太田述正コラム#12168(2021.7.28)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その3)>(2021.10.20公開)

 私の挙げた諸数字それ自体は何の権威もないお遊びのような代物ではあるけれど、斉彬が、慶喜のアイデンティティーにおける徳川家度は、自分のそれと大差ない、と考えていた可能性はある、と思います。
 それに加えて、(徳川家の祖である)家康がその路線を否定したところの織田(/豊臣)家の方のアイデンティティーだって、慶喜は、徳川家に係るそれとそれほど遜色ないくらいに持ち合わせているとも言えそうであるわけです。
 そして、何と言っても、(徳川家によって抑圧され続けてきたところの)天皇家のアイデンティティーが慶喜にとって半分を占めている・・これは間違いないでしょう・・、と来ているのですから、斉彬としては、英邁なる慶喜が、この程度のアイデンティティーしか持ち合わせていないところの、徳川家、の存続になど殆ど思い入れがないはずである以上、慶喜が将軍になれば、日本が欧米勢力の東漸に直面するに至った以上、幕府の路線の織田(/豊臣)路線への根本的切り替え、というか回帰、ないしは幕府の大政奉還、を選択するであろう、という心証を抱いていた、だからこそ、斉彬は、慶喜を将軍に就けようと画策した、と、私は思うのです。
 もちろん、そのココロは、私見では、徳川幕府の家康以来の路線の全面的否定であるところの前者は慶喜といえども実行困難だろうから、薩摩藩等が幕府に大政奉還させ、或いは大政を薩摩藩等が幕府から奪取することになるだろうが、その場合に将軍慶喜は、積極的な抵抗を徳川家にさせないだろう、というものだったわけですが・・。

4 徳川慶喜と日蓮宗

 さて、慶喜の系図を辿ったり作ったりしている過程で、何と、慶喜の先祖が、少なくとも二回にわたって、日蓮主義の強烈な洗礼を浴びていることが分かってきました。↓

 「養珠院<(1577~1653年)は、>・・・徳川家康の側室<で>紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万(まん、旧字体:萬)。・・・水戸藩2代藩主徳川光圀の祖母で、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の曾祖母。・・・
 <彼女の>義父の蔭山家は代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受けて日遠に帰依した。家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていたため、・・・1608年・・・11月15日、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させた。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した。・・・この万の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も万の行動に感激し、天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と七文字書いた物が万に下賜されたという。

⇒後陽成天皇が日蓮主義者であったことは、もはや疑問の余地がない、と言えそうだ。(太田)

 彼女は家康の死去した後、・・・1619年・・・8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し・・・た。
 ・・・<この養珠院の>実兄の三浦為春・・・はのちに万の子である徳川頼宣に附属され、紀州藩の御附家老となった。・・・
 <養珠院の>墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺と静岡県三島市の[同じく日蓮宗寺院・妙法華寺]。・・・1654年・・・に徳川頼宣により建立された墓所で<ある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AF%BA ([]内)

⇒養珠院は、慶喜と斉彬の共通の先祖、ということになる。(太田)

 「久昌院<(1604~1662年)は、>・・・母が水戸藩の奥向きの老女となり、母につき従って奥に出入りするうちに頼房の寵を得て、光圀の同母兄である頼重を懐妊したという。後に徳川頼房の側室となり、高瀬局と呼ばれた。・・・1622年・・・に頼房との間に長男・頼重(後の常陸下館藩主、讃岐高松藩初代藩主)を出産。・・・1628年・・・に三男・光圀(後の水戸藩第2代藩主)を出産。
 どちらの出産の際も頼房に堕胎を命じられるが、水戸藩家臣であり頼房の乳母夫婦であった三木之次夫妻により匿われ、江戸麹町の三木邸で頼重を、水戸城下の三木邸で光圀を出産した。・・・
 <彼女の>墓所は初め水戸城下の経王寺であったが、のち水戸徳川家墓所瑞龍山に移された。歴代藩主夫妻が並んで葬られているのと同様、頼房の墓の隣に葬られているが、正室ではなかったため、頼房の基壇より一段低い位置に築かれている。茨城県常陸太田市にある久昌寺は、1677年に徳川光圀が母・久昌院の菩提を弔うために建立した。また、頼重も菩提を弔うために、香川県高松市に広昌寺を建立している。久昌院が生前日蓮宗の信者となっていたため、久昌寺・広昌寺ともに日蓮宗である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%98%8C%E9%99%A2

(続く)