太田述正コラム#11972(2021.4.21)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その10)>(2021.7.14公開)
「・・・この直後、結果として宇喜多方を寝返らせた秀吉の政策が受け入れられ、以後織田権力は毛利氏との全面戦争の道を歩むことになる。・・・
1580<年>に播磨を制圧しつつあった秀吉は、同年6月、因幡守護の流れをくむ山名豊国<(注28)>(とよくに)の籠る鳥取城(鳥取市)を攻撃した。
(注28)1548~1626年。「豊国は支城であった因幡岩井城の城主とされたが、のちに敵対した兄の豊数やその家老の武田高信によって城を追われ<た。>・・・
兄の豊数の死後、山中幸盛ら尼子氏残党軍の支援を得て因幡山名家の家督を継承するが、・・・1573年・・・、毛利氏の武将・吉川元春に攻められ、降伏して毛利氏の軍門に下った。毛利氏の当主毛利輝元(元春の甥)より偏諱を受けて元豊(もととよ)と名乗るが、のちに・・・1578年・・・から・・・織田氏と誼を通じて「元」の字を捨てて豊国に改名する。
・・・<とはいえ、信長の>幕下に入ったわけではなかった。
・・・1580年・・・に織田氏の武将羽柴秀吉が侵攻してきた。豊国らは一旦は鳥取城に籠城するが、重臣の中村春続、森下道誉ら家臣団が徹底抗戦を主張する中、単身で秀吉の陣中に赴き降伏した。豊国は秀吉を通じて助命された。城主を失った鳥取城には毛利氏からの援将として吉川経家が送り込まれ、依然として織田氏に対し抵抗を続けた。翌・・・1581年・・・には、吉川経家や自分の旧家臣が籠もる鳥取城攻めに秀吉と共に豊国も従軍した。豊国が籠城した先年は鳥取城に兵糧攻めは通じなかったが、この年の再度の兵糧攻めによって城は陥落した。
秀吉の軍に下った豊国であったが、秀吉からの豊臣氏への仕官の話を断り、浪人となったと伝えられる。のちに摂津国川辺郡の小領主・多田氏の食客となる。
・・・1586年・・・、浜松時代の徳川家康から知遇を得たと伝えられている。・・・1592年・・・からの朝鮮出兵には豊臣秀吉から<、>家臣ではなかったにもかかわらず、九州肥前名護屋城まで同行を命じられる。
・・・1600年・・・の関ヶ原の戦いでは東軍に付き、亀井茲矩軍に加わり参戦した。
・・・1601年・・・に但馬国内で一郡(七美郡全域)を与えられ、6千700石を領した。事実上、但馬山名家(祐豊の家系)が断絶したこともあり、江戸幕府政権下では、但馬山名家の血筋である豊国の家系が山名氏宗家扱いとなった。・・・
豊国の子孫は江戸時代を通じて、表高家並寄合と交代寄合表御礼衆として存続した。・・・
関ヶ原の戦いの後、豊国はかつて自らを追放した武田高信の遺児・助信を捜し出して召抱え、200石を与えた。以後、助信の子孫は代々山名氏に仕えた。・・・
有職故実や和歌・連歌・茶湯・将棋などの文化、教養面に精通していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E8%B1%8A%E5%9B%BD
「山名氏<は、>・・・河内源氏・新田氏流」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E6%B0%8F
⇒このように、洒脱で、かつ、巧みに安土桃山時代を生き抜いた、山名豊国のような人物の存在を知るのは、史実掘り起こしの旅の醍醐味の一つです。(太田)
結局、豊国はこれに投降したが、一方で山名氏の家臣らが豊国の姿勢に反対し、豊国のみが鳥取城を離脱することになった。
山名家臣団は当初から親密だった毛利方に付くことを熱望し、毛利方の武将の派遣を依頼した。
翌<1581>年2月、毛利方の吉川元春は一族の吉川経家<(注29)>(つねいえ)を鳥取城へ派遣している。・・・
(注29)1547~1581年。「藤原南家工藤氏流吉川氏<。>・・・毛利氏の家臣で石見吉川氏当主・吉川経安の嫡男<。>・・・<1581>年2月、経家は鳥取城に入城する。鳥取城の守備兵は山名氏配下が1,000名、毛利氏配下が800人、近隣の籠城志願の農民兵が2,000人の、おおよそ4,000人であった。経家はすぐさま防衛線の構築に取り掛かり、籠城の準備を進めたが、兵糧の蓄えがおおよそ平時城兵3か月分しかなかった。これは因幡国内の米は秀吉の密命によって潜入した若狭国の商人によって全て高値で買い漁られ、その高値に釣られた鳥取城の城兵が備蓄していた兵糧米を売り払ったためであった。このまま行けば兵糧はひと月持つかどうかも怪しい状態であった。
6月、経家の予測より早く羽柴秀吉率いる2万の軍勢が因幡に侵攻し、7月に鳥取城を包囲、攻撃を開始した。秀吉は無闇に手を出さず、黒田孝高の献策により包囲網を維持し続けた。鳥取城は包囲網により糧道を断たれ、陸路および海路を使った兵糧搬入作戦も失敗。兵糧は尽き、2ヶ月目には城内の家畜や植物も食べ尽くし、3ヶ月目には守城兵の餓死者が続出し始める。城内は「餓死した人の肉を切り食い合った。子は親を食し、弟は兄を食した」という地獄絵図となった。それでも4ヶ月の籠城に耐えたが、10月、経家は森下道誉・中村春続と相談し、ここに至って城兵の助命を条件とし、降伏することとなった。
秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。困惑した秀吉は信長に確認をとり、信長は経家の自害を許可した。・・・
子孫に<「笑点」で有名な故人である>五代目三遊亭圓楽・・・がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E7%B5%8C%E5%AE%B6
