太田述正コラム#2317(2008.1.23)
<世界帝国とその寛容性・包摂性(その1)>(2008.7.29公開)
1 始めに
移民の受け入れとか外国人への地方参政権の付与と聞いただけで、相変わらず拒否反応を示す日本人が少なくないこともあり、支那系フィリピン人の両親の間に米国で生まれ、ユダヤ系米国人と結婚したチュア(Amy Chua)エール大学ロースクール教授(女性)が昨年上梓した’Day of Empire: How Hyperpowers Rise to Global Dominance — and Why They Fall’の概要をご紹介することにしました。
(以上を含め、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/01/03/AR2008010302906_pf.html
(1月6日アクセス)、
http://www.salon.com/books/review/2007/11/19/chua/、
http://www.nytimes.com/2007/11/18/books/review/morrow.html?pagewanted=print、
http://www.latimes.com/features/books/la-bk-kurtzphelan11nov11,0,2652809.story?coll=la-books-headlines、
http://www.1913intel.com/2007/12/31/day-of-empire-how-hyperpowers-rise-to-global-dominance-and-why-they-fall/、
(以上すべて1月23日アクセス)による。)
2 チュアの本の概要
(1)総論
史上出現した大帝国であるペルシャ、ローマ、唐、モンゴル、オランダ、英国、米国には共通点がある。
寛容性(tolerance)ないし包摂性(inclusiveness)だ。
寛容性・包摂性を戦略的・戦術的に駆使することによって、各帝国は円滑な支配と人材の確保が可能となったのだ。
これに反し、強制は非効率的だし、迫害は高くつくし、民族的ないし宗教的均質性は非生産的だ。
(2)ペルシャ
アケメネス朝ペルシャ(Achaemenid Persian Empire)創始者のキュロス大王(Cyrus the Great。?~BC530年)とその子ダリウス大王(Darius the Great。BC549~485年。国王:BC522~485年)の宮廷は国際色豊かであり、エジプト人の医者、ギリシャ人の科学者、バビロニア人の占星術師らが集っていた。
最盛期にはペルシャの版図は西はドナウ川から東はインドに及んだ。
帝国の各地方の法、慣習、宗教は尊重された。よく知られているのは、キュロスがバビロン捕囚のユダヤ人を解放し、カネを出してエルサレムにユダヤ教の神殿を再築させたことだ。
帝国の公式言語はアラム語(Aramaic)、エラム語(Elamite)、バビロニア語、エジプト語、ギリシャ語、リディア語(Lydian)、及びリシア語(Lycian)だったが、ダリウスはこのどの言語も読むことはできなかったと考えられている。(注1)
(注1)英国における最近のアケメネス朝ペルシャへの高い評価については、コラム#867~869参照。(太田)
(この帝国の弱点は、凝集性を担保すべき共通の宗教、言語、文化がなかったことだ。
帝国には被支配者に付与すべきアイデンティティーないし市民権がなく、寛容なペルシャの支配の下で、ギリシャ人、エジプト人やフェニキア人はギリシャ人、エジプト人、フェニキア人であり続けた。
このため、ダリウスの子クセルクセス(Xerxes。BC519~465年。国王:BC485~465年)やその後継者達の統治が過酷で非寛容となり、エジプトの都市を破壊したりギリシャの神殿を掠奪したりするようになると、各民族は帝国に対して叛乱を起こし、帝国を瓦解させてしまうのだ。)
(3)ローマ
ローマは、アフリカ人、スペイン人やガリア人らをどしどし登用した。
クラウディアス(Claudius)1世(BC10~AD54。ローマ皇帝:41~54年)は、元老院で、「<ロムルスは>敵と戦った同じ日にその敵の帰化を認めた。・・<ガリア人だって元老院に受け入れてもよい。何となれば>彼らはもはやズボンを履いておらず、<ローマ風のトガを身につけているからだ>」と演説した。
