籍降下して源朝臣の姓を賜い源雅信と称した。公家華族としては、庭田家(羽林家)・綾小路家(羽林家)・五辻家(半家)・大原家(羽林家)・慈光寺家(半家)などが繁栄し、武家としては、源雅信の4男、源扶義の子孫の佐々木氏は、近江国を本貫として繁栄し、嫡流は六角氏、京極氏と分流して近江源氏と称されて繁栄した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E6%BA%90%E6%B0%8F
とあるが、敦実親王には武官歴すらなく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E5%AE%9F%E8%A6%AA%E7%8E%8B
源雅信(まさざね)に武官歴はいくつかあるけれど、子孫の武家化につながるような事績はなく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9B%85%E4%BF%A1
その子の源扶義(すけのり。951~998年)は、「一般の上流貴族子弟の昇進過程とは異なり、学問を志して大学寮に入り、25歳であった・・・975年・・・に文章生となる」という人物で、再び武官歴が皆無であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%89%B6%E7%BE%A9
その子で佐々木氏の祖となったとされる源成頼(なりより。976~1003年)については、「『尊卑分脈』を始めとする各種系図では近江国佐々木庄に居住し佐々木氏の祖となったされる・・・一方で、明治時代以降提唱されている佐々木氏の出自を古代豪族の沙沙貴山君に求める説では、佐々木氏祖の成頼と宇多源氏の成頼は同時代の同名異人である可能性を指摘している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%88%90%E9%A0%BC
ところ、私は、この同名異人説に与したい。
 清和源氏よりも後で武家化したのであれば、武家総棟梁候補となっても不思議はないのに、その気配もないから、ということもある。
 なお、宇多源氏より後の、醍醐源氏と村上源氏からも武家が出ている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%B5%81
が、この検証は他日を期したい。
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 「仁木氏は頼章・義長の兄弟で最大8ヵ国もの分国を獲得した。・・・
 次に注目されるのは、高一族の復権が目立つことである。・・・
 義詮は高重茂(師直実弟)を引付頭人に任命して事実上の執事とする一方で、師直<の子供の師秀と>・・・師泰<の子供の師詮>を守護に起用して一族の復権を図ったのである。・・・
 桃井直常・石塔頼房・上杉憲顕といった直義派の中核武将たちは、当然ながら分国をすべて没収された。・・・
 山名時氏<は、>いつの間にか幕府に復帰したが、・・・後にふたたび造反し、残<された>分国もすべて失ったらしい。
 ただし彼らが擾乱以前にこれらの国々で培った勢力基盤は強固で、多くの地域で実効支配を継続した模様である。
 やがてこれが、尊氏と直冬の死闘の伏線となるのである。・・・
 なお、東国の首都鎌倉を擁する相模国は、将軍尊氏自らが直接統治した。
 ここにも、尊氏の政治に対する意欲が擾乱以前よりはるかに強まっていることが明瞭に現れている。」(184~186)

⇒「”権限の分割”から”領域の分割”」へ、と亀田は言っていますが、1352年の段階では、南朝の陸奥将軍府がまだ残っており・・1353年に崩壊・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%BA%9C
また、坂東には、南朝の主柱であり続けたところの、新田氏系の勢力が残っていた上に、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%88%88 ←新田義興
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E5%AE%97 ←新田義宗
北条氏の残党もおり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E8%A1%8C ←北条時行
これらの脅威に対抗するために、日本を東西の軍管区に分け、本来であれば、西軍総監に義詮、東軍総監に基氏、をそれぞれ充てたかったけれど、元服したばかりの基氏は心許ない上、直義に育てられた基氏は心情的には直義派だった、ので、父親たる尊氏が、基氏の後見役兼監視役として坂東に残った、ということであり、「尊氏の政治に対する意欲<の>・・・強ま<り>」などという次元の話とは無関係の、切羽詰まった措置であった、というのが私見です。(太田)

(続く)