太田述正コラム#11796(2021.1.23)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その40)>(2021.4.17公開)

⇒それもこれも、尊氏の故後醍醐天皇に対する敬意が本物だったからこそだと私は考えていますが、彼は、後醍醐天皇の日蓮主義・・当然、日蓮の日蓮主義でもある・・をついに理解しないまま、いや、理解しないふりをしつつ(?)、その生涯を終えることになるわけです。
 私は、両者が歩み寄り、後村上天皇(1328~1368年。天皇:1339~1368年)が足利氏を武家総棟梁とする幕府を認め、尊氏/義詮が日蓮主義を受け入れた上でその対外的発動時期を判断する、というラインで、一統を実現することができたしそうすべきであった、と思うのですが、恐らく、物心がついた時から、父、後醍醐天皇の下を離れ、主として奥州で、北畠親房/顕家、に育てられた後村上が、実父・・後村上が10/11歳の時の1339年死去・・から、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を口伝される機会がなく、また、日蓮主義の薫陶を受ける機会もなかった、ということが最大の障害になった、と、取敢えずは想像しています。
 (但し、後村上の実母であるところの、「官僚・政治家として高い能力があった・・・尼将軍北条政子を彷彿させる」阿野廉子(1301~1359年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E5%BB%89%E5%AD%90
の影響も考えてみる必要があるところ、それは、今後の課題にしたいと思います。
 なお、私見では、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を知っていた、と、私が見ているところの、近衛経忠(1302~1352年)、が、関白の時の1337年4月に、北朝から南朝に移って、1341年に京に戻るまで南朝の左大臣を務めており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%BF%A0 前掲
即位後の後村上天皇に、このコンセンサス/構想を伝達したと想像されるけれど、後村上が聞く耳を持たなかったことに絶望し、だからこそ、経忠は京に戻ったのではないでしょうか。)
 この結果、日本国内で過剰な軍事力がせめぎ合う状態が維持され放置されることとなり、室町時代は、始まった直後の観応の擾乱から始まる内乱が、基本的に、室町幕府が滅び、更には、徳川幕府が成立して豊臣家が滅亡するまで、続くことになってしまうのです。
 (もっとも、室町幕府の時代に、日本は、それが全歴史を通じて常態であり続けたところの広義の欧州同様、というか、欧州以上に、生産力/人口、の増を経験することになる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
と共に、この時代の終わり近くに、豊臣秀吉による日蓮主義の不完全燃焼的実行があるわけですが、こういった話は、別の機会に譲りたいと思います。)(太田)

 「さて、西国戦線はどうであったか。
 20日に南朝軍が京都に攻め入り、義詮が近江国へ没落したことはすでに述べた。
 このとき南朝は、北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光天皇・皇太子直仁<(注69)>親王の身柄を拘束し、翌21日に八幡<(注70)>へ連行した。

 (注69)1335~1398年。「花園天皇の皇子で、母は宣光門院正親町実子とされているが、実際には光厳天皇(花園天皇の甥)が正親町実子と通じて産ませた皇子であった。・・・
 本来、父の花園天皇は持明院統においては傍流であり、その皇位は嫡流である後伏見天皇-光厳天皇-崇光天皇の系統に引き継がれるものと考えられていたために親王は皇位継承に与れる立場にはなかった。・・・
 ところが、・・・1348年・・・に元服すると光厳天皇の猶子として皇位継承権が与えられ、その年の10月27日に義兄にあたる崇光天皇の皇太子に立てられた。
 光厳院は大恩ある花園院に報いようとこうした行動に出たと推測されてきたが、近年になって宣光門院の兄である正親町公蔭の正室と足利尊氏の正室が姉妹である事実が指摘され、光厳院は直仁の義理の伯父である尊氏に直仁を後見させて北朝(持明院統)を維持しようとしたとする見方も出てきている。」
伏見天皇※-後伏見天皇※-光厳天皇-崇高天皇 -○    - ●    -後花園天皇※⇒現皇室
                -後光厳天皇-後円融天皇-後小松天皇※-称光天皇※
                -直仁親王
            -光明天皇
     -花園天皇(—直仁親王)    ※「正規」の天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 (注70)当時は男山八幡宮と呼ばれていたところの、石清水八幡宮のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE

 ここに北朝は、一時完全に消滅してしまったのである。
 三種の神器もすでに没収されていたので、ここに室町幕府は正統性の上で重大な問題を抱えることになった。・・・
 北朝の天皇・二上皇・皇太子は、結局賀名生に連れ去られ、義詮は彼らを奪還することはできなかった。」(194~196)

(続く)