太田述正コラム#1877(2007.7.24)
<天川勇氏のこと>
(本篇は情報屋台用のコラムを兼ねており、即時公開します。)
1 始めに
別に誰かに口封じをされたわけではないのですが、「CIAの実相」シリーズ(太田述正コラム#1875、1876)を書いていて、天川勇氏のことを今まで書いたことがないことに気付きました。
そこで、インターネットを漁ってみると、氏について、ほとんど情報らしい情報が得られないことが分かりました。
かろうじて見つけたのが、以下の5つの資料です。
http://www.sophiakai.gr.jp/jp/modules/news/print.php?storyid=971
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-category-0.html
http://mojimojisk.cocolog-nifty.com/miz/2006/11/index.html
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/033/0514/03311090514005a.html
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/034/0514/03402220514014a.html
(いずれも7月23日アクセス。)
ちなみに、最初の3つの資料は、勇氏の令嬢の天川由記子さん(現在帝京大学の国際関係論の先生)に関する資料と言った方がより正確ですが、この5つの資料それぞれのさわりの部分を私の掲示板に「コラム#1877典拠集」、「コラム#1877典拠集(続き)」 と題して掲げてあります。
以下は、私の記憶と上記資料を下に執筆したものです。
2 天川氏を囲む勉強会
(1)始めに
1980年前後に元海軍大学教授の天川勇氏を囲む国際情勢の勉強会に初めて連れて行ってくれたのは、太田述正コラム#1329に登場するCさんでした。
メンバーは研究者、ジャーナリスト、役人、商社員等20~30人であった記憶があります。
当時新聞記者だった嶌信彦氏と新聞記者OBだった嶌氏のお父上もメンバーでした。
令嬢の由記子さんも時々出席していました。
メンバーになってしばらくすると、この勉強会のメンバーであることが大変な特権であることが分かってきました。
というのは、福田赳夫(1905~95年。首相:1976~78年)氏の外交指南役であった天川氏は、財界のお歴々が集う勉強会等、いくつかの有料の勉強会の講師を務めており、一回何十万も謝金をもらっているけれど、われわれに対してはタダで講師をしてくれていたからです。
どうして何十万も謝金を払ってでも天川氏の話をお歴々が聞きたかったのでしょうか?
氏の話を聞けば、その時々の米国政府・・CIAと言うべきかもしれませんが・・の国際情勢観等がリアルタイムで分かったからです。
(2)天川氏の凄さ
天川氏の凄さをご説明しましょう。
天川氏は、当時行われていたイラン・イラク戦争(1980~88年)について、実際に上空から戦場を見てきたと称して、両軍の配置や戦闘状況について、詳細に説明してくれたものです。
天川氏は、この戦争は長引くし戦闘が行われている両国国境に近いとして、三井物産社員のメンバーに対し、毎回、イランとの合弁のイランの石油コンビナート(イラン・ジャパン石油化学=IJPC)事業から一刻も早く手を引けと三井物産上層部に伝えよと繰り返し熱弁をふるいました。
私が腰を抜かすほど驚いたのは、1981年の日米安全保障会議(於ハワイ。日本側からは防衛事務次官及び外務審議官、米側からは国務省と国防省の次官補・・この会議かその前年の会議の時はそれぞれウォルフォヴィッツとアーミテージ・・が出席)に随員として出席して帰国し、1~2週間して天川勉強会に出た時です。
1979年から始まったソ連のアフガニスタン侵攻を背景として、この時の日米安全保障会議では米側が、日本側に対して防衛力を強化するように特に強く迫ったのですが、この会議の米側作成の議事録をそのまま天川氏が入手しているとしか思えないほど、会議の議事次第、雰囲気、会議での日米間のやりとり等を微に入り細を穿って天川氏が説明したからです。
天川氏も人が悪い。
私がこの会議に出席したことを知っていてこんな話をしたのですから・・。
それまで、天川氏の天文学的な情報量に圧倒されつつも、その情報をいかに入手したかについての氏の説明や、天川氏の国際情勢分析の信頼性に一抹の疑義の念を抱いていた私は、この時、氏の情報の入手先が紛れもなく米国政府、恐らくはCIA、であることと、氏の国際情勢分析が米国政府の国際情勢分析、恐らくはCIAによるそれ、を踏まえたものであることを確信したのです。
軍事情報の入手方法について、天川氏は次のような、耳を疑う説明をしばしばしました。
すなわち、天川氏は米軍の将官扱いになっており、天川氏の自宅には秘話装置付きの米軍の電話が設置されており、その電話でワシントンの米国防省はもとより、世界中の米軍部隊の司令官等と自由に話をして情報をとることができるし、天川氏が希望すれば、在日米軍がただちに専用機をしたてて世界中のどこにでも連れて行ってくれるというのです。
これについても本当のことに違いない、とやはりこの時確信するに至りました。
(3)その後
それ以降、私は、この勉強会で天川氏が話した内容を私だけのものにしてはならないと思い、内容をメモにして、当時在籍していた防衛庁防衛課(現在の防衛省防衛政策課)の上司に提出することにしました。
ところが、数年たたないうちに、高齢の天川氏が体調を崩したため、この勉強会は中断してしまいます。
そして更に数年経ったある日、私は新聞で天川氏の死亡記事を読み、びっくりして記事に記されていた住所に駆けつけます。
それは天川氏の私邸であったと思います。。
畳の部屋に棺桶と遺影が置かれ、その前に福田元首相が悄然と座っているのを目にした私は、しばし目を閉じて合掌した後、庭から部屋に上がることをせず、部屋の中にいたメンバーの一人に目で黙礼してその場を立ち去りました。
4 終わりに
日本は戦後一貫して米国の保護国だったのですから、歴代の自民党政権は、米国の明示または黙示の指示を拒否することはありえなかったはずです。
しかし、面従腹背の場合もありうるわけであり、米国としては、このような国際情勢であるからして日本にはこうして欲しいのだ、ということを財界のお歴々等にも直接伝える必要があったのでしょう。
まさにその役割を担っていたのが天川氏だったのです。
そしてそのおこぼれが当時の我々のところまで回ってきた、ということです。
天川氏の死後、誰がその「後継」に指名されたのか、或いは誰も指名されていないのか・・少なくとも由記子さんが後継でないことだけは確かです・・私には分かりませんが、岸氏の流れを汲む福田氏、そして福田氏の後継の清和会系の自民党の政治家達に対し、米国歴代政権がとりわけ期待をかけ続けたであろうことは、天川氏と福田氏との密接な関係からして、想像に難くありません。
天川勇氏のこと
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