太田述正コラム#14144(2024.4.10)
<加地伸行『儒教とは何か』を読む(その4)>(2024.7.6公開)

 「・・・中国人は、この現世に一秒でも長く生きていたいという現実的願望を持っているから、やむをえぬ死後、なんとかしてこの世に帰ってくることができることを最大願望とせざるをえない。
 そこで、死後、再び現世に帰ってくることができるという方向で考える。・・・
 しかし、現実には、死後、肉体は腐敗して骸骨となるだけである。
 そこで〈儒〉はこう考えた、
 人間を精神と肉体とに分け、精神の主催者〈魂(こん)と言う〉と、肉体の主催者〈魄(はく)と言う)とがあり、この魂・魄<(注2)>が一致し融合しているときを生きている状態とする。

 (注2)「古代<支那>では,人間を形成する陰陽二気の陽気の霊を魂といい,陰気の霊を魄という。魂は精神,魄は肉体をつかさどる神霊であるが,一般に精神をつかさどる魂によって人間の神霊を表す。人が死ぬと,魂は天上に昇って神となり,魄は地上に止まって鬼となるが,特に天寿を全うせずに横死したものの鬼は強いエネルギーをもち,人間にたたる悪鬼になるとして恐れられた。人の死後間もなく,屋上から死者の魂を呼びもどす招魂や鎮魂の習俗儀礼は,こうした観念から生まれたものである。一方,魂魄の離散すなわち死という観念は,一転して,魂魄を体内に拘束することによって生命を永遠に維持しうるという考えを生み,〈拘魂制魄〉の方術が仙術およびそれを継承した道教の中で発達した。この過程で,魂魄は人間の体内にあって生命活動をつかさどり,行為の善悪を監視する体内神の一つと考えられるようになり,さらに台光,爽霊,幽精の三魂と尸狗,伏矢,雀陰,呑賊,非毒,除穢,臭肺の七魄とに細分されるに至った。また,古来,夢は睡眠中に身体から遊離した魂魄が外界と接触することによって起こる現象と考えられたが,こうした観念は,身体を離脱した魂魄が遠隔地に現れて本人として活動し,再び肉体にもどるとか,他人に憑依(ひようい)するといった怪異譚を生み,六朝の志怪小説や唐代の伝奇小説にかっこうの主題を提供している。」
https://kotobank.jp/word/%E9%AD%82%E9%AD%84-67509

⇒魂魄観念を儒/儒教由来とする著者の主張は特異であるだけに、典拠が必要ですが、付されていません。(太田)

 逆に言えば、魂と魄とが分離するときが死の状態であるということになる。・・・
 すると理論的に言えば、逆に、分離していた魂と魄とをこの世に呼びもどし、融合一致させると〈生の状態〉に成るということになる。
 最もふさわしいのは、死者の肉体であるが、時が経っており、ただ白骨が残るのみである。
 そこで、白骨化した骸骨の内、頭蓋骨が特殊な意味を持つと考え廟(びょう)(みたまや)に、この頭蓋骨を残しておく。
 残りの骨は、後に埋葬するようになり、それが発展して墓となってゆく。・・・
 そして命日の日にその残しておいた頭蓋骨を取り出してき、生きた人間(祖父に対しては孫である場合が多い)の頭に頭蓋骨をかぶせ、死者になぞらえ(尸(かたしろ)<(注3)>・形代(かたしろ)と言う)、そこに魂・魄を憑(よ)りつかせる。

 (注3)尸位(しい)は、「(昔、<支那>で祖先をまつるとき、その血統の者が仮に神の位についたところから) 才徳や功がなくて位にあること。職責を果たさないで地位にだけついていること。祿ぬすびと。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%B8%E4%BD%8D-515429#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

 匂いのよい香を焚(や)いて天上の魂を招き、香り高い酒を地上に注いで地下の魄を呼ぶ。・・・
 いわゆる招魂復魄儀礼である。・・・」(17~18)

⇒「注3」くらいしか、ネット上では探し出せなかったので、著者の記述を検証することはできませんでした。(太田)

(続く)