太田述正コラム#11902(2021.3.17)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その19)>(2021.6.9公開)

 「スペイン人の貿易商アビラ・ヒロン<(注65)>の『日本王国記』<(注66)>(1619年)によれば、三好長慶<(注67)>の権力について「五畿内と呼ぶ天下の五つの国」を支配し、「天下の絶対的な領主で、全王国の最大権力者」とある。

 (注65)ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン(Bernardino de Avila Girón,。?~1619年以後)は、「1590年、新任フィリピン総督のゴメス・ペレス・ダスマリニャスとともにヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)からマニラに渡航。フィリピン滞在中、最高聴訴官ペドロ・デ・ロハスから死刑を宣告されている。本人は冤罪と主張しているが、詳細は不明。日本に渡航したきっかけは、この事件による逮捕を免れるためであったと推定されている・・・
 1590年・・・8月27日に平戸に到着した。その後、長崎に居住する。
 1594年に薩摩、1595年・・・に島原半島の有馬、1597年・・・に口之津、平戸に旅行している。
 1598年・・・はじめマカオに渡航、同年夏にいったん長崎に戻るが、秋にマニラに渡航。その後はしばらくアジア各地を転々とする。1599年にカンボジア、シャムに旅行し、その後、明、マラッカに赴く。1600年にはインドに渡り、セイロン島、インド半島西岸などを訪れる。1604年にマカオに戻り、再度シャムに渡ったのち、1607年・・・7月6日、日本に戻る。
 1614年・・・以後、教会の公証人に任命される。
 1619年・・・3月15日付でドミニコ会士フランシスコ・デ・モラレスの殉教を報告しており、この時点まで長崎に居住していたことが確認できる。しかし、その後の消息は一切不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%AD%E3%83%B3
 (注66)「原題は『転訛してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告』(スペイン語: Relación del Reino de Nippon a que llaman corruptamente Jappon)。」(上掲)
 (注67)1522~1564年。「永禄元年(1558年)<から始まる>・・・永禄年間<の>初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた(他に近江・伊賀・河内・若狭などにも影響力を持っていた)。当時、長慶の勢力に匹敵する大名は相模国の北条氏康くらいだったといわれるが、関東と畿内では経済力・文化・政治的要素などで当時は大きな差があったため、長慶の勢力圏の方が優位だったといえる。・・・ 
 <亡くなると、>家督<の>・・・義継が若年のため松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えたが、やがて久秀は独自の動きを見せはじめ、・・・1565年・・・から・・・1568年・・・までの3年間内紛状態に陥った。その後、久秀の側に鞍替えした義継と久秀は、新たに台頭した織田信長と彼が推戴する足利義昭に協力、三好三人衆は信長に敗れ、三好政権は崩壊した。その後、義継と久秀も信長と対立し、滅ぼされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
 「三好氏は、・・・信濃源氏の一族で鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の支流。室町時代には阿波守護細川氏の守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%B0%8F

 また、ジョアン・ロドリーゲス<(注68)>の『日本教会史』では、「天下」とは「国王のいる地方区」「中央の地域」で、その「天下を治めていた三好殿」と書かれている。

 (注68)ジョアン・ツズ・ロドリゲス (またはロドリーゲス、ポルトガル語:João “Tçuzu” Rodrigues、中国語:陸若漢。1561/1562~1633年)。「同名の司祭(ジョアン・ジラン・ロドリゲス João “Girão” Rodrigues, 1559年-1629年)と区別してツズ(通事の意)と呼ばれた。
 ポルトガル北部のセルナンセーリェ (Sernancelhe) に生まれ、少年のうちに日本に来て1580年イエズス会に入会、長じて日本語に長け、通訳にとどまらず会の会計責任者(プロクラドール)として生糸貿易に大きく関与し、権力者との折衝にもあたるほどの地位に上り詰めたが、後に陰謀に遭って1610年、マカオに追放された。マカオではおなじく追放されてきた日本人信者の司牧にあたったほか、マカオ市政にも携わり、明の朝廷にも派遣された。日本帰還を絶えず願うも叶わず、マカオに歿した。日本語や日本文化への才覚を以て文法教科書『日本語文典』、『日本語小文典』を著したほか、『日本教会史』の著者としても知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%82%B9

 両書ともに、京都と畿内を支配した三好政権を評価している。
 この「天下」は、京都とその周辺の特別区である五畿のことを正確に言い当てている。
 信長以前の天下人をあえて挙げるとすれば、三好長慶をおいてほかにないであろう。・・・」(138~139)

⇒当時、ジョアン・ロドリーゲスのような、幼少期に遠い遠い欧州からやってきた、素性の定かではない人物が、極めて能力が高かったのではあろうとはいえ、立派な知識人にまで成長する教育システムが日本国内に存在していた、というわけであり、せせこましい「京都と畿内」なんぞに捉われない、信長のような武将が出現したのは、当たり前だ、と思います。
 問題は、その捉われなさが、日本国内にとどまったのか否か、です。(太田)

(続く)