太田述正コラム#14188(2024.5.2)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その6)>(2024.7.28公開)

 「・・・倭寇といふのは、朝鮮、支那人がつけた名で、日本の海賊といふことであるが、これは史上、単なる海賊として見逃し難いものがある。
 この倭寇は、・・・元寇に対する復讐のために起つたものであるばかりでなく、当時の武士が半ばは、兵を用ゐ、半ばは、海外に向つて貿易を試みたもので、一つは、わが南海貿易の海路を開いて、造船術、航海術の発達を促し、一つは、朝鮮、支那の国民を震ひあがらせて、その防備に寧日なからしめ、遂に日本を窺ふの心を断念させ、日本海軍の基地を造つたのであつた。・・・
 海賊を大々的に組織して、その大将軍となつたものは、河野通有<(注7)>(みちあり)の子孫である。

 (注7)かわの(1250?~1311?年)。「北条時政の娘を母とした河野通久・・・の孫<。>・・・
 伊予国風早郡善応寺(現在の松山市)の双子山城に勢力を置き、また六波羅探題の命を受け、国内の水軍を束ねて伊予国の海上警備の任に当たっていた。・・・
 元寇に際し、文永の役の後に再度の襲来に備えて北九州に出陣した。
 弘安4年(1281年)の弘安の役では、通有率いる伊予の水軍衆は、博多の海岸に陣を敷く。博多の石築地(元寇防塁)のさらに海側にある砂浜に戦船を置いて、海上で元軍を迎え撃つべく陣を張り、石塁は陣の背後とした。
 この不退転の意気込みは「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、島津氏をはじめとする九州諸将も通有に一目置いた。博多湾に現れた元軍は石築地を回避して志賀島を占領し、この周囲を軍船の停泊地とした。これに対して、日本軍は元軍を攻撃する。
 通有は志賀島の戦いにおいて先に惣領の地位を争っていた伯父の通時とともに元軍船を攻撃したが通時は戦死し、通有本人も石弓により負傷するも、元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る武勲を挙げた。
 恩賞として肥前国神崎荘小崎郷(現在の佐賀県神埼市)や伊予国山崎荘(現在の伊予市)を得て、失われていた河野氏の旧領を回復し、河野氏中興の祖とも呼ばれる。『予章記』によれば肥後国下久具村(現熊本県宇城市)も恩賞地として賜ったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E9%80%9A%E6%9C%89

 それらは河野11家と称して、勢力を張つてゐたのであるが、その河野11家の中でも、伊豫国越智郡の大島に城塁を築いて、一大王国を築いてゐた村上三郎左衛門義弘<(注8)>といふのが、一番勢力があつた人である。

 (注8)?~1374?年。「実在が疑われている日本の南北朝時代の武将。
 能島村上水軍の祖という説もある。伊予(現在の愛媛県)の新居大島を本拠とし、海賊大将とよばれた。元弘の乱では瀬戸内海で北条時直の水軍を破り、その後も南朝方として活躍したという。その後本拠を伊予大島に移した。能島は伊予大島と伯方島の間にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%BC%98_(%E6%AD%A6%E5%B0%86)

 この義弘の後に坐つて、海賊を指揮した人は村上師清(もろきよ)と言ふ人であるが、この人は、南朝の忠臣、北畠親房の一子、顕家の遺子であつて、顕家が、阿倍野で戦死すると、信州にのがれて育った人である。

⇒そもそも、村上師清という子が北畠顕家にいたかどうかも不詳のようですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E9%A1%95%E5%AE%B6 (太田)

 成長すると、300餘騎を率ゐて、信州を出で、紀州、南海、山陽を攻めて、伊豫で、村上義弘の、幕下を降伏させて、倭寇の大将となつたのであつた。
 この師清の子が、村上山城守義顕で、それに3人の子供があり、長男は、西海の警備職に就き、二男は備後因島青木に住み、三男は河野11家中の来島(くるしま)をついで三島に居つて、水軍術に於て勇名を馳せた人である。・・・
日本国の兵備の不足を侮つて、元を促して、日本攻略を企てた高麗王も、僅か30年餘に於て、今度は、日本軍のために攻略されて、・・・一定の期間に財物を与へて機嫌を取つて鋭鋒を緩和したり、足利義満や、対馬の宗家に向つて、和睦を申し込んだり、又は王自身が、倭寇退散の祈禱をあげたり、その防備のために寧日のない有様であつたが、それでも効果がなく、朝鮮は、倭寇のために動揺して、内乱が起き、遂に、李成桂によつて辛 禑が廃されて、朝鮮が統一され、恭譲王といふのが立つに至つた。・・・
 李成桂は、・・・1389<年>・・・に、慶尚道の元帥に、兵船数百艘を率ゐさせて、対馬を攻撃させた。

