太田述正コラム#11898(2021.3.15)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その17)>(2021.6.7公開)
「戦国大名の時代には、「国家」・・・<は、>大名の分国そのものを指した言葉だった。・・・
<島津>義久<は、>・・・二十ヶ条<からなる>・・・教訓を遺した。・・・
<それによれば、>国主の理想は、家中の主従支配と分国の統治を合体させ、民百姓の生活を第一とした治世に努めることだった。
さすがに朱子学の薩南学派<(注54)>を生み出した国柄だ。
(注54)「桂庵玄樹は明に留学して朱子の新注を研究し、帰国後岐陽方秀による訓点(京点)を改良して新たな訓点(桂庵点)を考案するなど、明経道の家学による旧注とは異なる四書五経の解釈を行った。桂庵玄樹の学統は月渚永乗-一翁玄心-文之玄昌-泊如竹-愛甲喜春と伝えられた。特に文之玄昌(南浦文之)は、島津義久に仕えて多くの著作を現したほか、桂庵点を改良して文之点を考案した。・・・
更に如竹は桂庵玄樹や文之玄昌の校注が入った朱熹の『四書集註』や『周易伝義』を江戸でも刊行し、当時江戸で行われた藤原惺窩-林羅山の流れに異を示した・・・。だが、その後は江戸幕府の保護を受けた林家に押され、18世紀に入ると江戸に出て荻生徂徠や室鳩巣の門下となった薩摩藩の人たちが薩摩で彼らの学説を広めるようになると、薩南学派は衰退していくことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E5%8D%97%E5%AD%A6%E6%B4%BE
15世紀後半、島津忠昌<(注55)>(ただまさ)の招聘にこたえた臨済僧の桂庵玄樹<(注56)>(けいあんげんじゅ)の学統を受け継ぎ、門下の南浦文之<(注57)>(なんぽぶんし)が、島津義久・義弘・家久の儒学の師となった。
(注55)1463~1508年。「島津氏第10代当主・島津立久の子<であるところの、>・・・島津氏の第11代当主。」
政治家・軍人としては失敗した人生を歩み、46歳の時に自殺しているが、「1478年・・・には桂庵玄樹を招聘して朱子学を講じ、薩南学派の基礎を築いた。また、琉球や李氏朝鮮とも積極的に通交し貿易を奨励。さらには雪舟に師事し、明にも留学した高城秋月を招き水墨画を普及させるなど薩摩国における文化を興隆させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E6%98%8C
(注56)1427~1508年。「長門国赤間関出身。9歳のとき出家し、上京して京都南禅寺の惟肖得巌や景徐周麟らに学んだ。その後、豊後国万寿寺に赴いて学問を学び、大内義隆に招かれて郷里長門国永福寺住持となったが、1467年には遣明船の三号船士官となって明に渡海して蘇州などを遊学し朱子学を究める。1473年、日本に帰国したが、応仁の乱による戦禍から逃れるため、石見国に避難した。1478年、島津忠昌に招かれて大隅国正興寺、日向国竜源寺の住持となる。さらに島津忠廉に招かれて、薩摩国の桂樹院で朱子学を講じた。・・・
その後、建仁寺や南禅寺の住持となり、1502年に薩摩に東帰庵を営んで同地に住んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%BA%B5%E7%8E%84%E6%A8%B9
(注57)1555~1620年。「12歳のとき、現在の日南市南郷にあった延命寺(現、西明寺)と言う禅門に入り、諱は玄昌で、桂庵玄樹の孫弟子にあたる龍源寺の一翁玄心に禅と儒学を、明<出身>の江夏友賢に五経周易の宋学を学んだ。・・・「示現流」との流派名を与え<た人物。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B5%A6%E6%96%87%E4%B9%8B
国主としての心構えや見識は、ここに隆昌した学派の影響と考えて間違いない。・・・」(68、71)
⇒撫民思想に限定して、それを朱子学と結びつけているところの、鍛代説、を批判しておきましょう。
撫民思想を天道思想と結びつける説も有力です・・例えば、加藤みち子「江戸時代日本における天道思想–陰陽道の影響を中心に–」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiM5orO6Y7vAhXCFIgKHY2lCMAQFjABegQIBhAD&url=https%3A%2F%2Fmu.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D1243%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0z1QVWOYCbqzZLK5g9OqVD 参照・・が、4世紀末から5世紀前半に実在したと見られる仁徳天皇の民家の煙の「事績」(コラム#省略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
まで遡らずとも、「理世撫民」(=天下をうまく治めて民衆を慈しむこと。政治のあるべき姿)という言葉が、あの後鳥羽上皇が編纂させ、鎌倉時代初期の13世紀前半に完成した『新古今和歌集』の藤原親経(注58)執筆による「真名序」(注59)に出てくる
https://yoji.jitenon.jp/yojib/549.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86
ことからも分かるように、朱子学が日本で広まる(注60)以前に、そして、もちろん、天道思想が日本で普及する(注61)より以前に、既に日本で撫民思想が確立していたと思われることから、鍛代説も、そしてもちろん天道説も、成り立ち得ない、と、考えます。(太田)
(注58)1151~1210年。「後白河院の院司、九条兼実の家司・・・後鳥羽院別当・・・など務め・・・権中納言・・・従二位・・・熊野参詣の途上、紀伊国藤代宿で没する。・・・
詩歌に秀で、後鳥羽・土御門2代の侍読となり、九条兼実には「当時の儒者で右に出るものはいない」と絶賛されている(『玉葉』)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E7%B5%8C
(注59)真名序読み下し文・・その最初の方に出てくる。
https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/bcae0854560baf7c374d96c36beea722
真名序意訳文が下掲↓に載っている。
https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/8bba71d960e2a13722c0f21e82e15630
(注60)「朱子学<は、>・・・鎌倉時代後期までには、五山を中心として学僧等の基礎教養として広ま<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%AD%90%E5%AD%A6
(注61)「戦国時代後半に、天道思想を共通の枠組みとした「諸宗はひとつ」という日本をまとめる「一つの体系ある宗教」を構成して、大名も含めた武士層と広範な庶民の考えになり、日本人に深く浸透したとする。個人の内面と行動が超自然的な天道に観られ運命が左右され、その行いがひどければ滅びるという、一神教的な発想があり、日本人に一般的に広がっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%81%93
(続く)