太田述正コラム#14417(2024.8.24)
<皆さんとディスカッション(続x5997)/日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(続)>

<太田>

 安倍問題/防衛費増。↓

 <仰せの通りでござりまする。↓>
 「・・・日本も侍精神を忘れるな・・・戦後日本の平和主義は立ち行かないことを知ってほしい。私たちは理想の世界に生きていないのだ・・・露との戦いに身投じたウクライナの映画監督センツォフ氏・・・」
https://www.sankei.com/article/20240823-MYFGLX6DDFIEHOCJ3ZUNIS2HZE/

 ウクライナ問題。↓

 なし。

 ガザ戦争。↓

 なし。

 それでは、その他の国内記事の紹介です。↓

 なし!(にしちゃった。)

 日・文カルト問題。↓

 <今、京都にいるんだけど、そんな気配は・・。↓>
 「京都国際高校が夏の甲子園初優勝 かつての在日韓国人向け民族学校が夢の舞台で頂点に・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2024/08/23/2024082380112.html
https://japanese.joins.com/JArticle/322826
 「【写真】甲子園優勝後に歓喜する京都国際高の選手たち・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/322830
 「京都国際が甲子園初優勝 韓国も大いに注目=駐日大使「感動贈った」・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20240823001400882?section=society-culture/index
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20240823001400882?section=society-culture/index
 「韓国外交長官、京都国際高の甲子園優勝に祝賀メッセージ 「韓日両国の和合象徴」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/322833
 「尹大統領「京都国際高の甲子園優勝、奇跡のような快挙…心から祝う」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/322836
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20240823001600882?section=society-culture/index
<文カルト健在。うれしー!↓>
 「佐渡金山の世界文化遺産登録後の波紋…「強要された和解」は持続しない・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/322827
 「韓国の徴用工訴訟、日本企業の賠償責任を認める判決相次ぐ=韓国ネット「当然の勝利」・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b939266-s39-c100-d0191.html
 <分かったから、習ちゃんに言ってよ。↓>
 「【社説】事実でないことが明らかになった汚染水怪談に沈黙する韓国民主党・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/322835
 <もー。↓>
 「少女像周辺で座り込み 大学生らに二審も罰金刑=韓国・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20240823002300882?section=society-culture/index
 「韓国ではJ‐POP公演のチケット争奪戦…活発化する日韓の民間交流に、韓国ネット「反日は口だけ」・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b939144-s39-c30-d0191.html

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 なし!

一人題名のない音楽会です。
  ヨーヨーマのミニシリーズの4回目です。

Dvořák – Cello Concerto in B Minor, Op. 104, B. 191(注a) 指揮:Bělohlávek(注b) オケ:Czech Philharmonic Orchestra 43.52分
https://www.youtube.com/watch?v=i0QCHdQxqKI&t=18s

(注a)「交響曲第9番「新世界より」や弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」と並ぶドヴォルザークの代表作の一つであり、一部の音楽愛好家には「ドヴォルザークのコンチェルト(協奏曲)」を短縮した「ドヴォコン」の愛称で親しまれている。・・・
 この協奏曲は、<米国>時代の終わり、チェコへの帰国直前の1894年から1895年に書かれた作品で、ボヘミアの音楽と黒人霊歌やアメリカン・インディアンの音楽を見事に融和させた作品として名高い。これについて、芥川也寸志は「史上類をみない混血美人」という言葉を贈っている<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AD%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AF)
(注b)イルジー・ビエロフラーヴェク(1946~2017年)。「プラハで生まれ<、>弁護士、裁判官だった父親は幼い頃から息子をクラシック音楽に親しませ、4歳で少年合唱団に入団し、すぐにピアノを始めました。ミロシュ・サードロにはチェロを学び、プラハ音楽院とプラハ芸術アカデミーで音楽の勉強を続けました。指揮を始めたのもこの時期です。
 1968年、伝説的なルーマニアの指揮者セルジュ・チェリビダッケはビエロフラーヴェクを助手に招き、彼はこの巨匠から2年間教えを受けます。1970年にはチェコ指揮者コンクールに優勝、1971年にはカラヤン指揮者コンクールのファイナリストとなりました。1970年、ビエロフラーヴェクは初めてチェコ・フィルを指揮しています。これがチェコ・フィルとの長い関係の始まりでした。・・・
 2013年、ビエロフラーヴェクが20年振りに楽団に返り咲くと、数々の偉大な成功を収め、英デッカ・レーベルへの新たなドヴォルザーク・シリーズが好評を得るなど、国内外で名誉ある地位を取り戻してきました。」

https://tower.jp/article/campaign/2017/06/02/02

         日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(続)