⇒山名豊国とは対照的な、縄文的弥生人の模範のような吉川経家のような人物の存在を知ることも、同様です。(太田)
こうした山陰方面の緊張下において、丹波・丹後を治めていた光秀や藤孝の協力も求められていた。
実際、光秀も「因州表(いんしゅうおもて)」へ出陣するだろうと、佐竹宗実に報じている・・・。
日本海でつながる丹後の「賊船」と呼ばれる兵船があり、織田権力による越前攻めなどで軍事活動を進めた実績があり、これが期待されていた。・・・
水軍を率いたのは・・・松井康之<(注30)>であった。・・・
(注30)1550~1612年。「室町幕府幕臣・松井正之の次男として京都郊外の松井城に生まれた。・・・
はじめ、第13代将軍・足利義輝に仕えたが、永禄の変において主君・義輝と兄・勝之が三好三人衆らによって殺害されると、幕臣の細川藤孝(後の幽斎)と行動を共にし、後に織田信長の家臣となった。・・・
鳥取城攻め・・・の後、藤孝は丹後国の領主となり、康之は丹後松倉城(久美浜城)を任せられた。また、この頃に康之は細川氏の家臣になったといわれているが、はじめから藤孝の家臣であったともいわれている。
・・・1582年・・・の本能寺の変後、藤孝が出家すると子の忠興に仕えた。主君・忠興が秀吉に従うと、豊臣氏による富山の役・小田原征伐・文禄・慶長の役に参戦している。特に富山の役では水軍衆を率いて活躍した。
また、主君・忠興が秀吉から関白・豊臣秀次の謀反連座の疑いを受けると、康之は秀次からの借銀の返済や秀次縁者に嫁していた忠興の娘・御長(おちょう)差出要求に対して奔走し、事なきを得た。これに感謝して忠興は、娘・こほ(11歳)を康之の次男・新太郎(後の興長)の妻とした。
・・・1600年・・・の関ヶ原の戦いでは忠興と共に<・・但し、彼自身は九州において、・・>徳川方に与した。・・・
優れた茶人でもあったといわれている。子孫は代々徳川家直参の身分を持ち、熊本藩の2万8,000石の筆頭家老(別格家老家)であり、さらに代々肥後八代城主に封じられた(一国一城制の例外)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E5%BA%B7%E4%B9%8B
「松井氏・・・の祖は、清和源氏の源為義の子・源維義。維義が松井冠者を称したことから、維義の子の季義が松井姓を名乗ったとする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E6%B0%8F
こうした軍事活動は細川藤孝、忠興らの指揮によるものであった・・・。・・・
さて、秀吉による鳥取城の兵糧攻めは凄惨を極め、・・・1581<年>10月、城将吉川経家は、自らを含む主導者の切腹を条件に投降した。・・・」(157~160)
⇒私は、細川・松井「主従」と、光秀ら、とを分かつものは、単に前者の方が時勢や人を見る目が優れていたということではなく、世界観の違いが大きかったのではないか、という仮説を立てているのですが、「1578年・・・、信長の薦めによって<藤孝の>嫡男忠興と光秀の娘玉(<後の>ガラシャ)の婚儀がなる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E
と、この婚姻が君命によるものに過ぎなかったことや、「島津義久は<、藤孝>から直接古今伝授を受けようとした一人であり、<藤孝>が足利義昭に仕えていた頃<(1565~1573年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E >から<藤孝と>交流があった」(上掲)こと、そして、藤孝が、「<1592年>梅北一揆<(注31)>の際に・・・上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地の改革を行っている」(上掲)こと、が、この仮説と整合性がありそうなことに気付きました。(太田)
(注31)「豊臣秀吉による1回目の朝鮮出兵(文禄の役)の際、前線基地である肥前名護屋城へ向かう船を待つ名目で肥後国葦北郡佐敷に留まっていた梅北国兼は、<1592>年6月15日・・・、葦北を治める肥後熊本城主加藤清正の朝鮮出征中の隙を突く形で佐敷城を占拠する。動機は、朝鮮出兵への反発とも、秀吉の支配に対する反発ともいわれる。
この一揆には田尻但馬、東郷甚右衛門といった島津家臣が参加し、それぞれの手勢に農民や町人が加わった反乱軍の人数は七百人であったとも二千人であったともいわれる。・・・
この梅北一揆はもともと遅れ気味であった島津氏の文禄の役参陣をさらに遅らせてしまう結果となり、島津義弘をもってして「日本一の遅陣」と言わしめるほどの失態につながった。この遅陣は島津氏に対する豊臣政権の不信を招き、島津領内では豊臣政権の遣わした浅野長政や細川幽斎らによる徹底した検地が行われることになる。さらに島津歳久が秀吉によって一揆の黒幕とみなされ、島津義久の追討を受けて死亡したほか、一揆に家臣が参加したという理由で肥後の阿蘇惟光がわずか12歳で斬首された。
梅北一揆によって島津氏の政治的な立場は極度に悪化したが、検地やそれに伴う国人領主層の没落は結果として島津氏の大名権力強化につながり、慶長の役で軍功をあげ名誉を挽回する契機となった。また事件後の処罰が苛烈だったことから、この後の豊後大友氏の改易事件などとともに、豊臣政権になじまなかった九州の諸勢力を政権体制下に組みふせる効果があったとされる。
一方、国兼は旧領において神となり、現在も鹿児島県姶良市北山に国兼を祀る梅北神社が残っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%8C%97%E4%B8%80%E6%8F%86
(続く)