太田述正コラム#11908(2021.3.20)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その22)>(2021.6.12公開)

 「イエズス会巡察師のヴァリニャーノ<(前出)>は、『日本巡察記』に「日本人は、全世界でもっとも面目<(注76)>と名誉<(注77)>を重んずる国民であると思われる」と書いた。

 (注76)「面子・・・は世間的評価を意識した外面的対応であり,内面的自覚に基づく名誉とは異なる。<支那>では古くから面子,面目がとりわけ重視された。その理由として,一つには儒教の影響がある。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9D%A2%E7%9B%AE-643205
 「面子<は、漢>語をそのまま使用したもので,日本語としては面目,体面ともいい,世間に対する体裁を意味する。古い<支那>の社会では外面的な態度や行動がその人の価値を決定し,世間体,他人のおもわくが人の態度,行動を制約した。日本でも封建社会では身分制がきびしく,武士はその体面をけがさないように行動した。「面子を立てる」とか「体面をつくろう」という場合,その実がないのに表面だけをつくろって威厳を保つ態度,行動を意味している。こうした外面性,形式性に偏したいわば悪い面ばかりでなく,自己の面子を保ちながら他人の面子も重んじることにより,人間同士の交際に洗練と優雅をもたらす面もある。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9D%A2%E5%AD%90-141971
 「日本の面子は他者に期待されるような社会的役割の充足に関する個人の公的イメージである」
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2007/535.html
 (注77)「18世紀の<イギリスの>文学者サミュエル・ジョンソンは名誉・・honor・・について「魂の高潔さ、度量の大きさ、卑しさに対する軽蔑」と定義した。名誉の文化は世界の各地で独立して生み出されたが、こうした名誉は多くの文化で尊重されている。また、個人の正直さや誠実さが今日の名誉の主要な意味に含まれている。名誉の文化の成員には、優位や地位、評判を守るためには暴力も辞さないという覚悟が備わっている。侮辱と、それに対抗することの必要性は名誉の文化にとって重要視される。
 日本の中世では、個人や家系、所属集団の名誉を守ることが重要視され、名誉が傷つけられた場合には決闘や戦争等の解決手段がとられていた。武家社会では、切腹や仇討ちが、名誉回復の手段であった。 江戸期にて、「栄誉罰」「名誉罰」等の言葉が使われているが、これらは、責任を果たせなかったときに制裁を加えられるという性質の「名誉」であり、各人の「栄誉」は法により保護されるべき利益であるという概念はなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%AA%89

⇒ルース・ベネディクトは、支那における面子の毀損を恥、欧米における名誉(honor)の毀損を罪と思量した上で、「罪の文化のほうが恥の文化より優れているという視点から」日本人論の『菊と刀(The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)』(1946年)を書いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E3%81%A8%E5%88%80
が、結果として、それは、欧米文明の観点から漢人文明を「正しく」貶めたところの、漢人論としてならともかく、日本人論としてはナンセンスに近い愚著となった、というのが私の見方です。
 つまり、私見では、漢語の面子/面目は、日本語の面子/面目とは意味が異なるのであって、後者は人間主義の同義語に近い、のです。(太田)

 下級の職人や農夫に至るまで、礼節を尽くさなければならず、侮辱的な言葉は慎まなければならないと注意しているのである。
 そのことは、武士において顕著であり、戦国武将は「外聞」にこだわった。
 宣教師たちの手紙は面白い。
 「武士は富よりも名誉を大切」に思っている。
 武士が領主に臣従するのは、「背いた時に自らの名誉を失うと考えるため」といった記述がある。
 戦国期の武将が名誉心に執着していたことがうかがえる。
 外聞へのこだわりが想像できるだろう。・・・」(143~144)

⇒どうやら、鍛代もまた、ベネディクト的な勘違いをしているように見受けられます。
 ヴァリニャーノ(注78)を含む宣教師達は、武士のみならず日本人一般が人間主義者である、ということを、人間主義と言う「特異な」概念(言葉)を彼らが持ち合わせなかったので、「「日本人は、全世界でもっとも面目と名誉を重んずる国民であると思われる」と書いた」、と思われるというのに・・。(太田)

 (注78)ヴァリニャーノは、日本にやってくるまでに、イタリア、ポルトガル、インド、東南アジア(マラッカ)、支那(マカオ)、に滞在経験があり、「日本人の資質を高く評価<し、>・・・当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長フランシスコ・カブラルのアジア人蔑視の姿勢が布教に悪影響を及ぼしていることを見抜き、激しく対立<し、>1582年にカブラルを日本から去らせた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8E 前掲
人物であることを想起せよ。

(続く)