[最初の雑談–前回の補足]
一 秋丸機関と総力戦研究所
二 帝国陸軍と中国共産党の提携

三 ソ連を参戦させた目的


[重い雑談–議会制と民主制、など]

 (3)日蓮主義
  ア 日蓮
イ 後醍醐天皇
  ウ 信長流日蓮主義と秀吉流日蓮主義
  エ 二つの未完遂日蓮主義戦争
  (ア)朝鮮出兵(1592~1598年) 

  (イ)国姓爺合戦

[軽い雑談–先入観の陥穽]

  オ 江戸時代における秀吉流日蓮主義の雌伏
  (ア)近衛家/島津氏
  (イ)御三家
  (ウ)豊臣家
 (3)本格的日蓮主義戦争の決行
  ア 始めに
  イ 島津斉彬コンセンサス
  (ア)前史としての徳川吉宗
  (イ)島津重豪/徳川家斉
  (ウ)島津斉彬/徳川慶喜
  ウ 本格的日蓮主義戦争第一フェーズの様相
  (ア)四民平等
  (イ)家制度と身分制度
   ・家制度
   ・身分制度
  (ウ)国会開設
  (エ)富国
  (オ)民間人高等教育機関
   ・慶應義塾
   ・東京専門学校(早稲田大学)
   ・対支戦略
  (カ)文学
  (キ)アジア主義
  エ 本格的日蓮主義戦争第二フェーズ
 3 新しい日本史:戦後

 (1)光格天皇家

[最後の雑談–日章旗と旭日旗]

 (2)明治天皇と島津斉彬コンセンサス信奉者達の暗闘
  ア 日清戦争・日露戦争に反対した明治天皇
  イ 島津斉彬コンセンサス信奉者達による光格天皇家天皇制御
  (ア)島津斉彬コンセンサス信奉者達の天皇制観
  (イ)軍部への天皇の容喙回避措置
  (ウ)陸軍省への首相、ひいては国会、の容喙回避措置
  (エ)軍部大臣現役武官制
  (オ)統帥権の独立
  (カ)大日本帝国憲法
  ウ 明治天皇による反撃に向けての布石
  エ 島津斉彬コンセンサス信奉者達による再反撃
  (ア)貞明皇后の擁立(成功)
  (イ)香淳皇后の擁立反対(失敗)
  (ウ)日英同盟「破棄」
  (エ)輿論「扇動」
  オ 昭和天皇による日本文明否定
  (ア)戦前:プロト日本文明回帰布石
 (イ)戦後:プロト日本文明回帰断行
〇昭和天皇
・司馬史観の先取り?
・米国迎合
・靖国神社親拝停止
・中共への宗主国移行準備
・再軍備反対
・軍部悪者論
〇上皇
・上皇の天皇時代の不自然な慰霊の旅
・自衛隊の部隊・機関公式訪問回避
・司馬遼太郎史観天皇家史観宣言
・備考
〇今上天皇
・武を否定し北朝正統論を主張
〇皇嗣と悠仁殿下
 (3)吉田ドクトリン?
 (4)岸カルト
 (5)脳死した日本–終わりに代えて


[最初の雑談–前回の補足]

