太田述正コラム#14098(2024.3.18)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その31)>(2024.6.13公開)

「朱子学のテーゼは「聖人、学んで至るべし」。
 「学」べば聖人になれる、とは、元気の出るスローガンながら、しょせんはエリート向け、「読書」して「学」ばないと聖人にはなれない、という意味でもある。
 陽明学はそれに対し、「満街(まちじゅう)の人、すべて聖人だ」という立場であり、聖人になれる資格はエリート知識人の官僚・郷紳に限らなかった。
 庶民の力量向上がかいまみえよう。
 陽明学はこのように学知を通俗化し、庶民と接近密着しようとした。
 高尚な哲学でありながら、「日用」の生活に真理があるともとなえている。
 教学・知識はもはやエリートの専有物ではなかった。
学術の営為もしたがって、抽象理論の空中戦ばかりではない。
 日々の実務を考察して、実用を案出する「経世致用(けいせいちよう)」<(注44)>の方向が濃厚になってくる。

 (注44)「学問は民生の安定と社会の改良のために生かされねばならないとする儒教の基本的理念。すでに《大学》に〈修身治国〉として表明されている。この理念にのっとり,宋の胡瑗(こえん)は学生に水利や軍事を教え,王安石は〈新法〉によって国家の再建をはかり,朱熹(しゆき)は〈社倉法〉を実施して農民を救おうとした。」
https://kotobank.jp/word/%E7%B5%8C%E4%B8%96%E8%87%B4%E7%94%A8-58986
 「万暦年間(1573‐1619)顧憲成,高樊竜(こうはんりゆう)らは,立太子問題と関連して時の内閣と対立,郷里無錫(むしやく)に帰って東林書院を設立し,同志を糾合して講学活動を行った<が、これを>・・・東林党<と呼ぶ。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%9E%97%E5%AD%A6%E6%B4%BE-1377555
 「東林学派<は、>・・・経世致用<を改めて>唱え<、>・・・これが清初の王夫之,黄宗羲,顧炎武らの主張として清代学問の方向を開いたが,清代の考証学はかえってこれを離れた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%B5%8C%E4%B8%96%E8%87%B4%E7%94%A8-58986 前掲

⇒「注44」を踏まえると、著者のように、経世致用の「流行」を陽明学と結びつけるのは牽強付会のような気がしてきます。(太田)

 たとえば著名な医学書の『本草綱目(ほんぞうこうもく)』、技術書の『天工開物(てんこうかいぶつ)』、農書の『農政全書』は、日用の生活に関わる著述であり、やはり陽明学と同じく南方の所産であった。
 陽明学の「日用」重視は、そうした時流の一端にすぎない。
 生業に関わらない日用といえば娯楽。
 学問が講学なら、娯楽は講談が主流だった。
 いずれもオーラルで共通する。・・・
 そんな講談が文学として残って生まれたのが、中国文学最高峰の白話小説『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』である。
 小説ができれば、文藝評論・文学研究もあらわれる。
 そのはしりは李卓吾(李贄(し))という陽明学者であ<る。>・・・
 李卓吾本人はたとえば歴史書の『蔵書』を著し、既存既成の史観・評価に対し駁論、批判を加えた。
 従前の常識では暴虐無道の君主だった秦の始皇帝・漢の武帝を、あえて名君と称えている。
 また「五代十国」の乱世、30年間の間に11人の君主につかえ、破廉恥・無節操の典型といわれた馮道(コラム#13455)を名臣と評した。
 いずれも現代人の感覚に近い。
 客観的相対的総合的なモノの見方、言い換えれば近代的な視座であって、「近代思惟」と称する向きもある。」(151~152)

⇒始皇帝にせよ、漢の武帝にせよ、私のいう拡大春秋戦国時代に生きた王/皇帝であり、それ以降の支那の(相対的)統一王朝の歴代皇帝達に比べれば「近代的」だったというのが、その趣旨のことを既述したことがあるけれど、私の見解であり、馮道も人間主義「的」統治を心掛けたという意味では「近代的」官僚だったのであり、李卓吾本人が近代人であったとは私は思わないけれど、彼の視座に一貫性があった、とは言えそうです。(太田)

(続く)