太田述正コラム#1681(2007.3.5)
<始皇帝/墨家の思想v.毛沢東/マルクスレーニン主義(続)>(2007.9.24公開)
(本篇は、コラム#1640の続きです。)
1 始めに
今回は、孟子(紀元前372?~紀元前289年)を取り上げてみました。
2 孟子の主張
孟子の主張を、金谷治『孟子』(朝日新聞社1966年)から簡単に引用、整理しました。なお、古典である孟子からの直接の書き下し文ないし現代語訳文と金谷教授による解説とを区別せずに引用しています。その上で、私の考えを注で示しています。
<道徳とイデオロギーの関係>
「仁は本心にかかわる徳、義はその心を実現してゆく手段にかかわる徳だ」(387頁)(注1)
(注1)孟子は、墨家の義(イデオロギー)の考え方を踏襲している(太田)。
<非普遍的な道徳の推奨>
「人にはみな、人に忍びざるの心あり」(99頁)、「孟子は性の善なることを道(い)い・・」(142頁)、「天下国家と曰えども、天下の本は国に在り、国の本は家に在り、家の本は身に在り」(224頁)、「血縁の親しい者にまず親しんで、それを天下におし及ぼしてゆけ」(232頁)、「親に事(つか)える孝の徳、兄に従う悌の徳、それが仁義の徳の神髄だ」(248頁)、「天下の政治よりは親に事えることこそが大切だ」(462頁)、「自分が天子になりながら弟を一介の民くさにおいておくのでは、とても仁人とはいえなかろう」(296頁)(注2)
(注2)墨家の仁は普遍的な徳(道徳)であるのに対し、孟子の仁はネポティズム(親類縁者びいき)の道徳であると言ってよい。よって、墨家の義は普遍的なイデオロギーであるけれど、孟子の義、いわゆる徳治主義(コラム#1625)はネポティズム的イデオロギーであると言ってよかろう。(太田)
<治者・被治者二分論の当然視>
「治者である君子と、被治者である野人とを分別して・・その体制を維持す<べきである>」(156頁)、「前者が治者となってそれに専心し、後者が被治者となって食糧の生産<等>に当るのが、天下に通用する自然な道理だ」(163頁)(注3)
(注3)孟子は、墨家同様、治者・被治者二分論を当然視している。つまり、どちらも民による政治を是とする考え方とは無縁である。(太田)
<治者たる要件>
・総論・・仁政と運命
「不吉な凶事など<が>起こらない、また政治においてはよく治まり、民・・も満足する。・・それが天の心のあらわれである。だからまた、天下は、天が与えるとともに、民・・が与えるともいえる・・決して天子の自由にはならない・・<だから、>天子とても、自分の自由意思で天下を他人に与えることなどはできない」(304~305頁)、天子の位の禅譲・子による継承・放伐、は「そのようなめぐりあわせになる<ということであり、>それが<天>命である」(309頁)(注4)
(注4)墨家は仁政一元論であるのに対し、孟子は運命(天命)・仁政二元論であるととりあえず言っておこう(太田)。
・仁政
「王道<政治とは>、民を安んずるために、まずある程度の経済的な充足をはかり、ついでその経済的基礎の上に、孝悌を中心とする道徳教育を施して、民・・の真の精神的安定と国家の統一とをかちえようとする<ことをいう>」(10頁)、こうした「仁政の下では民衆の協力がえられ、仁政のない所では民・・はそむき離れる。これによって彼を征伐すれば、その必勝は疑いない。「仁者に敵なし。」とはこのことをいう」(14~15頁)、「民・・の満足を得てこそ、天下の王者ともなれるが、そのためには民衆の欲すること憎むことを見きわめて、それにかなった政治をせねばならない。それこそが仁政・・つまり・・民のための政治・・であった」(230頁)(注5)
(注5)民のための政治とは言っても、それはあくまでも君主が天下とるための手段にすぎない(コラム#1561)ことを忘れてはなるまい(太田)。
・運命