一 秋丸機関と総力戦研究所

 「秋丸機関<は、>・・・1939年(昭和14年)9月、ノモンハン事件や第二次世界大戦の勃発といった<状況下>で、陸軍省経理局内に設立された研究組織<であり、>・・・正式名称は「陸軍省戦争経済研究班」<、>対外的名称は「陸軍省主計課別班」<、>・・・<班長は、>秋丸次朗主計中佐<であり、>・・・ブレーンとして経済学者を集め、そのほかに各省の少壮官僚、満鉄調査部の精鋭分子をはじめ各界のトップレベルの知能を集大成し、英米班(主査・有沢広巳)、独伊班(主査・武村忠雄)、日本班(主査・中山伊知郎)、ソ連班(主査・宮川実)、南方班(主査・名和田政一)、国際政治班(主査・蠟山政道)を<擁する、>各班15名から26名ぐらいで総勢百数十名から二百名程度の組織<だった。>・・・
 秋丸次朗は<、>回想で「<陸軍上層部への英米班の研究結果の>説明の内容は、対英米戦の場合経済戦力の比は、二十対一程度と判断するが、開戦後二ヶ年間は貯備戦力によって抗戦可能、それ以降はわが経済戦力は下降を辿り、彼は上昇し始めるので、彼我戦力の格差が大となり、持久戦には堪え難い、[強いて活路を見出すなら<対ソ開戦なき>南進<くらい>だ]といった結論であった。・・・」と述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E4%B8%B8%E6%A9%9F%E9%96%A2
 このように、「分析結果は「英米」「独逸」「日本」などに分かれて出された。最も注目された英米班の報告は昭和16年(1941年)7月にまとめられ、<上出のような内容で行われた。>・・・
 報告書を聞いた軍の上層部<は、>今さらそんな話を聞いても仕方ない、という雰囲気でみんな居眠りしていた<。>」
https://maruyomi.hatenablog.com/entry/2019/06/17/041838

⇒英米が一体でもなんでもないことが杉山元らには分かっていた・・実に1935年に米国は、対加戦(事実上の対英戦)を想定した大演習をカナダ国境付近で実施している!(コラム#1621)・・筈なのに、あえて「英米」班を作ったことで、対英(蘭)のみ開戦のオプションを最初から除いていた以上、こういう結論・・なお忖度入りだった見る・・が出るのは、当時のまともな陸軍幹部達にとっては常識だったことが分かる。
 だから、秋丸機関を作った目的は、英米一体論と南進論をリークさせることによって、国民世論には南進に向けて心の準備をさせる、と共に、英米及びソには、日本が英米一体論に立っている以上対英だけ開戦は行わない筈だと考えて安心させる・・英国には蒋介石政権支援を続けさせ、米国には日本は対英米戦は行えないと見て対日経済制裁や蒋介石政権支援を続けさせるところにあった、と、見ることも可能だろう。(太田)

 「<私の留学した英国防大学に倣って日本で設立されたところの、>総力戦研究所<
https://ameblo.jp/ko269/entry-11582596348.html
は、>・・・「秋丸機関」の機能を引き継いだ機関で、本来の目的は「国防」という問題について一般文官と軍人(武官)が一緒に率直な議論を行うことによって国防の方針と経済活動の指針を考察し、統帥の調和と国力の増強をはかることにあったとされている。・・・
 第一期生の入所から3か月余りが経過した1941年7月12日。2代目所長飯村穣(陸軍中将)は研究生に対し、日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習(シミュレーション)計画を発表。同日、研究生たちによる演習用の青国(日本)模擬内閣も組織された。
 模擬内閣閣僚となった研究生たちは7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の<実質的>参戦もあり、敗北は避けられない。[<具体的には、>船舶の喪失が生産量を上回り、戦争遂行が困難になること、ソ連とアメリカが軍事的に協力する(演習ではソ連極東地方の米軍の軍事利用という設定)ことなど
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E6%9D%91%E7%A9%A3 ]ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。これは、現実の日米戦争における戦局推移とほぼ合致するものであった(原子爆弾の登場は想定外だった)。
 この机上演習の研究結果と講評は8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において時の首相近衛文麿や陸相東條英機以下、政府・統帥部関係者の前で報告された。
 研究会閉会に当たって東條は、参列者の意見として以下のように述べたという。
 諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えているような物では無いのであります。日露戦争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。(表記は現代式に改め)
 <これは、>対米英開戦(真珠湾攻撃、マレー作戦)3ヶ月前のことであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E5%8A%9B%E6%88%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80

