太田述正コラム#14218(2024.5.17)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その20)>(2024.8.12公開)

 「安政元<(1854)>年7月6日、カピタン、キユルチユス<(注51)>が長崎奉行水野忠徳へ与へた書簡<における>・・・建言に従つて、安政2年(1855)の7月、長崎に海軍伝習所を設けて、蘭人を師にして海軍教育をなすことに決し、観光丸を練習艦にして、航海、造船、機関、数学等、学科と実際とを学ばせた。

 (注51)ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウス(Jan Hendrik Donker Curtius。1813~1879年)。「オランダのアーネム(Arnhem)で[神学者の息子として]生まれ[、ライデン大学で法学を学ぶ。]。1835年にオランダ領インドネシアのジャワ島に渡り、バタヴィア高等法院の評定官、高等軍事法院議官を経て、1852年7月、長崎に来日する。同年11月、出島の<結果的に最後の>オランダ商館長<(カピタン)>に就任した。1855年8月には駐日オランダ理事官を兼務する。
 長崎奉行との交渉を委任され、米国が砲艦外交で日本に開国を迫ろうとしていることを、オランダ風説書とともに提出した「別段風説書」で江戸幕府に予告した。その際、米国との交渉の前にオランダとの間に通商条約を締結して開国すべきと進言し、交渉を開始するが不調に終わる。2度に渡るペリー艦隊来航の後、1855年に日米和親条約が締結されると、開国政策に転じた幕府の要求に応じ、スンビン号(のち観光丸)寄贈の手配を行い、ヤパン号(のち咸臨丸)とエド号(のち朝陽丸)の軍艦2隻の発注、長崎海軍伝習所の設立、オランダ海軍士官(ファビウス、カッテンディーケら)の招聘などに関与。これらの活躍を通じて日本側の信頼を得、安政2年12月23日(1856年1月30日)、ついに日蘭和親条約の締結に至った。安政3年7月10日(1856年8月10日)、イギリス使節の渡来を知らせ、列国との通商条約締結を幕府に勧告した。さらに、安政4年8月29日(1857年10月16日)、日蘭追加条約を締結。これは自由貿易関係への移行を前提とした貿易規制の緩和を含む、日本が外国と結んだ最初の通商条約であった。
 安政5年7月10日(1858年8月17日)には、日米修好通商条約から19日遅れでほぼ同等の内容の日蘭修好通商条約を締結、自由貿易が認められた(万延元年2月9日、批准書を交換した)同年、長崎奉行と交渉し、踏み絵の廃止を実現するなど、開国後のオランダ最初の駐日外交官として日蘭間の交渉役を続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%B3%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9
https://en.wikipedia.org/wiki/Janus_Henricus_Donker_Curtius ([]内)

 目附永井尚志<(コラム#9809、9843、10824、12808)>(なおゆき)が総指揮役となり、旗本、各藩の有志を選抜して入学させた。
 その人数を見ると
 幕府 69人 鹿児島藩 16人 熊本藩 5人 福岡藩 28人 萩藩 15人 佐賀藩 48人 津藩 12人 福山藩 4人 掛川藩 1人
であつ<た。>・・・
 <やがて、>政府の軍艦が、8艘、諸船舶が36艘で、諸般(29家)の所有船が94艘といふことに<あい>なつ<た>。・・・
 松陰は、西欧諸国には抗し得ない現状であるから、いま暫くは、その長を学び、むしろ大陸遠征を試みて、士風を鼓舞しようと考へてゐたやうである。・・・
 <松陰の>次に外征を唱へたのは、佐藤一斎の門に学んで、佐久間象山と並び称せられた岡山藩の儒者、山田方谷(ほうこく)である。

⇒「岡山藩」は、「備中松山藩」の誤り。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%96%B9%E8%B0%B7

