太田述正コラム#11920(2021.3.26)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その28)>(2021.6.18公開)

 「兼倶の孫兼右<(注94)>は、頻繁に地方へ下向し、戦国大名や家臣にたいし、・・・神道伝授を行った。

 (注94)かねみぎ(1516~1573年)。「官位は従二位・侍従・神祇大副兼右兵衛督。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E5%8F%B3

 主な大名を挙げると、<越前>朝倉考景・義景父子、若狭武田信豊(のぶとよ)、<豊後>大友義鑑、<周防>大内義隆らである。

⇒要するに、彼らは、吉田神道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E7%A5%9E%E9%81%93
なる神道を僭称したカルトの信徒になった、と、いうことです。
 彼らの代か次の代あたりには、皆、戦国大名家としては滅亡している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E7%BE%A9%E6%99%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%B1%8A_(%E8%8B%A5%E7%8B%AD%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%B0%8F)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E7%B5%B1
のですから、霊験がまことにあらたかなカルトだったというべきでしょう。(太田)

 兼右の長男兼見<(注95)>(かねみ)とその弟の神龍院梵舜<(注96)>(しんりゅういんぼんしゅん)は、信長、秀吉との親交が深かった。

 (注95)1535~1610年。「官位<は>従二位 神祇大副兼左兵衛督<。>・・・細川幽斎の従兄弟にあたる。・・・足利義昭、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、細川幽斎などと交友関係は広く、信長の推挙により堂上家(家格は半家、卜部氏)の家格を獲得した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E8%A6%8B
 「半家(はんけ)とは、鎌倉時代以降に成立した公卿の家格で堂上家の中でも最下位の貴族である。源平藤橘も含めて、特殊な技術を以って朝廷に仕えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%AE%B6_(%E5%85%AC%E5%AE%B6)
 (注96)しんりゅういんぼんしゅん(1553~1632年)。「吉田家の次男は氏寺である神龍院(吉田神道の創設者である吉田兼倶が吉田山に創建した仏教寺院)に入ることが習わしであったため、梵舜も神流院の住職となる。・・・
 ・・・1598年・・・に豊臣秀吉が逝去すると、梵舜は兄である吉田兼見と共に豊国廟の創立に尽力、その社僧となる。梵舜は豊国神社の別当として、秀吉の七回忌にあたる・・・1604年・・・には臨時祭の開催に奔走。また・・・1610年・・・には甥の萩原兼従と共に駿府や江戸へ赴き徳川家康に謁見、豊国神社の社領安堵を受けた。・・・1613年・・・には大坂城鎮守豊国社の創建遷宮を行った。しかし、・・・1615年・・・の大坂の陣で豊臣家が滅びると状況が一変、家康によって方広寺の鎮守とするために豊国神社の破却を命じられる。梵舜は金地院崇伝や板倉勝重ら幕閣に掛け合うなど豊国神社維持の為に東奔西走するが、破却の決定は覆らなかった。ただし梵舜の役宅である神宮寺の寺領は安堵されたため、社殿は崩れ次第とされながらも秀吉を弔うための祭祀は継続することが出来たという。
 ・・・梵舜は神道に造詣が深く、豊臣秀吉のような権力者に信任され、更に後水尾天皇や公卿たちにも神道を進講するほどであった。・・・秀吉死後は徳川家康とも関係が深く、・・・1605年・・・には家康に命じられて徳川氏を新田源氏に繋げる系図捏造にも携わったといわれている。家康も駿府や大坂の陣の陣中で梵舜から講義を受けた一人である。・・・1616年・・・4月に徳川家康が逝去すると、梵舜はその葬儀を任され家康を久能山に埋葬した。一方で梵舜は・・・豊国神社の破却決定から家康の発病まで各所の神社に多くの祈願をしており、津田三郎は家康を呪詛する意図があったと推測している。
 ・・・家康の一周忌において、家康の遺体を久能山から日光山に改葬する際・・・当初梵舜は金地院崇伝や本多正純たちと共に吉田神道の形式に則って家康を明神(大明神)として祀ろうとするが、山王一実神道形式での祭儀を推す天海と対立。最終的に天海に論争で敗れ、家康は権現(東照大権現)として祀られることになる。以降は山王一実神道が権勢を増し、反対に吉田神道の影響力はその分、後退することになった。
 この頃から梵舜は、妙法院の僧侶たちから豊国神社へと至る参道を封鎖される、神宮寺の境内の草を無断で刈られるといった嫌がらせを受けていた。梵舜は妙法院の非道を幕府に訴えるが相手にされず、逆に神宮寺を妙法院に引き渡すよう勧告を受ける。梵舜は・・・1619年・・・9月に神宮寺を妙法院に引渡し、自身が住職を務める神龍院へと退去した。神龍院でも梵舜は密かに秀吉を鎮守大明神として祀り、豊国神社再興を祈願し続けたといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%BE%8D%E9%99%A2%E6%A2%B5%E8%88%9C

⇒秀吉の死後、次第に募る逆風の中で、秀吉の顕彰にその余生をかけたとも言える梵舜に、一応、敬意を表しておきたいと思います。(太田)

 信長は王法仏法両輪説<(注97)>の根拠を尋ねたが、その典拠なきことの言質を兼見からとった。

 (注97)「日本においては、『平家物語』には「仏法王法牛角(ごかく、=互角)也」、『太平記』でも「仏法王法の相比する」と説かれているように、仏法と王法は対立するものではなく、両者が並存・調和することで国家・社会は守られるという仏法王法両輪論・仏法王法相依論が唱えられた。これは慈円の『愚管抄』や一条兼良の『樵談治要』でも強調されており、支配階層では広く受け入れられていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%B3%95

⇒信長は、宗教家としての吉田兼見ではなく、宗教専門家としての吉田兼見、に、知的質問を投げかけ、兼見が答えた、というだけのことでしょう。(太田)

 秀吉は、兼見の撰によって、豊国大明神<(注96)>の神号が勅許された。・・・」(186~187)

 (注96)「1598年・・・に死去した豊臣秀吉は東山の阿弥陀ヶ峰に埋葬されたが,彼をまつるため山麓に・・・豊国神社創建され,翌年〈豊国大明神〉の神号と正一位の神位が宣下された。豊臣秀頼は吉田兼見を社務に,兼見の弟神竜院梵舜を社僧に,孫の萩原兼従(かねより)を神主に任命した。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E6%98%8E%E7%A5%9E-1380030

⇒「「神道」では、「神」と「人間」の明確な境界線というものが存在しません。・・・
 <その>「神道」には、・・・「祖霊祭祀(それいさいし)」という・・・大事な要素・・・<も>あります。これはそのまま「ご先祖さまを祀る」という意味ですが、広義に捉えれば、それは人の「御霊(みたま)」を意味し、直接的血縁関係を含まない偉人にまでその対象は及びます。いわゆる天満宮の菅原道真公といった歴史的偉人や、地域各地の功労者、また、靖国神社や護国神社をはじめとした戦没者などはそんな一例と言えるでしょう。」
https://jinjajin.jp/modules/contents/index.php?content_id=18 前掲
というわけで、自分が歴史的偉人であると(正しく)自負していた秀吉が、生前に自分の神号を定めておこうとし、その際、宗教専門家、就中神道専門家としての吉田兼見に相談した、というだけのことでしょう。(太田)

(続く)