太田述正コラム#14198(2024.5.7)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その11)>(2024.8.2公開)

 「1796<年>・・・には、・・・加賀の本多利明<(注23)>が「国家豊饒策」を著して、蝦夷の開拓をのべ、間もなく「西域物語」を著はして、北方経営を提唱した。・・・

(注23)1743~1821年。「生まれは越後(現在の村上市)とも。18歳で江戸に出て、千葉歳胤に天文学を、今井兼庭に関流和算などを学ぶ。諸国の物産を調査し、1766年(明和2年)24歳の時、江戸に算学・天文の私塾を開き、以後晩年にいたるまで、浪人として門弟の教育に当たるとともに著述に専心した。一時は加賀藩の前田家に出仕する。1781年(天明元年)39歳の頃から北方問題へ関心を強め、危機意識を持った。1787年(天明7年)奥羽地方を旅し、天明の大飢饉に苦しむ会津藩・仙台藩などの農村の悲惨さを目のあたりにした。これらが主な動機となって、彼の関心は経世論に向かった。1789年(寛政元年)に『蝦夷拾遺』や江戸開発論を発表した。1801年(享和元)には幕命で江戸から蝦夷間の航路を調査する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%98%8E
 「浪人本多伊兵衛を父と<する。>・・・蘭学に近づき,西洋流の天文・測量・地理を踏台として経世家的蘭学者の道へ進む。・・・鎖国下に万国交易論を唱え,一種の重商主義の先駆となった。〈属島開業〉=版図の拡大を考え,北海道・樺太を開発し,ついにはカムチャツカに日本の本都を移すべきであると主張したが,平和的な手段によるものであった。・・・
 加賀藩に晩年の1年半を仕えた以外は浪人を通した。著名な弟子に蝦夷地探検の最上徳内や和算家の坂部広胖がいたが,経世家の弟子がおらず彼の思想は長い間埋もれていた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%98%8E-135132

 <また、>佐藤信淵<(注24)は、>・・・1808<年の>・・・8月15日に長崎に入港した英船フェートン号に刺激され<、>・・・「防海策」2巻を著した・・・

 (注24)1769~1850年。佐藤信季(前出)の子。「野心家であった信淵は、実際には牢人の身であり、それゆえ仕官を強く望んでいたが、なかなかその望みはかなえられなかった。好奇心の強い信淵は、多種多様な知識を誇ってはいたが、どの分野の知識も専門家と呼ぶには中途半端であり、本業であるはずの医学に関してもみるべき著作はなく、また、信淵が称するところの佐藤家の家学(天文・地理・鉱山・土木・兵学など)も個別にみるならば先人の説の受け売りという水準を大きく越えるものではない。・・・
 「自分の学説は今の世に認められなくても、後世すぐれた君主があらわれれば必ずやわが家学をもって天下を一新することになるだろう」と述べ、生涯にわたって著述をつづけた<。>・・・
 信淵・・・は・・・本多利明の重商主義論から強い影響を受けた。・・・
 数学者であった利明がわずかな体験と書物から得た西洋事情だけであったのに対し、信淵が鉱山学や農学などの幅広い知識をもとに同じ一国重商主義でも国内生産力の増進を盛り込むかたちで論を展開しえたところに大きな違いがあった。また、対外進出についても利明が平和的なものであったのに対し、信淵の場合は戦争をともなう軍事的な侵略が明確に示されていた。いずれにせよ、徳川体制下において、対外的・対内的両視野をもつ統一国家を構想したことは希有なことといってよい。さらに、海防・通商に関して信淵は、イギリスの富強は世界各国との貿易によっており、通商航海はおおいに必要であると説いて公然と開国論を唱え、貿易の官営、産業の独占によって幕政や幕藩体制下の経済の行き詰まりを打開しようとしたのである。・・・
 日本至上主義を唱えたのみならず、満州、朝鮮、台湾、フィリピンや南洋諸島の領有等を提唱したため、近代日本の対外膨張主義の先取り、さらには「大東亜共栄圏」構想の「父」であるとみなす見解が存在する<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5

 <それは、>「抑々海寇を防御するには、此を逆襲に非ざれば勝算は無き者なり」といふ名言によつて始まつてゐる。
 <対象は、>子平の時には、・・・ロシヤ<しか>・・・視野に入つてゐなかつたが、<それに加えて>・・・イギリスであつた。・・・
 1823<年>に書かれた、「宇内混同秘策」に於ては、・・・北進と、南進を以て、ロシヤ、イギリスに対抗するのみならず、大陸政策を実行して、支那の満州に形勢の地位を占める必要を説いたのである。」(142、156~158)

⇒日蓮主義と直接の関係がなく、かつ浪人系であったところの、林子平、本多利明、佐藤信淵、は、それぞれ、発展的に、対露防衛、対露北進、対露北進・満州進出及び対英南進、を主張したことになります。
 佐藤の場合、津山藩、久保田藩、徳島藩、宇和島藩、薩摩藩、綾部藩、幕府、等と関わりを持ちました(上掲)が、恐らくは、日蓮主義者たる島津重豪と斉彬に最も強い刻印を残したのではないでしょうか。(太田)

(続く)