太田述正コラム#11932(2021.4.1)
<播田安弘『日本史サイエンス』を読む(その4)>(2021.6.24公開)

「さらに蒙古軍は、兵站の面でも失敗していたと考えられます。
 文永の役の記録には、蒙古兵が射殺された軍馬を戦いのさなかに食したとか・・・の記述がみられますが、多少の誇張はあるにしても、戦いの最中に射殺した軍馬を生のまま食べるという話は創作の域を超えてい<て、事実であ>るように思われます。・・・
 もともと現地調達するつもりで食料を十分には積んでこなかったうえ、上陸作戦中に武士団に攻撃され、兵站輸送が機能しなかった可能性が大きいと思います。
 飲料水にしても、上陸地は百道浜の砂浜で、主戦場である鳥飼潟付近にも清水はなく、姪浜に流れ込む室見川から清水を甕に入れて汲んでくるしかありませんでした。
 このように蒙古軍2万6000人は、水と食料の十分な供給が受けられず、敵前上陸にあたっても満足に戦えなかった可能性があるのです。・・・
 つまり蒙古軍の上陸戦は、ほとんど最初の段階で、失敗していたのです。・・・

⇒この批判は蒙古側に対してややないものねだりであり、蒙古、及び、蒙古が滅ぼした金や蒙古が占領した高麗や蒙古が攻略中の宋、出身の幹部兵士達が、当時の日本の武士・・縄文的弥生人!・・の戦闘力を過小評価していて、上陸して橋頭保を確保する前に自分達が撃破されてしまうなどという事態を全く想定していなかった、というだけのことでしょう。
 橋頭保さえ確保できれば、計画的に停泊中の軍船群から食料や水を運んでくることはもちろんのこと、橋頭保内の村落等や諸水源から、食料や水をある程度調達することもできたはずだからです。(太田)

 <ここで、>日本の武士団と蒙古軍の武器の性能を比較してみることにします。
 日本の和弓は、蒙古弓に比べて飛距離が短いとする説が散見されます。
 本当のところはどうなのか、検証してみましょう。・・・
 和弓は・・・仰角の大きい立射では、厚くて短い蒙古弓よりも飛ぶことがわかりました。
 また、和弓は・・・大鎧という日本独自の分厚い鎧を突破させるために、矢の重量もあり、これは蒙古弓・・・よりも重くなっています。
 引く距離が長く、矢が重いと、命中させるにはかなりの技術を必要としますが、・・・江戸時代の三十三間堂などで行われた「通し矢」は、的までの距離が120mもありましたが、名人級の的中率は60~70%にもなりました(ただし、軽い矢を使っていたそうですが)。
 鍛錬した武士ならば、命中率でも蒙古に劣らなかったはずです。
 
⇒ここは、なかなか読ませます。
 ところで、引用はしませんでしたが、80~81頁で、播田は、エイヤっベースで、日本の騎馬武者1人の戦闘力を蒙古歩兵1人の戦闘力の2.5倍としているところ、依然として根拠/典拠不十分である一方、同じ箇所でランチェスターの法則については具体的かつ詳細に紹介していて、この2点が日本側が初日の戦闘で勝利を収めた背景である、としています。
 それならば、兵力の逐次投入が愚である根拠としても、この法則に言及していて欲しかったところです。(太田)
 
 当時の日本武士の鎧は、矢の防禦用の大鎧と呼ばれる分厚いもので、重量が約30kgあったため、機動性に欠けていたのではないかとの指摘もあります。
 たしかに、その構造は非常に重層的で、複雑です。
 兜のしころ、胴、大袖、草摺(くさずり)などを構成する小札(こざね)は、牛皮に膠(にかわ)を十分しみこませ、叩いて硬くし、繊維を密にしてから、紐で上下に結び、胴の前面、大袖、草摺の上部などの大切な部分は、小札と鉄片を交互に組み合わせて防御力を高めていました。
 とくに大袖や草摺は、小型の盾の役目をしていました。・・・
 だらだらした大鎧の構造は、鎧に当たった矢が進む時間を長引かせて衝撃力を減じ、さらに繊維の密な小札と硬い鉄片が、貫通力を奪います。
 このため、大鎧を着た武士は、蒙古兵のように盾を持つ必要がなく、馬上では両手を使って長弓を射たり、手綱を引きながら日本刀をふるったりし、下馬しても両手で薙刀や日本刀を振り回して、片手で短い槍や刀を持った蒙古兵と戦うことができたのです。・・・」(74~75、82~84)

⇒ここは、分析不十分だと思います。
 騎乗した少数の狭義の蒙古兵はともかくとして、蒙古軍の大部分を占めた歩兵は、高麗兵と広義の漢人兵であり、彼らだって小札を用いた鎧を着用していたはずだからです。
https://www.touken-world.jp/tips/7479/ (コラム#11164も参照。)
 つまり、播田の分析の中で、馬を下りてからと最初から徒歩であった日本の武士、と、蒙古軍の歩兵、との装備の比較・・私自身も是非知りたいところです・・が抜け落ちています。(太田)

(続く)