太田述正コラム#11870(2021.3.1)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その3)>(2021.5.24公開)

 「明応の政変を仕掛けた管領細川政元は、奇抜な国王観を持っていた。
 ・・・後柏原天皇<(注5)>の即位の儀について、・・・次のように述べたという。

 (注5)1464~1526。天皇:1500~1526年。「後土御門天皇の崩御を受けて践祚した。しかしながら、応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は26年におよんだが、即位の礼をあげるまで21年待たなくてはならなかった。
 また、11代将軍・足利義澄が参議中将昇任のために朝廷に献金して天皇の即位の礼の費用にあてることを検討したが、管領・細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王と認められない。儀式を挙げなくても私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など無駄なことだ」と反対し、群臣も同意したため献金は沙汰止みとなる・・・
 費用調達の為に朝廷の儀式を中止するなど経費節約をし、幕府や本願寺9世実如の献金をあわせることで、即位22年目の・・・1521年・・・3月22日にようやく即位の礼を執り行うことができた。ただし、この時も直前に将軍・足利義稙(10代将軍の再任)が管領・細川高国と対立して京都から出奔して開催が危ぶまれた。だが、義稙の出奔に激怒した天皇は即位の礼を強行・・・して、警固の責任を果たした細川高国による義稙放逐と足利義晴擁立に同意を与えることとなった。・・・
 財政難で廃絶した朝廷の儀式の復興に力を入れる反面、戦乱や疾病に苦しむ民を思い続けた。・・・
 1525年・・・の疱瘡大流行時には自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納した。詩歌管弦、書道に長けていたといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%A4%A9%E7%9A%87

 左様の儀これを行うといえども、正体なき者は王とも存ぜざることなり、(中略)愚身は国王と存じ申す者なり
 戦国には珍しいバサラ(婆娑羅)のような発言だ。・・・
 傲慢な「国王」宣言<であり、>・・・それがまかり通ってしまうところが、下剋上の考え方なのかもしれない。・・・

⇒細川政元の即位の礼観を、私は「奇抜」とも「バサラ」(注6)的とも「傲慢」とも「下剋上」的とも思わないのですが・・。(太田)

 (注6)「身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった名ばかりの権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈で派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B0%E3%81%95%E3%82%89

