太田述正コラム#11814(2021.2.1)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その1)>(2021.4.26公開)
1 始めに
今度は、表記のさわりをご紹介し、私のコメントを付します。
御承知のように、このところ、日本の通史に取り組んでおり、有料コラムで、特定の時期を通史的に取り上げた新書版程度の書物のさわりをご紹介してコメントを付し、書物と書物の間の期間は、基本的にオフ会「講演」原稿で対応する、というやり方で観応の擾乱まで来た、という経緯があります。
今、困っているのは、応仁の乱の時期の後に来る戦国時代について、通史的に一人の著者がカバーした新書版程度の書物がなさそうなこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
です。
ご推奨の本があったら、若干大部のものでもいいので、教えていただければ幸いです。
さて、表記の本の著者の呉座勇一(1980年~)(コラム#9118、9561、11720、11724)は、東大文(日本史)卒、同大博士(文学)、同大院研究員、学術研究院、国際日本文化研究センター客員准教授、同センター助教、角川財団学芸賞受賞、書店新風賞特別賞(本書)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E5%BA%A7%E5%8B%87%E4%B8%80
という人物です。
2 『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む
「・・・大正10年(1921)に東洋史家の内藤湖南<(注1)>は公演「応仁の乱に就て」で次のように述べている。
(注1)1866~1934年。南部藩士の子。秋田師範学校卒、「10年間ジャーナリストを務めた後、1907年(明治40年)に京都帝国大学文科大学史学科(同年、学生募集開始)東洋史学講座講師に就任、1909年(明治42年) には京都帝大教授になった。講師となって以後、東洋史担当講座に足掛け20年務め、同僚の狩野直喜・桑原隲蔵とともに「京都支那学」を形成、京大の学宝とまで呼ばれた。
1910年(明治43年)、教授在任期間が1年となったため、狩野亨吉総長の推薦により文学博士(京都帝国大学)。主著の一つである『清朝史通論』は、この博士号が慣習によるものであったため、自身が博士論文に相当する論考を書かねばならないと決意し執筆したもの。同論文自体は博士学位論文ではない。
東京帝国大学の白鳥庫吉とは「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称された。特に邪馬台国の所在地をめぐる論争では畿内説を主張し、九州説を唱えた白鳥と激しい論争が展開された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B9%96%E5%8D%97
湖南の父の内藤十湾(1832~1908年)は、「盛岡藩毛馬内の学者である内藤天爵(仙蔵)の息子として生まれる。幼い頃は父について儒教を学ぶ。・・・十湾は勤王派の那珂通高から強い影響を受け、その影響で吉田松陰に心酔していた。十湾は吉田松陰の東北旅行の際に実際に面会している。また、息子の内藤湖南の幼名である虎次郎の名は、吉田松陰の通称の寅次郎からとったものである。・・・
維新後は・・・経済的には厳しい状態であった<が、>・・・尾去沢鉱山所長の要望により、秘書として湖南を伴い尾去沢鉱山に赴き経済的にも安定し、湖南を秋田師範学校に入れた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E5%8D%81%E6%B9%BE
大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です。
それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬ・・・」・・・
なぜ内藤は応仁の乱に他の戦乱とは異なる特別な意義を見いだしたのか。
それは、応仁の乱が旧体制を徹底的に破壊したからこそ新時代が切り開かれた、と考えたからである。・・・
内藤によれば、応仁の乱によって戦国時代が到来し、世の中が乱れたことは平民にとっては成り上がるチャンスであり、歓迎すべきことだったというのである。
平和な現代日本に生きる私たちからすると、何とも物騒な主張である。・・・」(ii~iv)
⇒内藤のこの指摘ですが、太田コラムの一読者によってかつて紹介されたことがある(コラム#3412)ところ、少なくとも戦後日本を生きる我々にとっては、完全な間違いです。
昨今の太田コラムの読者であればどなたでもできるであろう指摘をしておきますが、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、に基づき、武士等武器を持った人々、が、全国津々浦々に出現するに至っていた平安末期までに、縄文性だけからなるプロト日本文明、が、縄文性と縄文的弥生性からなる日本文明、へと日本列島の文明が変貌したところ、縄文性はもちろん縄文的弥生性を理解するためにもプロト日本文明の何たるかを知ることが不可欠であって、要するに、日本文明を理解するためにはプロト日本文明をよく知ることが不可欠だからです。
内藤のように、戦国時代より前の歴史は外国の歴史、なんて言うのは言語道断なのです。
しかも、内藤湖南の生きた時代はまだ日本文明の時代だったけれど、今や、我々は、日本がプロト日本文明に回帰した時代に生きているのですからね。
かつてのプロト日本文明の時代の日本をよく知らずして、我々が生きている現代日本を理解することなど、到底不可能なのです。(太田)
(続く)