⇒念には念を入れ、同じ目的でもって、秋丸機関よりも、軍人も非軍人もより素人ばかりのメンバーに同じ「研究」をやらせたということであり、そんなメンバーですら、わずか1カ月強で、(忖度の必要がなかったと思われることに加え、使えたデータが秋丸機関より1年後の「最新」のものだったこともあり、)同じ、但し、より詳細な戦況予測を伴った、結論を導き出すことができたわけだ。
 ここから分かるのは、当時の陸軍幹部ならば、対英米戦は、最終的にはソ連の「参戦」もあって軍事的には日本が必敗であること、など、誰でも容易に予測できた、ということだ。
 だから、我々は、それでもなおかつ陸軍が対英米開戦に踏み切った以上、そうすることで戦争目的を達成できる、という確信が杉山元らにはあった、と、考えざるを得ないのだ。
 そういう前提で東條による講評を読み返してみていただきたい。
 なんとイミシンなことか。
 と、書いたところで、ハタと気付いた。
 「当時陸軍大臣であった東<條>英機は、殆ど毎日机上演習を見学した一方で、<杉山元参謀総長はもちろん、>塚田攻参謀次長<も>一度も見学せず、・・・参謀本部からは数人の部員だけ見学に来た<だけだった>とのことである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E6%9D%91%E7%A9%A3 前掲 
ということから、当時の陸軍幹部達にとっては分かり切った結論が出ただけであったところのこの机上演習は、東條が、後に太田「ホームズ」らに先の大戦が何だったのかを解明させるための手掛かりを残すために、自ら飯村らを通じて適宜学生達を誘導させて結論に至らせたのであって、杉山元はこんな色気たっぷりの東條に苦笑しながらそれを黙認していたということだったのではないか、ということに・・。(太田)

二 帝国陸軍と中国共産党の提携

 「1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。後に毛沢東は米国記者エドガー・スノーに日露戦争当時の日本の歌詞を紹介し、・・・当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです<、と伝えている>。」(コラム#7820)
 「中学入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧月性の詩「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した。」(コラム#7989)
 「毛沢東は、自分が教師に向いていると思い、日本留学経験のある校長孔昭綬の下で、湖南第一師範学校に学んだ。
 卒業後に、「半植民地国家に陥った<支那>が西欧列強に対抗するため、強い国民の必要を感じ、日本などの軍国民教育思想に啓発されて<始まった>体育重視の思潮<の影響下で書かれた>毛澤東の「体育之研究」<は、支那>の「近代史上において体育理論について全面的に論じた最初の著作」と評価されている。・・・
 <また、>新文化運動の最中<の>・・・1919年・・・に武者小路実篤らが実践していた「新しき村」の消息が<支那>に伝わった。みずからの労働によってみずからの生活を支えたうえで、自由を楽しみ、個性を生かせる生活を全うすることをめざした「新しき村」の精神と実践に毛澤東は憧れを抱いた。生徒の個性の束縛や学校教育と社会とが遊離している状況などについて批判的精神を持っていた毛澤東は、1919年12月「学生之工作」を書いて工読思想についての構想を次のように述べた。新しき村を作り、そこで新しい家庭、新しい学校、および新しい社会を一体とする新しい生活を営む。新しい生活とは、生産的実際的農村の活動である。その中での新しい教育は新しい家庭、新しい社会の創造と関連すべきであり、新しい生活の創造に重点をおく、と毛澤東は述べた。毛澤東は現状の学校教育の非生産的、非実際生活的、読書人は都会をめざして農村をきらうといった弊害を批判し、農村を嫌う読書人を農村に行かせ、直接に生産に従事させ、現在の社会に必要とされる製品を生産させる。同時に地方自治の中堅としての役割、現代の選挙制度の指導監督者としての役割を読書人が果たすことを提案したのである。」

⇒毛沢東は、筋金入りの日本大好き人間だったわけだ。
 ちなみに、毛沢東が中共建国後に作った人民公社は、ソ連のソホーズやコルホーズに範をとったものではなく、新しき村を参考にしたものだ、というのが私の見方だ。(コラム#13381)(太田)
 
 「<哲学者で東大教授だった廣松渉>は、中期以降のマルクスは、集団主義と個人主義を、いわば弁証法的に止揚して、<私の言うところの>人間主義思想家となった<的な指摘をしたが、>・・・日本大好き人間の毛沢東が、毛なりに、<それが>日本人のそれと近似した人間主義思想であると直感したからこそ、マルクス主義に惹かれた、と想像を逞しくすることも可能・・・です」(コラム#8012)