トラヤヌス(Trajan。53?~117年。皇帝:98~117年)は、スペイン人であり、最高顧問達にはギリシャ人、イスラム教徒、ユダヤ人がいた。
セプティミウス・セヴェルス(Septimius Severus。146~211年。皇帝:193~211年)はアフリカ人でシリア人がお妃だった。(注2)
(注2)ローマ滅亡の原因については、コラム#858、859参照。(太田)
(4)唐
漢人とトルコ人の祖先を持つ太宗(Taizon。李世民。598~649年、皇帝:626~649年)によって建国された唐(Tang)は、宗教的・民族的に寛容であり、おかげで大帝国を築くことができた。
唐の最盛期の713年、第6代皇帝の玄宗(685~762年。皇帝: 712~756年)はアラブの使節団を引見したが、その際、彼らが叩頭の礼を行うことを免除した。
その約1,000年後、清は英国の使節団に対して叩頭の礼を強い、それを拒否した使節団は皇帝に会うことなく引き揚げたことと比較せよ。
唐は、後に上記の寛容性を失い、爾後支那は長期にわたる緩慢かつ内向きの衰亡を続け、欧米に文化的にも技術的にも大幅に後れを取ることとなってしまった。
(5)モンゴル
モンゴルは残虐だったが、同時に民族的・宗教的に極めて寛容であったために大帝国を築き上げることができた。
モンゴル軍は、近衛部隊は仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、原始宗教教徒からなる9つの種族によって構成されており、種族を混淆した形で編成されていた。
チンギス・ハーン(Genghis Khan。1162~1227年)とその後継者達は、文盲であり、科学、技術、農業、文字とは無縁だったが、出会ったすべての文化の最良の部分を採用することでバグダッド、ベオグラード、モスクワ、そしてダマスカスを征服した。
また、このモンゴルの支配者達が、13世紀に支那の芸術、音楽、演劇を奨励した。(注3)
(注3)モンゴル帝国への最近英米における高い評価等については、コラム#626、633~637、647、658、659、668、671参照。(太田)
(続く)
世界帝国とその寛容性・包摂性(その1)
- 公開日:
>移民の受け入れとか外国人への地方参政権の付与と聞いただけで、相変わらず拒否反応を示す日本人が少なくないこともあり
問題のすり替え。
間違った歴史認識に基づく反日教育を受けて来た外国人(特に中国人や韓国朝鮮人)を大量に移民として受け入れる事や、同様に日本の伝統文化を批判し破壊しようとしている在日韓国朝鮮人への参政権付与に反対しているのだ。
>史上出現した大帝国であるペルシャ、ローマ、唐、モンゴル、オランダ、英国、米国には共通点がある。
大帝国を崇めるのは権力者サイドの発想。
一般国民にとって重要なのは自由と安全と衣食住に不足しない事だ。
>寛容性(tolerance)ないし包摂性(inclusiveness)だ。
機械製綿織物を売りつけてインドの伝統的綿織物業を破壊し、中国にアヘンを売りつける為にアヘン戦争を起こしたイギリスの「寛容性・包摂性」ねえ・・・
それは「手段」に過ぎないし、又そう認識されている。
>モンゴルは残虐だったが、
Wikipediaより
文永の役
1274年10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させ、壱岐守護代の平景隆を自害に追い込んだ。さらに『新元史』によれば、この時民衆を殺戮し、生き残った者の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし見せしめにしたという。また元の将軍がこのときに捕虜とした子供男女200人を高麗王と王妃に献上したという記録が、高麗側に残っている。
なんと寛容で包摂的で残虐な事よ!
原因と結果が逆のように思いますね。
興隆期にある民族は,他民族に寛容でも主導権を失わず,衰退期の民族は,主導権を維持するために,寛容たり得ないと言うことでは。
寛容であったから発展したのではないような。
ただいまの日本は,生き残るためだけでも寛容足らざるを得ないかも知れませんが。
しかしレバノン化することも考えられますね。