太田述正コラム#14196(2024.5.6)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その10)>(2024.8.1公開)

 「次に、・・・「海国兵談」<(注19)>を著はして、国防の急を唱へたのは林子平であつた。・・・

 (注19)「天明6年(1786年)脱稿、寛政3年(1791年)刊行。・・・本書は、日本の地理的環境を四方を海に囲まれた島国、すなわち海国として捉え、外国勢力を撃退するには近代的な火力を備えた海軍の充実化と全国的な沿岸砲台の建設が無ければ不可能であると説いている。特に政治の中枢である江戸が海上を経由して直接攻撃を受ける可能性を指摘して、場合によっては江戸湾の入口に信頼のおける有力諸侯を配置すべきであると論じ。また、強力な海軍を有するためには幕府権力と経済力の強化の必要性も併せて唱えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%9B%BD%E5%85%B5%E8%AB%87 

 子平は、当時、恐るべき国はロシヤだけではないと考へてゐた。
 それは西欧諸国である。
 しかしそれはまだ東洋に来るには暇がある。

⇒マカオ(Macau)についてはさておき、16世紀に既にスペイン領となっていたフィリピンが子平にとっては東洋ではなかったらしいのには困ったものです。
 この子平の日蓮主義的世界観のよってきたるゆえんを解明できていませんが、一つのカギは、子平が、「『海国兵談』<を>・・・自費出版で須原屋市兵衛から刊行した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%AD%90%E5%B9%B3
ことです。
 というのも、この「江戸<の>・・・須原屋市兵衛<の>・・・版元・・・活動は・・・宝暦12年(1762年)の建部綾足著『寒葉斎画譜』の刊行に始まる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%8E%9F%E5%B1%8B%E5%B8%82%E5%85%B5%E8%A1%9B
ところ、建部綾足は、「俳人、小説家、国学者、絵師<で、>・・・陸奥国弘前藩家老喜多村政方・・・の次男として、江戸に生まれ、弘前で育<ち、>・・・父方の祖母は山鹿素行の娘、・・・また、建部氏は吉良義央の遠縁にあたる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E9%83%A8%E7%B6%BE%E8%B6%B3
人物だからです。(太田)

 なほ恐ろしきは当時の清国であると考へた。・・・
 <しかし、幕府は、この本>を絶版に資、・・・1792<年>・・・に、禁錮にしてしまつたのであつた。
 憂国の先覚者は罰せられたのである。
 ところがロシヤのラツクスマン<(注20)>がわが漂流民をつれて蝦夷の根室に来たのは、それより僅か5ケ月を出でない時であつて、我国の上下には国防論者が輩出するに至つた。

 (注20)アダム・ラクスマン(Adam Laxman。1766~1806以降)。「女帝エカチェリーナ2世・・・の命により光太夫、小市、磯吉の3名の送還とイルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の信書を手渡すためのロシア最初の遣日使節となる。1792年9月24日にエカテリーナ号でオホーツクを出発、10月20日、根室に到着した。
 藩士が根室に駐在していた松前藩は直ちに幕府に報告。・・・しかし、老中松平定信らは、漂流民を受け取るとともに、総督ピールの信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば長崎に廻航させることを指示。そのための宣諭使として目付の石川忠房、村上大学を派遣した。
 併せて幕府は使節を丁寧に処遇せよとの命令を出しており、冬が近づいたため、松前藩士は冬営のための建物建設に協力し、ともに越冬した。
 忠房は翌1793年3月に松前に到着。幕府はラクスマン一行を陸路で松前に行かせ、そこで交渉する方針であったが、陸路をロシア側が拒否したので、日本側の船が同行して砂原まで8日、函館に入港した。
 ラクスマン一行は函館から陸路、松前に向かい、6月20日、松前到着。忠房は長崎以外では国書を受理できないため退去するよう伝えるとともに、光太夫と磯吉の2人を引き取った。ラクスマンらが別れを告げに行った際、・・・長崎への入港許可証(信牌)を交付される。6月30日に松前を去り、7月16日に箱館を出港。長崎へは向かわずオホーツクに帰港した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3
 キリル・ラクスマン(Kirill Gustavovich Laksman。1737~796年)。「スウェーデン系のフィンランド出身の博物学者。フィンランドはラクスマン存命当時はスウェーデン領であった<。>・・・
 [ウプサラ大学での]自らの師であるカール・ツンベルクがかつて出島(現長崎市)に留学して『日本植物誌』を著していたことから、かねてより日本に興味を抱いていたといわれる。
 1790年(寛政元年)、イルクーツクで大黒屋光太夫に出会う。・・・
 帰国を願う嘆願書は、あくまで光太夫たち日本人をロシアに帰化させることを方針としていたイルクーツク総督府によって握りつぶされていた。
 1791年(寛政3年)・・・5月28日光太夫、を>女帝に謁見<させ>、帰国の許可を嘆願することに成功した。・・・
 1792年(寛政4年)、ラクスマンと光太夫ら漂流民はオホーツクに到着し、ラクスマンの次男アダムが遣日使節となる。8月21日ラクスマンと光太夫は決別<し>・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%84%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF([]内)

⇒スウェーデンは、ロマノフ家の前のロシア王家の出身ですが、ラクスマン父子はスウェーデン人・・就中父の方は完璧にスウェーデン人・・で、エカテリーナ女帝の兄はスウェーデン国王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A2%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%9A%87%E5%B8%9D)
で、光太夫の謁見当時のスウェーデン国王はエカテリーナの甥のグスタフ2世だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%953%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E7%8E%8B)
ことが、光太夫らに対する「開明的」取り扱いをもたらしたのでしょうね。(太田)

 寛政の初、水戸の儒者立原万<(注21)>は、一橋治保に向つて、ロシヤの南下の恐るべきことを痛論し、また土生(はぶ)熊五郎<(注22)>の如きはロシヤと交通して蝦夷樺太を開き、武威をカムサツカに張り、更にロシヤを征服せよと言った<。>」(136、138、142)

(注21)立原翠軒(すいけん。1744~1823年)。「水戸藩士。学者として5代藩主徳川宗翰、6代治保の2代にわたって仕える。・・・子孫には昭和初期の詩人、建築家・立原道造がいる。・・・
 永く停滞していた修史事業を軌道に乗せたことは、翠軒の大きな功績によるものであり、翠軒の尽力により後世の水戸学が結実していったといわれている。また、翠軒は藩主治保の藩政にも参与し、天下の三大患について老中の松平定信に上書して、蝦夷地侵略等を警告した。寛政5年(1793年)、門人の木村謙次を松前に派遣し、実情を探らせたという。また、大日本史編纂の方針を巡り、弟子の藤田幽谷と対立を深めていたともいわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%8E%9F%E7%BF%A0%E8%BB%92
 (注22)?~?年。「儒者。もと紀伊(きい)和歌山藩士。・・・蝦夷(えぞ)地の開拓をとなえた。・・・著作に「制度通考」「船舶考」「防海紀略」など。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E7%94%9F%E7%86%8A%E4%BA%94%E9%83%8E-1101887

⇒林子平は上で示唆したように日蓮主義者との縁が見られ、立原翠軒も土生熊五郎も、それぞれ日蓮主義藩である、水戸藩と紀州藩の出身者であることに注目すべきでしょう。(太田)

(続く)