 彼は文久元年(1861)に板倉勝静に向つて、支那攻略を献議した。・・・
 この献白は、佐藤信淵の「混同祕策」<(注52)>の主張と似てゐるが、支那が外夷に攻められ乍ら、自ら保つ力がない。かくては日本の不安の増大となるから、満州、朝鮮、台湾を譲渡させて、之を日本が護らねばならぬといふ意見で、彼は、これが完成した暁は更に、シンガポールの方までも手を伸し、南方に大屛を造らうといふ見解をもつてゐた。<(注53)>・・・

 (注52)「平田篤胤に国学を学んだ佐藤信淵・・・が1823年(文政6年)に著し<た>・・・「産霊(むすび)」の神意を奉じる日本至上主義の経世済民論である。・・・
 本著で信淵は、世界を征服するために日本国内を固めることが大事だと説き、京都の他に江戸に王城をつくって「東京」とし、大坂も天然の大都会であって「西京」としてこれを別都と<することと>し、・・・海外征服について、・・・<まず、>フィリピンを取ってその資源を利用し<た上で>、・・・「凡ソ他邦ヲ經略スルノ法ハ弱クシテ取リ易キ処ヨリ始ルヲ道トス今ニ當テ世界萬國ノ中ニ於テ皇國ヨリシテ攻取リ易キ土地ハ支那國ノ滿州ヨリ取リ易キハナシ」と書き、満州を手始めに<支那>征服を世界征服の第一歩として捉えた。軍事的及び経済的に満州以北を征圧した後に、<支那>本土へ台湾と寧波から侵攻し、そして南京に仮の皇居を定め、明の皇帝の子孫を上公に封じて従来の祖先崇拝を認めた上で、神社や学校を建てて教育せよと述べ、<支那>を征服した後は、周辺の国も容易に征服出来るとしている。・・・
 欧米人の一部からは「大東亜共栄圏構想の父」であるとの見解が示されている。これはまた、「百年を隔てて、太平洋戦争方式と不気味なまでの類似性」を示すものとも形容される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E5%90%8C%E7%A7%98%E7%AD%96
 (注53)「『兵を清国に用うるの議』の中で「現在、清国では内乱と英仏の侵攻で国の形をなしていない。日本は清国の回復を図るべく出兵すべきである。征伐という事ではないので、反乱を鎮圧し、<支那>を唐の時代のような風俗に戻すため、治安維持を目的とした政令を発布するならば、人心は帰服すると思われる。1年もすれば中国に英雄が現れ、全土を平定するだろうから、その後、兵を帰国させればよい」と主張している。
 文久3年(1863年)5月、対馬藩士・大島友之允から「日本が開国したことを理由に朝鮮との貿易が途絶えて困っている」と相談を受けた方谷は、「非は一方的に関係を断った朝鮮にあるから、対馬藩が先鋒を務め、薩摩・長州とともに征伐すべき」という朝鮮出兵案を起草している。
 これらの案は採用されることはなかったが、これは薩長の軍事力を海外に向けることで、その力を削ぐ意図があったともいわれる。」(上掲)

⇒「注53」を踏まえれば、松原による山田方谷の外交論の紹介は、かなり歪曲されていると言うべきでしょう。(太田)

 更に、文久年間(1861~64)、外征を唱へて、最もその気概に富んでゐたのは、平野国臣<(注54)>である。・・・

 (注54)1828~1864年。「福岡藩士<。>・・・攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋騒動で失敗し投獄される。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E5%9B%BD%E8%87%A3
 「著作に・・・『尊攘莢断録』・・・「回天管見策」「尽忠録」」
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E5%9B%BD%E8%87%A3-14817

 彼は外交の窮迫を説いて、まづ手を三韓に入れ、清を説いて弟となし、以て東洋の大勢を強固にし、遂に進んで、手足を欧州に伸し、宇内を席捲して、皇国の本領を世界に輝かすべきことをのべ、その偉大な抱負を披瀝したのであつた。」(266、268~269、278、297~298)

⇒調べがつきませんでしたが、平野国臣なら、言いそうなことですね。
 系譜的には、佐藤信淵→平野国臣/吉田松陰、でしょう。(太田)

(続く)