⇒そんな事件はなかったようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AD%E8%AD%B2%E7%8E%8B ←恭譲王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%88%90%E6%A1%82 ←李成桂
 仮にそんな事件があったとすれば、高麗から李氏朝鮮への王朝交代に倭寇の影響があったとはっきり言えそうで面白いのですが・・。(太田)

 ところが、・・・倭寇のために撃退されてしまつた。
 そこで、今度は、<高麗に取って代わった>朝鮮<が、>・・・明の世祖永楽と語らつて、明と朝鮮の聯合軍を組織し、・・・1419<年、>・・・将軍義持の時に、兵船500艘に、兵士1万人を積んで、対馬に攻めてきた。
 ところが、この時も、我が水軍は、・・・敵の首を斬ること3700餘、船艦は、殆ど全滅させてしまつた。<(注9)>・・・

 (注9)「応永の外寇 (おうえいのがいこう)<。>・・・朝鮮では対馬島主宗貞茂(そうさだしげ)に特権をあたえて,日本から朝鮮に渡航するものを統制させ,倭寇の鎮静に大きな成果をあげていた。ところが,1418年に対馬で貞茂が死に,幼主貞盛がたったが,対馬島内の実権は海賊の首領の早田(そうだ)氏にうつり,しかも倭寇の1船団が朝鮮の沿岸を襲う事件がおこった。朝鮮の上王太宗はこの情勢をみて,かねて倭寇の根拠地とかんがえていた対馬島に攻撃を加えることを決意した。この年6月,兵船227隻,軍兵1万7285人からなる大軍が65日分の食糧を携帯して,巨済島を発し,対馬島に殺到した。朝鮮軍は対馬の浅茅(あそう)湾に入って尾崎に泊し,ついで船越に柵をおき,仁位(にい)に上陸したが,対馬軍の迎撃にあって敗退した。・・・
 後年の編纂(へんさん)物『対州(たいしゅう)編年略』では、日本側の死者123人、朝鮮側は2500余人と伝えられている。・・・
 貞盛は,朝鮮軍に対して暴風期が近づいていることを警告し,あわせて停戦修好をもとめた。朝鮮軍はこの要求をいれて撤退した。朝鮮では己亥(きがい)東征と呼び,対馬では糠嶽(ぬかだけ)戦争と呼んだ。・・・
 11月、室町幕府は、蒙古(もうこ)・高麗(こうらい)連合軍が対馬島に来襲したとの、この事件についての情報の真偽を確かめるべく、数年ぶりに朝鮮へ使僧を送った。それに対して朝鮮側も回礼使宋希璟(そうきえい)(1376―1446)を日本に送って幕府と折衝させた。しかし、その後の交渉はいっこうに進まず、1423年(応永30)に太宗が没し、世宗が政治の実権を掌握すると、宗貞茂の子貞盛(さだもり)(?―1452)に日朝貿易の管理統制権が与えられる形で、朝鮮と対馬の通交関係の回復がなされたのである。かくして、世宗の平和通交の交隣政策によって、宗貞盛と朝鮮王朝の間で結ばれたのが嘉吉(かきつ)条約である。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87-38548

⇒「注9」中の「蒙古・高麗連合軍・・・来襲」との噂を種に明・朝鮮連合軍来襲という真っ赤な嘘が一部に伝わっていたのを松原が拾ったということでしょうか。(太田)

 <しかも、>復讐<的に、>・・・明に対する倭寇の攻略は、・・・1307<年>・・・頃からはじまり、文禄年間まで、250年間絶え間なく続けられた。」(48、51~52)

(続く)