太田述正コラム#14204(2024.5.10)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その14)>(2024.8.5公開)

 「徳川時代に於ては、・・・小幡勘兵衛景憲<(注35)>が案出した甲州流・・・の流を汲む・・・山鹿素行<(注36)の>・・・山鹿流が一ばん盛んであつた。

 (注35)1572~1663年。「1582年(天正10年)3月の織田信長による武田征伐の<後、>・・・景憲は他の武田遺臣とともに武田遺領を確保した徳川氏に仕えたが、1595年(文禄4年)に突如として徳川秀忠のもとを出奔して諸国を流浪したという。
 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、徳川氏の家臣・井伊直政に属して戦功を挙げたといわれ、1614年(慶長19年)の大坂の陣では豊臣氏に与したが、内実は徳川氏に内通しており、江戸幕府京都所司代の板倉勝重に連絡していたという。戦後は再び徳川氏に仕えて1500石を領した。・・・
 景憲は甲州流軍学の創始者として名高く、幾多の武士に教授したとされる。特に北条氏長・近藤正純・富永勝由・梶定良は小幡の高弟として名高く「小幡門四哲同学」などと呼ばれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B9%A1%E6%99%AF%E6%86%B2
 (注36)「山鹿素行<は、>・・・15歳から・・・小幡景憲、北条氏長の流の軍学を・・・学んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C
 北条氏長(1609~1670年)。「外曾祖父は<後北条氏第2代当主の>北条氏康。・・・幕臣、軍学者。・・・氏長の兵法の特徴はまず、それまでの“軍学”や“軍法”といった言葉ではなく兵法という言葉を用いたことである。これまでの軍法は抽象的、概念的なものや武士の心得といったものが多分に含まれていたが、氏長の兵法は「実践に役立つ軍事学のみ」であった点が大きい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E9%95%B7

 ところが、これらのものは、我国の国内に於ける戦争や、または護身用の武術であつたので、外国を相手にして戦ふやうな大戦争になつてくると既に旧弊に属することになる。・・・
 そこで、水戦術に於ては、倭寇の開いた海賊流<(注37)>を改良して、西欧の水戦術を学んだ「全流」<(注38)>が起り、林子平の「海国兵談」が起つた。・・・

 (注37)「吉野朝の頃、伊予の豪傑村上義弘が諸海賊を征服して己の麾下に置き、自らその大将軍となり水軍を組織しこれを海賊流と称したるが如く思われる。」
http://www.sakanouenokumo.com/saneyuki_denki8_10.htm
 (注38)調べがつかなかった。

 ところが、天保年間(西暦1830~44)に於て、陸上戦に於て、はじめて、改革の烽火があがることになつた。
 それは長崎の町年寄で、親しく外国の兵術を研究しつゝあつた、高島四郎太夫秋帆<(注39)>(しうはん)の出現である。」(206~208)

 (注39)1798~1866年。「近江源氏佐々木氏の末裔。・・・出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。また、この年に肥前佐賀藩武雄領主であった鍋島茂義が入門すると、翌天保6年(1835年)に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E7%A7%8B%E5%B8%86
 鍋島茂義(1800~1863年)。「肥前国佐賀藩士。武雄鍋島家9代当主。28代佐賀藩自治領武雄領主。・・・天保5年(1834年)、日本の封建領主で最初に高島秋帆に弟子入りして西洋式砲術や科学技術を究めると共に、義弟で10代藩主・斉正(直正)に大きな影響を与え、幕末期の佐賀藩の高度な軍事力・技術力開発のさきがけとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E8%8C%82%E7%BE%A9

⇒「徳川慶喜は後年、聞き書きの回顧録『昔夢会筆記』で、直正を「俗に言ったらこすい人、善く言えば利口才子という人だ。」と評している。・・・
 <鍋島直正>は親幕的な行動を取りつつも幕府と一定の距離を保ち、明治維新まで佐賀藩が主導権を握れなかった一因になった。だが、そのために佐賀藩では他藩のような騒動はほとんど起こらず平和が保たれている。また、藩政改革における閑叟の人材育成と登用、西洋化軍隊の育成などは高く評価されている。なお、反射炉を日本で最初に築いたのは閑叟である。戊辰戦争では佐賀藩兵40名ほどが他藩の1000名に匹敵するとまで評されており、佐賀藩の西洋化軍隊の強さを窺わせるものである<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E7%9B%B4%E6%AD%A3
という次第であり、高島秋帆も鍋島直正も、薩摩藩の日蓮主義や長州藩の反幕意識とは無縁の開明的人物であったところ、島津斉彬と従兄弟関係にあった直正
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%B2%BB%E9%81%93
は、薩長両藩の間に位置した佐賀藩の舵を、幕末・維新期において、この薩長にただ乗りする形で、舵を巧みに執った「こすい人」だった、と、言えそうです。(太田)

(続く)