太田述正コラム#11804(2021.1.27)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その44)>(2021.4.21公開)

 「<同じ1353年の>翌7月10日、義詮は反撃に転じて美濃国垂井<(注74)>を出発した・・・。

 (注74)「岐阜県西部(西濃)<に位置する。>・・・645年<に>・・・美濃国府が設置<される>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%82%E4%BA%95%E7%94%BA

 23日、西国からも赤松則祐と石橋和義の援軍が摂津国西宮まで進出した。
 翌24日、山名時氏–師義父子・石塔頼房以下の南朝軍は没落した。
 25日に石橋和義・赤松則裕・松田信重<(注75)>(まつだのぶしげ)(備前守護)が大軍を率いて入京し、義詮も翌26日に京都に戻った。

 (注75)松田元國が備前松田家初代。「鎌倉幕府崩壊の直前、神奈川七曲山城より備前国伊福郷に移転して鎌倉9代将軍:守邦親王に奉仕し、その功によって備前国守護に任ぜられた。」元國–??–重泰-信重
 備前松田家の子孫に、宇垣一成、土光敏夫(日蓮宗信徒)、八千草薫(旧本名は松田瞳)、がいる。
http://yakiniku-yaoki.com/matsudake-kouhen.pdf
 七曲山城は、現在の神奈川県松田町・・大井松田インターチェンジ!・・に所在した。「「備前松田系図」では、「・・・1219<年>に藤原秀郷流藤原元信が松田邑に館・・七曲山城・・を築き、依って地名を以って松田姓を名乗る」とある。
 「相模松田氏、備前松田氏ともに当初は反幕府で一致し、建武政権樹立に協力するが、相模松田氏は現状維持し後醍醐天皇方(新田氏)に協力し抵抗、観応3年(1353)以後新田氏の敗退とともに勢力が衰えた。一方備前松田氏は、足利氏とともに足利政権に協力し、「備前守護」となり地番を固め、50余年に及ぶ南北朝時代を乗り切った。・・・
 備前松田氏は、室町幕府体制のもと・・・備前一宮社、日蓮宗などを信奉のもと政教一致政策で約250年間西備前一帯を治めた。
 その間備前松田氏は、・・・1375<年>以降京都室町幕府にて備前国では唯一松田氏一家ののみ将軍近習や奉公衆として活躍する」
https://town.matsuda.kanagawa.jp/uploaded/life/9302_16807_misc.pdf

 こうして西国の上京を東国から見ていた尊氏は、いよいよ京都に戻ることを決意した。・・・
 1351<年>11月以来の尊氏–義詮父子の東西分割統治体制は、1年10ヵ月で解消したのである。・・・
 尊氏は9月はじめに美濃国に到達し、依然垂井に滞在していた後光厳天皇に拝謁した。
 その後迎えに来た義詮とともに、同月21日に後光厳を奉じて入京した・・・。・・・
 尊氏の関東統治における最大の遺産は、鎌倉府の整備であろう。・・・
 初期の鎌倉府の権限は非常に制限されていた。
 特に恩賞充行権が認められていなかったのが致命的であった。・・・
 だが将軍尊氏が東国に下向し、大量の恩賞充行袖判下文を発給して東国の武士たちに所領を給付した。
 尊氏が帰った後も、残った公方基氏には恩賞充行権が認められ、公方は独自に恩賞の給付を行うことが可能となった。
 そして京都の幕府と同様、公方の充行に関東執事が施行状を付して、守護や両使に沙汰付を命じる体制となった。
 すなわち、鎌倉府は将軍尊氏によって基礎が据えられた、京都の幕府の仕組みを東国に移植した組織であったとも評価できるのである。
 尊氏の死後、基氏は旧尊氏派の諸将を排除し、旧直義派の上杉氏を鎌倉府に帰参させる。
 これは基氏が叔父にして養父であった足利直義を敬愛していたからであるとも言われるが、尊氏のときに作られた組織や制度は基本的に継承された。
 観応の擾乱は、東国にも大きな変化をもたらしたのである。」(203~205)

⇒客観的には、日本の封建社会化の停止/再中央集権化の是非が問題となっていた、というのに、尊氏の一存で、日本の権力を事実上2人が担う体制が導入されてしまい、既に広義の戦国時代化してしまっていた室町時代は、一層の地方分権的な不安定化要因を抱え込むことになってしまった、ということであり、これは観応の擾乱の過程で生じたことではあっても、擾乱がもたらしたもの、とは必ずしも言えないでしょう。
 尊氏には、基氏が直義を敬慕していたことは分かっていたはずであり、これは、事実上、直義「家」に日本の権力の一半を恒久的に与えたに等しい、尊氏の愚行でした。
 亀田はこの尊氏による措置を評価しているようですが、そのような評価には、私としては、強い違和感を覚えます。(太田)
 
(続く)