太田述正コラム#11864(2021.2.26)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その26)>(2021.5.21公開)
「戦争終結や代替わりを契機とする徳政令は、戦国大名に引き継がれる。
徳政令というと、何やら無責任なイメージがつきまとうが、土地所有関係を整理し直すという意味では検地と相通じる側面があり、領国政策として理解できる。
戦国大名は恒常的な戦乱に備えるため、郷村に対して城郭の築造・修築のための普請役、戦時における物資輸送のための陣夫役を求めた。
大名領国全体が侵略の危機に瀕した時には、郷村の百姓を徴兵することもあった。
このような総動員体制を敷く以上、戦国大名は郷村の存立を維持するため民政に力を入れざるを得ない。
大名が守護代以下に分国経営を委任し、その収益を京都で受け取るだけだった室町時代とは全く異なる社会が生まれたのである。
郷村に宛てて文書を大量発給した後北条氏に典型的に見られるように、郷村・百姓と直接向き合った点に、前代の権力と異なる戦国大名の最大の特徴がある。<(注64)>
(注64)「後北条氏の支配政策・・・は侍百姓に対する威圧的ならぬ柔軟性むしろ保護的政策がみられる・・・。
まず後北条氏の検地は秀吉の例と異なり・・・直接に後北条氏が面積を調査したのではないらしい。・・・
後北条氏の検地は「所領役帳」と共に主従関係の明確化及び家臣団の勢力抑制策でもあり、他面ではそうした家臣団の手中から少しでも農民を離反させ、後北条氏自体が直接農民を把握してゆくことをねらっていたようでもある。
この証となるものは「四公六民以外一ツも税かけまじき」方針がいつか破れ、天文十九年「田中諸都就退転庚成四月諸郷公事赦免様体之事」と題する文書で知れる如く既に「諸公事」がかけられていた事から推察される。
すなわち諸公事とはこの場合年貢を合む各種附加税であり、後北条氏は知行人の手を通すだけで直接農村から取立てていたものなのである。」(守谷樹壱「後北条氏の農村支配について」より)
https://core.ac.uk/download/pdf/223198866.pdf
⇒「注64」の論文は1960年10月のものであり、守谷も法政大学関係者であることしか分かりませんでした。
それにしても、呉座の、戦国時代の領国経営は総動員体制の敷設によって行われたとの指摘は新鮮です。(太田)
そして、そのような社会動向の出発点が、応仁の乱だったのである。・・・
紆余曲折を経て、・・・1521<年>には、筒井・越智・箸尾・十市の四氏による連合体制が成立し、大和国は安定する。
それは興福寺の大和一国支配を換骨奪胎するものであった。
大和国人は興福寺の権威・権力を利用する形で支配を進めたのであり、ついに興福寺から自立することはなかった。
学界では、この点を大和国人の「限界」として否定的に評価する見方が一般的である。
興福寺という腐敗した権力を打倒しようとせず、その意を迎える彼らの保守性を指弾するのである。
だが、大和国人が何世代にもわたる恩讐を乗り超えて団結し得たのは、興福寺に仕える者としてのアイデンティティがあればこそだし、興福寺の権威が外部勢力の侵入に対する一定の抑止力として機能したことは否定できない。
⇒日本全体は、ずっと、天皇家「に仕える者としてのアイデンティティがあればこそ・・・団結し得た」ところ、大和では、当時、藤原摂関家/興福寺がミニ天皇家であった、といったところですね。(太田)
・・・戦後歴史学が依拠した革命思想と反戦平和思想は矛盾することが多い。
前近代社会において既得権打破の動きは、往々にして戦乱の形をとるからである。
中世興福寺は大和国人の領主的成長を阻んだかもしれないが、一方で大和国の戦争被害を減らした。
両面を合わせて評価しなければ、興福寺が気の毒だろう。」(270、277~278)
⇒この点も、「興福寺」を「天皇家」に置き換えれば、日本全体についてあてはまりそうですね。
また、呉座の戦後歴史学批判は痛快です。(太田)
(完)