太田述正コラム#12016(2021.5.13)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その14)>(2021.8.5公開)
⇒秀吉の関白就任は、1585<年>7月11日、他方、紀州攻めは同年の3月21日ですから、秀吉が関白と内大臣を兼ねた、というのは私の早トチリでした。(太田)
「・・・秀吉は、1585<年>10月2日、豊後府内の大友宗麟の求めに応じ、九州を席捲しようとする薩摩の島津義久に対し・・・御内書を送った。・・・
実質的には秀吉がひとまず義久に臣従を求めたものであるが、注目したいのは、この停戦命令が「勅諚」「叡慮」として義久に示されたことである。<(注32)>
(注32)「藤木久志は、刀狩令や海上賊船禁止令、喧嘩停止令など、私闘を抑制する一連の法令と併せて豊臣平和令(とよとみへいわれい)という概念を提唱した。これは神聖ローマ帝国のラント平和令などに示唆を受けている。
豊臣平和令のうち、大名間の私的な領土紛争を禁止するものが惣無事令とされる。・・・
惣無事令は、1585年・・・10月・・・に九州地方、1587年・・・12月・・・に関東・奥羽地方に向けて制定された。惣無事令の発令は、九州征伐や小田原征伐の大義名分を与えた。特に真田氏を侵略した後北条氏は討伐され北条氏政の切腹に至り、また伊達政宗、南部信直、最上義光らを帰順させる事に繋がった(奥州仕置)とされる。・・・
いわば、天下統一は惣無事令で成り立ち、豊臣政権の支配原理となったのである。・・・
<その上で、>島津義久宛書状<についてだが、>・・・現代語訳<すると、「>勅定(帝の命)についてお伝えする。さて関東はもとより奥州の果てまで帝の命に服し、天下は平穏であるのに、九州においては今なお干戈を交えることが発生しており、これは怪しからぬことである。国・郡の境界は協議を行い、双方の言い分は帝に聞き届けられ、追って沙汰があるだろうから、まず敵味方双方ともに弓矢をおさめることこそ、帝の思し召しである。その御意志に沿うことは当然のことであるから、この旨に従わぬ者は、必ずや御成敗なされるであろう。この命に対する返答は各々方には一大事であるから、十分に分別をもって帝に言上なされるが良い。<」だ。>・・・
上記のような文書を「惣無事令」という豊臣秀吉が統一権力として施行した法令と考えることには、竹井英文と藤井譲治から批判がなされている。なぜなら秀吉以前にも、信長や足利将軍をはじめ、権力者が出した停戦令は数多くあったからである。例えば、織田信長は、1582年・・・の甲州征伐後の東国統治において、「惣無事」と称して戦闘停止を命じている。また、「惣無事」という言葉も戦国期を通じて関東などにおいて用いられていたものだった。
また「惣無事令」の根拠となっている文書の多くは、単に秀吉に接触してきた領主たちに対する返書であったり、個別の領主に対する委任に過ぎなかったりするのである。すなわち、従来「惣無事令」とされてきたものは、強力な政権が一方的に領主に対して命じた「令」という性質のものではなく、秀吉が東国の領主たちを支配下に置く過程で彼らに対して行った働きかけの集積にすぎない。それにもかかわらず、それを「惣無事令」と呼び習わすことは、実態に即していないこととなる。・・・
「惣無事令」が法令にあたらないという見解に対しては、丸島和洋らによって再反論がなされている。すなわち、惣無事令論を中世法の一環であると位置づければ、法令として理解できるとする議論である。
なお、「惣無事令」をめぐる議論の背景には、豊臣政権の基本的な性格をめぐる学説の対立がある。すなわち、秀吉が武力による強硬な外交政策を進めたという藤田達生などの見解と、秀吉の政策基調を社会の「平和」化にあるとする藤木久志らの見解の対立である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E7%84%A1%E4%BA%8B%E4%BB%A4
⇒取敢えずの私の見解ですが、藤田達生らに対して、藤木久志(注33)らに比し、より共感をを覚えます。(太田)
(注33)1933~2019年。新潟人文学部卒、東北大赤瀬課程修了、群馬工業高専専任講師、聖心女子大専任講師、同助教授、立大助教授、教授、東北大博士(文学)、帝京大教授。護憲派としても運動。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%A8%E4%B9%85%E5%BF%97
正親町天皇が島津氏にこうした書状が送られることをあらかじめ了承していたとは思えないが、関白となった秀吉は、積極的に天皇を利用している。
この点は、<1580>年に信長が、島津・大友両氏に九州での争いを調停しようとしたとき<(注34)>にはみられぬものである。・・・
(注34)「1580年・・・、島津氏と織田信長との間で交渉が開始される。これは信長が毛利氏攻撃に大友氏を参戦させるため、大友氏と敵対している島津氏を和睦させようというものであった。この交渉には朝廷の近衛前久が加わっている。最終的に義久は信長を「上様」と認めて大友氏との和睦を受諾し、天正10年(1582年)後半の毛利攻めに参陣する計画を立てていたが、本能寺の変で信長が倒れたことにより実現はしなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
<1586年>7月、秀吉は、島津攻めを決め<たが>、・・・九州での戦局<が>島津側優勢で展開したため、秀吉は、自ら九州出兵を決断、<1587>年3月1日に出陣する。・・・
秀吉の九州攻めに対する後陽成天皇の対応は、紀州攻めの折の正親町天皇と基本的には同様であった。<(注35)>」(175~178)
(注35)「1584年・・・、龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、肥後国の隈部親永・親泰父子、筑前国の秋月種実らが、次々と島津氏に服属や和睦していった。・・・1585年・・・、義弘を総大将とした島津軍が肥後国の阿蘇惟光を下した(阿蘇合戦)。これにより肥後国を完全に平定し、義弘を肥後守護代として支配を委ねた。この危機に大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、義久の元に秀吉からこれ以上九州での戦争を禁じる書状が届けられた。・・・
12月、大友軍の援軍として仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保ら総勢6,000余人の豊臣連合軍の先発隊が九州に上陸する<が、>・・・総崩れとな<った。>・・・
<そこで、>1587年・・・、豊臣軍の先鋒の豊臣秀長率いる毛利・小早川・宇喜多軍など総勢10万余人が豊前国に到着し、日向国経由で進軍した。続いて、豊臣秀吉率いる10万余人が小倉に上陸し、肥後経由で薩摩国を目指して進軍した。・・・
<結局、>義久は・・・降伏した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
⇒やはり、次の次のオフ会「講演」原稿で(その目的等を)説明するつもりですが、私は、この島津家による九州席捲プロジェクトは、近衛家と相談の上で遂行された、と、見ています。(太田)
(続く)