太田述正コラム#11846(2021.2.17)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その17)>(2021.5.12公開)

「応仁の乱・・・には様々な側面があるが、その本質は二つの大名連合の激突であったと言える。
 そして、そのような形で大乱が勃発したのは、室町幕府の政治体制そのものに原因がある。

⇒本書が、応仁の乱そのものの時系列的説明をしている長い部分は、一切取り上げないことにし、この個所まで飛ばしました。(太田)

 ・・・成立当初の室町幕府は諸将の反乱に悩まされた。
 南北朝内乱が落ち着いてくると、幕府は地方で戦っていた諸将に上洛を命じ、原則的に在京を義務づけた。
 彼らの動きを監視・統制しようとしたのである。
 その一方で、複数国の守護を兼ねる有力武将には「大名(たいめい)」<(注44)>として幕府の意思決定に参加することを認めた。

 (注44)「室町時代の辞書『節用集』には、「たいめい」・「だいみょう」の2音を載せ、前者は守護(大領主)、後者は銭持(富裕層)の意であるとした。戦国時代には音による意味の区別が薄れ、「たいめい」と呼ぶことが多かったとされる。17世紀初頭の日葡辞書にも「だいみょう」・「たいめい」の2音が掲載されているが、語義の区別は明確でなく、2音とも大領主としている。「だいみょう」の音に定着したのは江戸時代に入ってからで、寛政期頃には専ら「だいみょう」と称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8D
 「節用集は日本の室町時代中期に成立した用字集・国語辞典であるが、その中身は漢字の熟語を並べて読み仮名をつけただけであり、用語の意味の解説は無い。ただし簡単な注を付すことはある。日常の言葉を漢字で表記するための辞書といえる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E7%94%A8%E9%9B%86

 これを守護在京制<(注45)>という。・・・

 (注45)「旧いところでは、〔杉山博1967〕が室町幕府の支配地域について、「室町幕府が直接支配した国々は、鎌倉公方管下の10ヵ国と、九州探題管下の11ヵ国、および奥羽2ヵ国、計23ヵ国を除いた45ヵ国であった」とし、その45ヵ国=「室町殿御分国」の守護は、在京と幕政への参加を原則としていたことを指摘している。」
https://www.ebisukosyo.co.jp/docs/pdf/%E8%A9%A6%E3%81%97%E8%AA%AD%E3%81%BF/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E6%9C%9F%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F%E9%A0%98%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%94%BF%E6%B2%BB%E6%A7%8B%E9%80%A0.pdf
 杉山博(1918~1988年)は、國學院大卒、兵役、同大図書館司書、東大史料編纂所勤務、同所教授、駒澤大文教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%8D%9A
 「幕政への参加」の典型が三管・四職(さんかんししき)だ。「室町幕府の官職である管領と侍所の長官(所司)とに任命される家のこと。三管とは、管領が斯波・細川・畠山の3家から、また四職とは、侍所所司が赤松・一色・山名・京極の4家からおこった称である。『南方紀伝(なんぽうきでん)』によると、1398年・・・足利義満は朝廷における五摂家・七清家(せいが)の制に倣って三管・四職の家を定めたという。三管の斯波・細川・畠山の3氏と四職の一色氏は、足利一門の家格の高い有力守護で、四職の赤松・山名・京極氏も、畿内近国の重要な国々の守護を務める有力な大名であり、いずれも幕政の中枢に参与し、幕府体制を支えていた。しかし、応仁の乱(1467~77)以後名目化していった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E7%AE%A1%E3%83%BB%E5%9B%9B%E8%81%B7-1539964

⇒ネット上に、守護在京制そのものを扱った資料が見当たりませんでしたが、「制」=「制度」、と言う以上は、室町幕府がそれを定めた文書的なものがなければおかしいのであって、調べた限りでは、誰もその類のものに言及していない以上、単に、成行でそうなった、ということではないのでしょうか。
 まずは、「幕政へ・・・参加」した守護達は、当然、在京の必要があったわけですが、その他の守護達も、「武将たち<が、南北朝時代の戦乱のうち続く地方にとどまるよりも、>便利で娯楽の多い京都の生活を好んでい・・・た」(コラム#11442)ことから、その大部分が進んで在京した、ということではないのか、と。(太田)

 だが大名たちの<在京であることに伴う交流等を通じての(太田)>横の結びつきは、将軍に求心力がないと、派閥形成につながる。
 嘉吉の変で将軍足利義教が暗殺されると、諸大名の結集の核が失われ、細川・畠山両管領家による主導権争いが始まった。
 両管領家の一方を頼るようになり、細川派と畠山派の派閥抗争が深刻化した。
 細川勝元<は、>・・・畠山氏を押さえ込むため<に>・・・山名宗全と提携した・・・が、畠山氏が内紛で弱体化すると、山名氏との同盟の重要度は低下した。
 山名氏の分国と境を接し、その圧迫を受ける備中守護家など細川氏庶流家は山名氏との提携にもともと否定的であった。
 山名宗全の側も、赤松氏再興に手を貸した勝元に不信感を持った。
 結果的に、新興勢力山名氏が覇権勢力細川氏に挑戦するという形で応仁の乱は生起したのである。」(254~255)

(続く)