「君主・・は・・国家より軽い・・けれども・・国家・・の祭を正しく行なっているのに、天災がおこって民衆を苦しめるようなこと<に>なれば、・・国家・・の神を改める<べきである>。つまり・・国家・・はまた民よりも軽い」(480頁)(注6)
(注6)仁政であるかどうかも、結局のところ、運命(天命)によって判定されるのだから、孟子の主張は究極的には、運命一元論であるとも言えよう(太田。吉永前掲(コラム#1640)123~124頁))。
<治者交代論>
「殷王朝の●(ちゅう)王は・・周の武王に討伐された<が、>仁義に反する者は君ではない・・それは、君を弑したのではなくて、「一夫●(ちゅう)を誅」したにすぎない」(53頁)(注7)、「親戚関係のない大臣・・は、諫めて聴かれないときは、その君のもとを離れ去る<べき>であるが、君主の親族で大臣となった者・・は、君主に大きな失政があり、それを諫めてくりかえしても容れられないときは、君主を追放して、別に一族の賢者を立てる<べき>である」(356頁)(注8)
(注7)孟子の革命思想(治者交代論)について、平岡武夫京大教授(当時)は、金谷前掲書の付録(2頁)で次のように要約されている。
「フランスやロシヤのRevolutionは、旧制度を徹底的に破壊して、相対立する異質の新体制をつくり上げる(注2)。しかし、孟子たちのいう革命は、天の理念の再認識であり、復興にほかならない。革命の行為が求めるものは、目前の乱れを、その昔にかつてあった秩序と調和の世界(注3)にもどすことである。堯舜の政治に象徴される理想を再認識することである。したがって、孟子たちの革命は、生殺の問題ではなく、新陳代謝の問題である」
(注8)こんなところにまで、孟子流のネポティズムが顔を覗かせている(太田)。
<その他・・マキャベリズムの否定>
「天下の危急を救うには、あくまで正道によるべきで、ここに権道の許される余地はない」(239頁)(注9)
(注9)孟子は、徳治主義にとらわれて政治の何たるかが全く分かっていないと言わざるをえない(太田)。
3 孟子の評価
孟子の重要性は、孔子の思想と墨家の思想を弁証法的に止揚して・・退化させて?・・、その後の支那の治者階級の人々に広く共有されるイデオロギーを樹立した(注10)ところにあります。
(注10)支那の歴代王朝の創始者の中には、明の太祖の朱元璋(1328~98年)のように、孟子、とりわけその君臣関係の双務性の主張が大嫌いな者もいた(金谷治・金谷前掲書の付録(4頁))が、これは、彼が、毛沢東(後述)ほど徹底はできなかったものの、墨家的に絶対専制君主として新王朝を興し、統治した例外的な人物だったからだと思う。(例えば、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B
(3月5日アクセス)参照。)
ところが、そのイデオロギー・・徳治主義・・が治者に都合がよく、かつ伝統的共同体の倫理と親和性ある保守的なイデオロギーであったこと、を一つの原因として、支那の歴史は、2,000年以上にわたって停滞を余儀なくされるのです。
よかれ悪しかれ、この支那の長期的停滞を打破したのが、墨家の思想を密かに復活させ、伝統的共同体の道徳を排斥し、絶対専制君主となることに成功した毛沢東であった(コラム#1640)(注11)、というわけです。
(注11)毛沢東がいかに自分の配偶者や子供達に対して冷淡な人物であったかはよく知られている。民の安寧に対する冷淡さはそれ以上だったが・・。(典拠省略)。
いずれにせよ、支那の漢人の歴史には、基本的に墨家の思想と孟子の思想しかなく、後は迷信の類なのですから、支那の人々に心から同情せざるを得ませんね。
始皇帝/墨家の思想v.毛沢東/マルクスレーニン主義(続)
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