太田述正コラム#12080(2021.6.14)
<藤田達生『信長革命』を読む(その20)>(2021.9.6公開)
「信長は、東アジアに押し寄せるポルトガルやスペインの動向を憂慮し、一世紀に及ぶ戦国動乱に終止符を打つべく熟考した。
諸大名が、自領の維持に汲々としていた時期に、信長一人は日本の行く末を憂えたのである。・・・
キリシタン大名大村純忠<(コラム#11948)>は、巡察使ヴァリニャーノが来日した<1579>年に、長崎(長崎港周辺部)と茂木(長崎市茂木町)をイエズス会の永久教会領として寄進した。
翌年には、ヴァリニャーノが両所を軍事要塞化するように指示したため、大砲・鉄炮などの武器の配置、長崎住民とポルトガル人の武装兵士化が進められ、軍艦も建造、配備された。
近年の研究によると、庇護を受けていた九州の大村氏や有馬氏らキリシタン大名の軍事力に期待できないことを悟った日本<の>イエズス会<(注56)>が、長崎の要塞化を通じて軍事的自立をめざしたことが指摘されている(高橋裕<(注57)>、2006)。
(注56)「1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす貿易利益を独占しようとした大村純忠と、戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものであった。しかし、これをスペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目を向けた豊臣秀吉は、1587年にバテレン追放令を発布し、長崎をイエズス会から取り上げて直轄領とした。最終的に江戸幕府による禁教令によって、宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、・・・1644年<の>・・・マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、江戸時代にイエズス会は日本での活動を終えた。
イエズス会内部には、アメリカ大陸と同様に、武力による日本・明国の征服を主張する者もあった。アレッサンドロ・ヴァリニャーノなども書簡でこの考えを述べており、九州のキリシタン大名を糾合し、長崎を軍事拠点とする計画であった。サン=フェリペ号事件のあとでは武力制圧計画が再度持ち上がった。
アメリカ大陸におけるイエズス会の宣教活動はヨーロッパ諸国(特に広大な植民地を保持していたスペインとポルトガル)の利害とかかわってしまったため、内政干渉という口実でさまざまな議論を巻き起こすことになった。ドミニコ会やイエズス会は主として当時のアメリカ大陸でネイティブ・アメリカンの権利を主張し、奴隷制に抗議していたからである。イエズス会員はキリスト教徒になったインディオを他部族やヨーロッパの奴隷商人の襲撃から守るためブラジルとパラグアイに「保護統治地」(Reducciones) をつくった。インディオを保護しようとするイエズス会員はスペインとポルトガルの奴隷商人およびそこから利権を得る政府高官にとって目障りであったため、のちにポルトガルからイエズス会への迫害が始まることになる。・・・
イエズス会への弾圧は18世紀になると急速に進み、ポルトガルがイエズス会員の国外追放を決めるとフランス、スペイン、ナポリ王国、両シチリア王国、パルマ公国もこれにならった。列強は教皇クレメンス13世にイエズス会を禁止するよう圧力をかけたが、教皇は頑として聞き入れなかった。だが、イエズス会を保護し続けたクレメンス13世が急逝し、次の教皇としてクレメンス14世が着座すると圧力はいっそう強まり、教皇はイエズス会をとるか、ヨーロッパ諸国と教皇庁との関係をとるかという究極の選択を迫られることになった。
このような経緯を経て1773年7月、クレメンス14世は回勅『ドミヌス・アク・レデンプトール (Dominus ac Redemptor)』を発してイエズス会を禁止した。・・・
1814年に教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィデイ』によってようやくイエズス会の復興が許可された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A
「1596年・・・10月19日<に>・・・四国土佐沖に漂着し<た>・・・スペインのガレオン船サン=フェリペ号<の>・・・船員・・・は次のような発言を行った。「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」。これにより秀吉はキリスト教の大規模な弾圧に踏み切ったとされる。・・・
<こ>の口から出任せの発言を高度な情報分析能力のあった奉行とその報告を受けた秀吉が真に受けたかについての結論は出ていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(注57)苫小牧駒澤大学国際文化学部准教授(2012年現在)。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwilvLf0vJHxAhXY62EKHdeXAzU4HhAWMAV6BAgCEAQ&url=http%3A%2F%2Fwww.pref.osaka.lg.jp%2Fattach%2F6686%2F00099152%2F24_5menkyokousinkoushuu_sentaku.xls&usg=AOvVaw2Gpny6jdS_NHOuu2xN1y2-
「イエズス会の世界戦略」(2006年)を上梓している。なお、高橋裕は、高橋裕史の誤り。
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0103/BO01030L085.pdf
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/46713
もある。
⇒「注56」のウィキペディア執筆者達は、イエズス会善玉論的な描き方をしていますが、当時よりもずっと後の18世紀にもなって、同会が、カリフォルニアでいかなる残虐行為をおこなったか、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%8B%E3%83%9A%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%A9
(コラム#省略)を思い出すだけでも、これら執筆者達のおぼこさに嘆息させられます。(太田)
なにはともあれ、国家的自立を守らねば意味がないのである。
内憂外患状態の日本を短期間で統一し、強力な軍事国家へと育て上げることこそが、信長にとっての焦眉の急となった。
まさしく「時代の覚醒」が、分権から集権への革命的転換を一挙に推し進めたのだ。」(177)
⇒もともと、厩戸皇子は、「なにはともあれ、国家的自立を守らねば意味がない」と考えて、縄文的弥生人を創出すると共に、その彼らに一所懸命に自分達の所領を守る意識を涵養させるために、日本の地方分権化(封建制社会化)を構想し、この構想の具体化を図る手掛かりを求めるべく遣隋使を派遣し、途中経過を省きますが、元寇をさえも日本が乗り切ったことで、封建制社会の日本の守りは相当堅固なものになっていたことが証明されたけれど、蒙古以上の軍事能力を持った勢力が再び日本を窺う恐れが否定できない一方で、かかる恐れが現実化するまでの間、国内の静謐を維持するだけのためには過大な軍事力が、地域ごとに縄文的弥生人達が割拠する形で維持されることは、国内の静謐を不可能にするとの懸念が強まり、実際、この懸念が的中して日本は戦国時代に突入するに至ったところ、この過大な軍事力を、日本が再中央集権化することによって、国内の静謐を回復すると共に、日本以外の諸国、諸地域に対して、この過大な軍事力を行使して制圧し、制圧下に置いたこれら諸国、諸地域の人々の人間主義化を推進することによって、日本を含む全世界の静謐を実現することを目指す、という気宇壮大な日蓮主義が日蓮によって生まれ、天皇家や近衛家等の努力もあって、ついに、信長に至って、日本は、この主義の遂行目前にまで漕ぎつけた、というのが私の見方であるわけです。(太田)
(続く)