 <ところで、>下剋上<(注7)>とは、一般には文字通り「下が上に剋(か)つ」ことと考えられているが、その意味するところから、大きく三者に分類できる。

 (注7)「元々は6世紀頃の中国・隋代の書物『五行大義』などに見られた言葉。日本では、用語としては鎌倉時代から南北朝時代より見られ、鎌倉時代後期から出現した自らの既得権益を守るために権力と戦う悪党や、南北朝時代の社会的風潮であった「ばさら」も下克上の一種とされた。・・・
 こうした傾向は室町時代に顕著となり、「下剋上する成出者」と二条河原の落書に詠われ、戦国時代の社会的風潮を象徴する言葉ともされる。公家は武家に、将軍は管領に、守護は守護代にと下位の者に実権を奪われ、こうした状況を下克上と理解するのが、当時のほぼ一般的な観念だった。中世の武家社会において、主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなく、主君と家臣団は相互に依存・協力しあう運命共同体であった。そのため、家臣団の意向を無視する主君は、しばしば家臣団の衆議によって廃立され、時には家臣団の有力者が衆議に基づいて新たな主君となることもあった。
 一族衆が宗家の地位を奪って戦国大名化する例は枚挙にいとまがないほどであり、例えば、島津忠良・南部晴政・里見義堯らの事例がある。またその他、河内守護家畠山氏や管領家細川氏では守護代による主君廃立がたびたび行われた。陶晴賢による大内義隆の追放・討滅といった例もある。
 中央政界においても、赤松氏による将軍足利義教の殺害(嘉吉の乱)、細川政元による将軍足利義材の廃立(明応の政変)、三好長逸らによる将軍足利義輝の殺害(永禄の変)といった例があり、将軍位すら危機にさらされていたのである。
 しかしながら、こうした家臣が主君を倒した例は、下克上の名の通り実際に下位者が上位者を打倒し、地位を奪う例とは限らない。主君を廃立した後に家臣が主君にとって代わる訳ではなく、主君の一族を新たな主君として擁立する例が多くみられる。上述の赤松・細川・三好氏による下克上の後も、実際には足利氏の者が将軍に擁立されている。大内義隆を討滅した陶晴賢が、自らが大内氏に取って代わるのではなく、大内義長を主君として迎えたのは、その典型である。家臣が主君にとって代わった場合も、その家臣はほとんどが主君の一族である。
 そのため、下克上を文字通りの意味ではないとして、鎌倉時代から武家社会に見られた主君押込め慣行として理解する見解もある。例えば、武田晴信による父武田信虎の追放も、実際には家臣団による後押しがあってのものであり、主君押込めの一例とされている。必ずしも主君を討滅する必要はなく、目的が達成できれば主君を早期に隠居させ、嫡男が主君になるのを早めるだけでもよかったのである。
 このように、戦国時代の流動的な権力状況の中心原理を、下克上ではなく、主君押込めによって捉え直す考えが次第に主流となっている。戦国大名による領国支配は決して専制的なものではなく、家臣団の衆議・意向を汲み取っていた。その観点からすると、戦国時代の大名領国制は戦国大名と家臣団の協同連帯によって成立したと見ることもできる。家臣団の衆議・意向を無視あるいは軽視した主君は、廃位の憂き目に遭った。そして一方で、主君と家臣の家の上下関係は絶対であって、個人としての主君は廃位されても、一族においての主君の地位は維持された。
 もっとも、室町時代の守護大名のうち、戦国時代を経て安土桃山時代に近世大名として存続しえたのは、上杉家、結城家、京極家、和泉細川家、小笠原家、島津家、佐竹家、宗家の8家に過ぎない。守護以外の者が守護に取って代わって支配者となる現象は、戦国時代において頻発していたのも事実である。
 従って、確実に下克上と言える事例も多々存在する。例えば斎藤道三の美濃の国盗りは、典型的な下克上の例である。しかしこの下克上は、旧・守護土岐氏の家臣たちの反感を招き、後に嫡男・義龍と敵対した際に、ほとんどの家臣が義龍の側につくという結果を招いた。
 戦国時代の下克上の最大の成功例は、織田信長によるものである。信長は主君の下尾張守護代・織田信友を討滅し、続いて自ら擁立した尾張守護・斯波義銀を追放し、さらには将軍・足利義昭も追放して、事実上その地位を奪っている。だが、信長自身も最後は下克上で討たれ、そうした信長の姿勢は皮肉にも家臣の豊臣秀吉に継承された。
 しかし、この風潮は徳川家康の下克上によって終止符を打たれた。
 こうして家康以降は、下克上の風潮は廃れたが、主君押込めの風潮はその後も残った。幕末に至るまでしばしば主君押込めが見られた。名君として知られる上杉鷹山も、その改革の成功は、改革に反対する家老たちによる主君押込めの試みを乗り切ったうえではじめて成ったものであった。
 なお、真に下克上と言われる場合においても、倒すのは直接の上位者であり、さらなる上位者の権威は否定せず、むしろその権威を借りる場合が多い。織田信長は最終的には追放に至るものの途中までは斯波義銀や足利義昭の権威を借りており、朝廷の権威は終生に至って借りている。安芸守護を討滅した毛利元就も、室町幕府と朝廷には忠実であった。極悪人とされる宇喜多直家も、勤王家としての側面を持っていた。伊勢氏出身の幕府官僚であった北条早雲による伊豆国侵入(堀越公方家の討滅)も、幕府の足利義澄の将軍擁立と連動したともいわれる。後を継いだ後北条氏も、名目上は常に関東公方(古河公方)を擁し、幕府からの正式な補任はなされないまま、山内上杉氏に対抗して関東管領を自認していた。
 また、近年の批判として実際には主君の方が家臣の生殺与奪の権利を掌握し、中世日本を通じても下克上とは反対の現象――上位の者が下位の者を討つ上克下/上剋下の方が多く、ほとんどの場合は上下の者が対立した場合には下位の者が下克上を行う前に上位の者から勘気を蒙って殺害(すなわち上克下)されており、上克下を無視して下克上だけを取り上げるのは現実の中世社会とは乖離しているとする指摘もある。浅井氏による江北の支配も、形式的には当初は京極氏を推戴する「主君押込め」であり、後に京極氏が追放されるのは、京極氏による支配権奪還の失敗、つまり京極氏が「上克下」を行おうとした事への反撃であった。前述の後北条氏の下克上も、上克下への反撃としての主君押込めの事例<と>も見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%85%8B%E4%B8%8A

 その一は謀叛。・・・
 その二は出世や成金。・・・
 その三は一揆そのもの。・・・」(17~19)
 
⇒鍛代には、(力作であると言える)「注7」のウィキペディア執筆者が拠っているところの、「主君押し込め」に、少なくとも「その四」といった形で言及して欲しかったところです。(太田)

(続く)