太田述正コラム#11912(2021.3.22)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その24)>(2021.6.14公開)
「信長は、・・・1573<年>7月、将軍義昭を京都から追放<(注81)>、同3年11月28日、尾張・美濃の分国と家督を信忠に譲与し、岐阜城主とした。
(注81)十七ヶ条異見書「によって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになり、義昭は挙兵。東では武田信玄が上洛を開始し、12月22日の三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなどすると、信長は窮地に陥・・・る。だがその後、朝倉義景が12月3日に越前に撤退してしまったため、義昭は翌年2月に信玄から遺憾の意を示されて義景に重ねて出兵するように求めている・・・。
・・・1573年・・・正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じず、これを一蹴した。義昭は近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。その頃、東では信玄の病状が悪化したため、武田軍は4月に本国への撤退を始める。信玄は4月12日には死去した。
信長は京に入り知恩院に陣を張った。幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は(おそらく信玄の死を知らなかったため)、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。信長は再度和睦を要請したが、義昭は信用せずこれを拒否した。信長は威嚇として幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ちにより焦土化し<(前出)>、ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。さらに信長はふたたび朝廷に工作した末、4月5日に勅命による講和が成立した。信長は一連の事態を上野秀政ら自分に敵意を持つ義昭側近が義昭を唆したものとみており、秀政らも信長への謝罪の意思を示したことから、兵を引き上げた。
しかし7月3日、義昭は講和を破棄し、烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興らの他に日野輝資・高倉永相などの武家昵近公家衆に預けた上で、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた要害であり、義昭の近臣・真木島昭光の居城でもあったが、烏丸中御門第で最後まで籠っていた三淵藤英も10日に降伏し、槇島城も7万の軍勢により包囲された。7月18日に織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏した。
信長は他の有力戦国大名の手前、足利将軍家追放の悪名を避けるため、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置いた(人質の意味もあった)が、後に信長の憂慮が去ると反故にされている。
信長は義昭の京都追放を実行し、・・・8月には朝倉氏、9月には浅井氏も滅亡し、信長包囲網は瓦解した。一方で信長は、これまで幕府の政所や侍所が行ってきた業務を自己の京都所司代である村井貞勝に行わせ、続く・・・1574年・・・には塙直政<(ばんなおまさ)>を山城・大和の守護に任じ、畿内の支配を固めた。それまで信長は義昭を擁することで、間接的に天下人としての役割を担っていたが、義昭追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
翌・・・年正月、安土城の建設を丹羽長秀に命じ、2月22日に岐阜から安土に居城を移した。
信長が、日本の統一構想の実現に向けて始動したのは、ずばり天正5年と考えたい。・・・
<1577>年6月、城下町・安土山下町中に宛てた十七ヶ条の定書を発令した。
⇒十七ヶ条異見書といい、十七ヶ条定書といい、北条泰時が制定した御成敗式目の「十七ヶ条」の伝統を、信長も、熱心に踏襲しており、厩戸皇子のものの考え方・・私見では聖徳太子コンセンサス・・を、日本の権力者達が後々まで尊重したことが分かります。(太田)
このいわゆる楽市楽座令には、双竜円形の朱印「天下布武」が捺されている。
『信長公記』を見れば、安土城の障壁画が皇帝の意匠だったのは明白だ。
宣教師らが報告する「国王」「内裏」「神体」といった信長の発言や、また「日本王国の絶対的君主」といった総体的な評価は有名である。
中国の皇帝を理想化していたとすれば、これらの叙述はそれほど不思議だとは思われない。
⇒(鍛代はそう考えていないのでしょうが、)私は、その下の階に描かれていた仏画と併せて支那先哲画は理解されなければならないと考えており、私は、信長が、日蓮主義に基づき、天下布武を手段として、天下静謐を実現させ、もって仏教が説く(私の言葉によれば)人間主義を、支那等に普及させる決意を表明した、と、受け止めています。(太田)
・・・1577<年>10月23日、秀吉にたいして、播磨への侵攻を命じた。
合戦の舞台は、京都・畿内の天下を離れ、拡張していった。
信長の天下静謐戦争が本格的に動き出したのである。・・・」(175~176)
(続く)