太田述正コラム#13956(2024.1.7)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続)>(2024.4.3公開)


第10回から、出来が復調していたので、最後まで鑑賞すると決めました。

 ここまで『始皇帝』を鑑賞してきて、私が初めて知った史実で印象に残ったことの一つは、秦王政(始皇帝)が生まれてから彼が太子となる頃までの、秦の、姻戚等の関係を通じての、もう一つの大国たる楚との濃厚なからみです。
 すなわち、「華陽太后(かようたいごう)は、楚の公女で秦の王太后。諱と父母は不明で、姉(諱は不明)と弟の陽泉君がいる。秦の孝文王の継室。継子の子楚が荘襄王として即位前は華陽夫人或いは華陽后と呼ばれ、即位後は華陽太后と呼ばれるようになった。秦の恵文王の側室で昭襄王の生母だった宣太后や秦の丞相で後に楚王となる昌平君(公子啓)らと同じく楚の公族である羋姓であり、始皇帝の養祖母にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E α
というわけです。
 このうち、宣太后と華陽太后の秦王室の家系図における位置づけを図示するとこうなります。↓

                夏姫-|

 恵文王-| |-荘襄王-秦王政(始皇帝)
|-昭襄王-孝文王-|  ↓
 宣太后-| |=
華陽太后-|

 そこで、TV映画の『始皇帝』には出てこない、宣太后の事績を、まずもって調べてみました。↓

 「宣太后(せんたいごう。?~BC265年)は、<支那>戦国時代の楚の公女で秦の王太后。本名と両親は不明。・・・恵文王の側室で昭襄王<ら>・・・の生母・・・<で>始皇帝・・・の高祖母にあたる。・・・
 義渠は東周時代に涇河北部から河套地域にかけて活躍した古代民族の一支族である。春秋戦国時代においてその勢力は一少数民族ながら強勢であり、秦や魏と争えるだけの力を持っていた。
 恵文君7年(紀元前331年)、義渠国内で内乱が発生し、恵文王は庶長の操を派遣してこの内乱を平定させた。
 恵文君11年(紀元前327年)、恵文王は義渠に県を置き、義渠王は秦の臣となった。
 恵文王6年(紀元前319年)、秦は義渠を攻撃し郁郅(現在の甘粛省慶陽市の東)を奪取した。義渠は報復のため翌年公孫衍が組織した楚・韓・趙・魏・燕の合従軍に与して秦を攻撃した(函谷関の戦い)<(注1)>。

 (注1)(BC241年にも函谷関の戦いがある。)「秦の東方拡大戦略は、東方六国を深刻に脅かした。紀元前319年、公孫衍は韓の支持の下、張儀に取って代わり魏の国相となった。魏の恵王は張儀を追放し、張儀は秦へ亡命した。
 紀元前318年、公孫衍は魏・趙・韓・燕・楚の合従軍を率いて秦に侵攻した。合従軍の総大将は楚の懐王が努めた。公孫衍は義渠へ遊説し、合従軍に組み入れた。秦は綾絹1000匹と婦女100人を義渠へ送り、秦への脅威感を和らげようとした。しかし、義渠国君は厚いもてなしが策略であることを見抜いた。秦の危機に便乗し、出兵し秦軍を李帛で大敗させた。しかし、合従軍の五国はそれぞれの利害のため足並みが揃わず、実際に出兵したのは魏・趙・韓の三国のみであった。合従軍は函谷関を攻撃したが、秦軍によって撃破された。
 紀元前317年、秦は庶長の樗里疾率いる秦軍が函谷関から打って出て、韓趙魏の軍に反撃した。趙・韓軍を修魚で大敗させ、韓将の申差は捕虜とした。合従軍の8万2千人が斬首された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BD%E8%B0%B7%E9%96%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D318%E5%B9%B4)

⇒楚は秦と並ぶ大国だったので、楚王が総大将に担ぎ上げられたのでしょうが、にもかかわらず、楚軍の出兵がなかったのは、国内のまとまりがなかったのでしょうね。(太田)

 義渠は合従軍の動きに便乗し、李帛(現在の甘粛省天水市の東)で秦軍を破った。
 恵文王11年(紀元前314年)、恵文王は再度軍を派遣して義渠を攻撃し、徒涇(現在の山西省と陝西省の間の黄河南部の西辺り)を攻め二十五の城を奪って義渠の力を大きく削いだがそれでも義渠は一定の勢力を保った。
 昭襄王元年(紀元前306年)、昭襄王が王位についた際、義渠の戎王が祝賀のため来朝した。宣太后はこの時戎王と私通し2人の子を儲けた。昭襄王は宣太后と義渠を滅ぼすための密謀を立て、昭襄王35年(紀元前272年)、宣太后は戎王を誘い出して入秦させると甘泉宮に呼び出し、そこで戎王を殺害させた。
 秦は直ちに義渠へ兵を送るとこれを滅ぼし、義渠の故地に隴西郡・北地郡・上郡を置き、長城を築いて異民族の侵入を防いだ。・・・
 宣太后は政治運営を魏冄・羋戎・公子巿・公子悝の四貴に任せ、その権力は時の秦王である昭襄王の権力を上回り、四貴・・宣太后・魏冄・羋戎を指して三貴とも称される・・こそが国を動かしている事を秦国内で知らぬ者は無かった。

⇒羋戎の「羋」は楚の王族の姓(α)であることに注意。
 公子巿・公子悝も、昭襄王と同じく、宣太后(と恵文王)の実子達です。
 そして、戎王を謀殺する計画を立てたのは宣太后、で決まりでしょう。(太田)

 その様な中、魏から秦に逃亡してきた范雎が昭襄王に仕えるようになり、その重用を受けるに至ると范雎は昭襄王に対し夏・殷・西周の三代が滅んだ理由は、君主が政治を臣下に任せきりであった事に起因すると言上し、宣太后を始めとする四貴を罷免し、その権力を剥奪する事を申し出た。

⇒秦の、楚以外の外国出身の重臣達は、論理必然的に、楚出身の秦の有力者達に対抗することにならざるをえないのでしょうね。(太田)

 昭襄王42年(紀元前265年)、昭襄王は范雎の上奏を容れると宣太后を退位させ、四貴を罷免して関外のそれぞれの封地へ追放し、宣太后並びに四貴の秦の政治への影響力を無きものとし、自身の王権体制を確立させた。・・・
 <こんな>逸話<がある。>
 楚は韓を攻め、韓は秦に救援を請う。宣太后は「以前先王に仕え、先王は太ももを私の体に置いた時に、私はとても疲れました。しかし先王が体を全部私の体に押し付けた時、私は重いとは感じませんでした。これは私にとって気持ちがいいからです。今韓を助けるなら、これは私と秦にとって何のメリットがありますか」を理由に、これを拒否した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%A4%AA%E5%90%8E

⇒性にあけっぴろげなのが宣太后だけではなく、楚人共通だったとすれば、楚人と出自を同じくする我が弥生人もそうであった可能性があり、仮にそうだとすればですが、この点でも弥生人は縄文人と意気投合したはずです。(太田)