太田述正コラム#11900(2021.3.16)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その18)>(2021.6.8公開)

 「「分国」の言葉は、10世紀には「院宮分国(いんぐうぶんこく)」(上皇や皇后宮などの収入を目的に設定された国)と見える通り、収益の対象となる国を指す呼び方だった。

⇒鍛代は、「国家」に次いで「分国」という言葉を取り上げていますが、肝心の「国」(注62)という言葉をスルーしてしまっています。(太田)

 (注62)「戦国期の史料には「 国」という文字が頻出する。共通する意味は「一つの区域をなした土地の称」(『日本国語大辞典』)となろうが、何が「区域」を決めるのかは一律ではなく、「国」の具体的意味は、・・・極めて多様である。
 戦国期研究においては、律令国家が支配の単位として設定した国郡の枠組がなおも生きており、戦国大名の支配の正当性も幕府より与えられた守護公権が根拠となっていることを重視する見解がある。
 これに従えば、「国」の基本的意味は国郡制的支配の単位となろう。
 これに対して、一九九〇年代以降盛んになった「地域社会論」においては、「国郡制秩序と相克する下からの自律的地域社会秩序の内実を追究する視角」が重視されている。
 これに従えば、「国」の基本的意味は地域の社会集団が「自力」に基づき自律的に形成した「歴史的領域」ということになる。
 このように、戦国期の「国」の性格については、全く相反する見解が並存し、歴史認識をめぐる重要な争点となっている。
 しかし近年では、両見解を踏まえた総合的な「国」・ 「郡」理解を目指す動向も見られる。」(池享「戦国期の「国」について」より)
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/18629/0101001701.pdf

 鎌倉幕府では、将軍が支配する「知行国」は関東御分国といわれ、有力な御家人が国司に任命された。
 執権政治の時代には北条氏がほぼ独占し、相模や武蔵は執権および連署・・・など、有力者が国司に任じられ、相模守・武蔵守の受領名(ずりょうみょう)(国司の官職名)を得た。
 室町時代は、守護大名の領国は「御分国」といわれた。・・・
 戦国大名は自分の領国を指すとき、この「分国」という表現にこだわった。・・・
 戦国大名が用いた「分国」とは、幕府が守護に分け与えた国という意味ではなく、将軍家の意思決定をも覆す(「上なし」)、戦国大名の独自な権力を誇示した表現だったといえるだろう。
 そして、「分国の静謐」という統治観<(注63)>は、やがて「天下の静謐」<(注64)>という統一国家の政権構想へと昇華することになるのである。・・・」(72~74)

 (注63)「1566・・・年、謙信は・・・願文を神社に捧げる。
 「分国のいずれも無事長久なこと。とりわけ越後、上野、下野、安房は何事もなく、喧嘩、口論、狼藉、博打、火事などがなく、夢にも兵乱を見ないように。また中でも越後、佐野、倉内(沼田)、厩橋の地が無事長久でありますように」(意訳)
 このように、謙信は「分国の静謐」「主要拠点の維持確保」を祈願したわけだ」(相川司『戦国・北条一族』より)
https://books.google.co.jp/books?id=lPNsDwAAQBAJ&pg=PT128&lpg=PT128&dq=%E5%88%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%9D%99%E8%AC%90&source=bl&ots=Ryer3nKMyv&sig=ACfU3U0vrT0r3skQ6MwhR-60_ouH-FdqvA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiqlMffhpHvAhWV62EKHSkxAq0Q6AEwB3oECBMQAw#v=onepage&q=%E5%88%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%9D%99%E8%AC%90&f=false
 (注64)「立花京子氏・・・は、信長の「天下のため」という表現は「(天皇のための)天下静謐のため」という意味であったとされる。信長の言う「天下」が、旧秩序から脱却した革新的なものではないにせよ、そのすべてが天皇に帰結するのであろうか。「天下」には多様な意味・用法があったのではないだろうか。・・・<私は、>信長は三職・・・太政大臣か関白か将軍か・・・いずれにも就く意思はなく、「日本国王」から「中華皇帝」ヘと展開していくと考えている・・・信長の政権構想は、律令制にとらわれた一国史的観点から脱却し、東アジア世界のなかに位置づけてはじめて理解できるのである。」(堀新「立花京子著『信長権力と朝廷』」より)
http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho150.htm

⇒「分国の静謐」という統治観はあったようですが、鍛代の言う、「天下の静謐」については、信長以外の戦国大名でかかる統治観を抱いた者がいたかどうか、また、いなかったとして、その意味については、「注64」等を踏まえ、鍛代のような、「統一国家の政権構想」としての理解は誤りである可能性が高い、と、取敢えず、指摘しておきたいと思います。(太田)

(続く)