太田述正コラム#2733(2008.8.16)
<サルコジ批判(その2)>(2008.9.26公開)
3 女性遍歴から見たサルコジ像
(以下、
http://www.vanityfair.com/style/features/2008/09/bruni200809?printable=true¤tPage=all
(8月9日アクセス)、
http://en.wikipedia.org/wiki/Nicolas_Sarkozy、
http://en.wikipedia.org/wiki/Carla_Bruni、
http://en.wikipedia.org/wiki/C%C3%A9cilia_Sarkozy、
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Attias
(どちらも8月16日アクセス)による。)
サルコジが4歳の時に両親が離婚し、母親とともに母親の両親のところでサルコジが育てられた話を以前(コラム#1765で)しました。
1982年、27歳の時に、サルコジは、コルシカ出身の薬剤師の娘であるマリー・ドミニク(Marie-Dominique Culioli)と結婚します。
1984年、サルコジはニュイイ(Neuilly)の市長として、当時26歳のセシリア(Cecilia Ciganer-Albeniz。父親は毛皮商人。母方の曾祖父はスペインの作曲家のアルベニス)の52歳の男性歌手ににしてTVパーソナリティとのできちゃった婚の結婚式を主宰し、結婚式後13日目に生まれた女の子の名付け親になります。(1987年にもセシリア夫婦は子供(女の子)をさずかります。)
セシリアは小さいときピアノがうまかったのですが、大学をすぐ中退し、モデル業に従事していた女性です。
一説によればこの時、もう一つの説によればその3年後に、サルコジはセシリアに一目惚れしたといいます。
この間、1985年と1986年にそれぞれ、サルコジ/マリー・ドミニク夫婦にも男の子が生まれます。
1988年になるとサルコジとセシリアは深い仲になり、同棲を始めます。
写真を見る限り、マリー・ドミニクも結構美人ですが、サルコジがより美人のセシリアに惹かれたのは分かりますし、セシリアが若くして市長を務めていたサルコジに惹かれたのも分かります。
その後、1989年にセシリアの方は離婚をしたのですが、サルコジはなかなかマリー・ドミニクに離婚してもらえなかったところ、セシリアはサルコジの公式行事等に参加するようになります。ニュイイ市民は、こんなセシリアのことを「市長の売春婦」と呼んだそうです。
サルコジが「出世」して行くにつれて、セシリアはサルコジの仕事の上での相談相手として活躍するようになり、今度は「<サルコジの>航空管制官」と呼ばれるようになります。
サルコジが予算担当相となった1993年、セシリアは勝手にセシリア・サルコジと名乗るようになります。
そして、サルコジの離婚が成立した1996年に二人はようやく結婚し、翌1997年に二人の間の唯一の子供(男の子)のルイが誕生します。
二人はともにサルコジ大統領実現に向けて協力を続けます。
サルコジが内相であった2002年から2004年、そしてサルコジが短期間財務相であった2004年、セシリアはサルコジに隣接するオフィスで「勤務」して、省内の人事や政治に口を出しました。
ところが、サルコジはセシリアに惚れ抜いていたというのに、浮気の虫がおさまりません。
中でも有名なのは、当時の大統領のシラクの娘のクロード(Claude)と流した浮き名です。
それでいて、サルコジはセシリアを一日百回も呼び、「愛してる」と伝えるような男でした。2006年には、選挙の際の公式自伝の中で、セシリアのことを、「最初の出会いから20年経った現在でも、彼女の名前を口にすると感動する」と記しているほどです。
そしてサルコジは、セシリアを傍らにはべらしておきたいがために、自分も政治家になりたかったセシリアに政治家になることを禁じました。
こんなサルコジにセシリアが愛想を尽かしたのは分からないではありません。
2005年にセシリアは、モロッコ生まれのユダヤ人で、ニューヨークを拠点とするイベント業者のアッティアス(Richard Attias)と恋に落ち、彼女はルイと共にニューヨークのアッティアスの所へ出奔するのです。
サルコジはサルコジで、フィガロ紙の政治記者である、2児の母たる既婚女性と愛人関係になります。
これに嫉妬したというのですから女心は複雑ですが、2006年に入るとセシリアは一旦、サルコジの下に戻ります。
(続く))
サルコジ批判(その2)
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