太田述正コラム#11832(2021.2.10)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その10)>(2021.5.5公開)

 「<1428年>8月、・・・後亀山院の孫である小倉宮<(注21)>・・・を擁した北畠満雅<(注22)>が挙兵した。

 (注21)「足利義満がまとめた南北朝合一の際、南朝の後亀山天皇の子である恒敦を後小松天皇の皇太子とする約束であったが、南朝系の天皇誕生を嫌う後小松天皇の思惑により、・・・1412年・・・8月、称光天皇が践祚する。それより以前にこの動きを察知していた後亀山上皇と恒敦は、・・・1410年・・・吉野に経済的困窮を理由として逃亡するが、本当は後小松天皇をはじめとする北朝側を牽制する目的があったのではないかとされる。しかし、この行動は結局何の意味もなさず、・・・1416年・・・に後亀山上皇は室町幕府の要請で京に帰還する。が、このときに恒敦は父に同行しておらず、この後も吉野でさらに抵抗を続けたと言われる。その後、恒敦は・・・1422年・・・7月15日に父に先立って亡くなる。
 ・・・1425年・・・頃には称光天皇の病状は悪化する。称光天皇には後継者の皇子がいなかったため、持明院統(北朝)嫡流の断絶が確実となった。そこで、南朝支持者は恒敦の遺児(後に出家して小倉宮聖承となる。・・・)らを次期天皇とする運動を幕府に起こすが無視され、称光天皇の後継者となったのは伏見宮家の後花園天皇であった。これに不満を持った聖承は・・・1428年・・・7月6日、伊勢国国司で南朝側の有力者である北畠満雅を頼って居所の嵯峨から逃亡する。満雅はこの当時幕府と対立していた鎌倉公方足利持氏と連合し、聖承を推戴して反乱を起こすが、持氏が幕府と和解したことにより頓挫、<同>年12月21日に満雅は伊勢国守護・土岐持頼に敗れ戦死する。その後も聖承は伊勢国に滞在したまま抵抗を続けるが、北畠家が赦免されたことにより、聖承の処遇が問題となり、結局聖承は京に戻されることとなる。このときの条件は聖承が「息子を出家させること」、幕府は「諸大名から毎月3千疋を生活費として献上させる」であった。このため、当時12歳の聖承の息子は出家し教尊と名乗り、勧修寺に入る。一方、幕府からの生活費献上の約束は守られることがなく、京に戻った後の聖承の暮らしは困窮の極みだったようである。
 その後、・・・1434年・・・2月に聖承は出家、この時点から「小倉宮聖承」を名乗る。・・・1443年・・・5月7日に聖承は死去。唯一の遺児と思われる教尊も禁闕の変への関与が疑われ隠岐島に流罪、のちに消息不明となり、小倉宮家は絶家した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E5%AE%AE
 北畠親房-顕能-顕泰-満雅
 「親房の三男北畠顕能は伊勢国司となり、以後の北畠家宗家は伊勢に定着した。室町時代に入っても伊勢で独自の勢力を持ちその支配形態は国司体制を維持するいわば公家大名というべきものであった。幕府の伊勢守護の勢力圏が北伊勢に限られたのに対し、雲出川以南の一志郡、飯高郡、飯野郡、多気郡、度会郡といった南伊勢は北畠家が掌握していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%AE%B6

 反乱の黒幕は将軍の地位を狙う鎌倉公方の足利持氏<(注23)>であるとの噂が流れ、幕府を震撼させた・・・。

 (注23)1409~1439年。基氏-氏満-満兼-持氏-成氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%9F%BA%E6%B0%8F 以下
 足利持氏(1398~1439年)は、「1413年奥羽の伊達氏,1417年上杉禅秀の乱を鎮定して勢力を増し,幕府との対立を強めた。将軍足利義持が没し,その弟義教(よしのり)が将軍になるに及び,1438年ついに持氏は挙兵したが,上杉憲実らに攻められ,翌年自殺した(永享の乱)。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%8C%81%E6%B0%8F-25224

⇒関八州を「領地」とした鎌倉公方家や伊勢国南部を「領地」とした北畠家だけからも、・・どちらも生成しつつあった大名領国制下の守護大名ではなく、前者は第二将軍家、後者は「国司」大名でしたが、・・早くもこの時期に、江戸時代の主要な各藩における藩訓(コラム#9902)の萌芽的なものが成立しつつあったことが見て取れます。
 足利持氏の後をかろうじて嗣ぐことになったけれど、苦労続きであったところの、成氏(1438~1497年)が、「1497年<の>・・・臨終の際に・・・嫡子の政氏<に、>「再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻すことが孝行である。何にも勝る弔いになる。」と言い残したとされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F
ことは象徴的です。(太田)

 問題はこれだけに留まらなかった。
 ・・・1428<年の>・・・正長の土一揆<(注24)>である。・・・」(26~27)

 (注24)しょうちょうのどいっき/つちいっき。「正長元年(1428年)8月から9月に起きた、室町時代の一揆の一つ。・・・凶作(前年からの天候不順)、流行病(三日病)、将軍の代替わり(足利義持から足利義量、義量から足利義教へ)などの社会不安が高まる中、近江坂本や大津の馬借が徳政を求めた。その一揆が畿内一帯に波及し、各地で借金苦に耐えかねた農民たちが酒屋、土倉、寺院(祠堂銭)を襲い、私徳政を行った。私徳政の根拠としては「代替わりの徳政」であるとされている。
 室町幕府はこれに窮し、管領・畠山満家に命じて制圧に乗り出し、侍所所司・赤松満祐も出兵したが、一揆の勢いは衰えず、9月中には京都市中に乱入し奈良にも波及した。・・・
 結局、幕府は徳政令を出さなかったものの、土倉らが持っていた借金の証文が破棄されたために私徳政が行われたのと同じ状態となった。また、大和では、国内のほぼ全域を自己の荘園化し、かつ幕府から同国守護にも補任されていた興福寺が徳政令を認めたために、公式な拘束力をもったものとして施行された(興福寺による徳政令の例として柳生の徳政碑文がある)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%9C%9F%E4%B8%80%E6%8F%86
 「碑文には
正長元年ヨリ
サキ者カンへ四カン
カウニヲ井メアル
ヘカラス
と3行半にわたって陰刻されており、読み下せば「正長元年より先は、神戸四箇郷に負い目あるべからず」となる。「正長元年より以前の、神戸(かんべ)四箇郷における負債は一切消滅した」という、徳政令の具体的内容を記したものと解釈されている。
 なお、「神戸四箇郷」とは大柳生庄、小柳生庄、坂原庄、邑地庄の4庄を指<している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%BE%B3%E6%94%BF%E7%A2%91%E6%96%87

(続く)