⇒付言すれば、エンゲルスが使い始め、マルクスも採用した原始共産制なる社会体制「では、健全な身体を持つ全ての人間は食料の獲得に従事し、狩猟や収集により産み出されたものを全員が共有する。原始人の生活では産み出されたものは即座に消費されるため、余剰は産み出されず、衣服などの個人的な物品を除けば私有財産はほとんど存在しなかったであろう。長い時間存在したものは道具や家などわずかであり、それらは共同で保持された。そして国家は存在しなかったであろう。」 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%88%B6
とされるところ、これぞ、私の言うところの人間主義社会チックであって、マルクス主義は、この原始共産制を産業化(工業化)社会において実現しようとするイデオロギーである、と言ってよく、廣松を持ち出すまでもなく、毛沢東は、マルクス主義の当時の最新形態であったマルクスレーニン主義が、当時の日本のような産業化社会における人間主義社会、へと支那を変換させるための権力奪取/維持方法を教えてくれるのではないかと考え、中国共産党の創立メンバーになった、と、思うのだ。
(このことを象徴的に示しているのが、ユダヤ人同士でマルクスとも親交があったハイネ・・日本以外で、日本人の人間主義性に最も早く気付き、讃嘆した著名人だ・・が登場するところの、芹洋子の四季の歌、の、中共での、やや大げさに言えば準国歌扱いだ。(コラム#13381))
 そんな毛沢東に、提携相手として杉山元らが白羽の矢を立てた・・ちなみに毛沢東のスペアは恐らく日本留学経験のある周恩来であったろう・・のは、ごく自然なことと言える、と私は思う。(太田)

 「1927年11月、上海の党臨時中央政治局、が>拡大会議を開き、・・・毛沢東・・・は会議に欠席のまま政治局候補委員から解任された。1928年7月、第6回党大会において中央委員に選出。
 井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。

⇒1931年には杉山構想が実行に着手されたと私は見ているところ、毛沢東が福建省に根拠地を拡大した時点までに、杉山元らは毛沢東を蒋介石政権打倒後に支那を託すべき指導者の少なくとも一人として選んだと見るべきだろう。
 というのも、福建省は、日清間の1898年の「<清は、>福建省内および沿岸一帯を,いずれの国にも譲与または貸与しない・・・,<そして、>」福建省を日本の勢力範囲と認めた」福建省不割譲協定、
https://www.historist.jp/word_j_fu/entry/036934/
及び、日仏間の1907年の「フランスは広東・広西・雲南を、日本は満州と蒙古、それに秘密協定によって福建を自国の勢力圏として相手国側に承認させた」日仏協約、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%BB%8F%E5%8D%94%E7%B4%84
・・中華民国及び諸列強から異議は表明されていない・・に基づき、福建省の一部が事実上ソ連に貸与された、といったクレームをつけ、必要に応じて出兵する「権利」があったにもかかわらず、日本政府はこの事態を静観しているからだ。(太田)

 毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月に瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。

⇒瑞金が、江西省の東端に位置し、福建省に隣接している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%87%91%E5%B8%82
ことに注意。(太田)

 しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。国民党軍による包囲に対して、毛や朱徳など前線司令部は<、>「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」というゲリラ作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた。毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、1932年10月、毛は軍の指揮権を失った。また、毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。さらに1933年1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。毛は1934年1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。

⇒この毛沢東を、その失権期間、杉山元らが支えていた可能性を排除できない。(太田)

 国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日についに江西ソビエトを放棄して敗走し、いわゆる「長征」を開始する。この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義<(じゅんぎ)>で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。毛沢東は中央書記処書記(現在の中央政治局常務委員)に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。

⇒杉山元らは快哉を叫んだに違いない。(太田)

 1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。

⇒毛沢東が、どうして、延安を長征の目的地としたかが問題になる。
 ソ連の属国化していた外蒙古には近かったけれど、その間には、日本の勢力圏(上出)と言ってもよい内蒙古があった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%9D%E8%A5%BF%E7%9C%81
ので、ソ連との安定的なルートが確保できる保証はなかった。
 私は、杉山元らが、日本の傀儡国家である満州国に近く、内モンゴルを通じて、日本/満州国との秘密裡の接触が容易な延安を勧めた、と、考えるに至っている。
 しかし、このようなスキームを秘匿するためには、日本が内蒙古を傀儡国家したり満州国に併合したりしてはならないことになる。
 日本が自分で中国共産党を壊滅しようとしないことの説明がつかなくなるからだ。
 だからこそ、杉山元らは、関東軍が主導したところの内蒙古の傀儡国家化計画を2度も挫折させたのだ。
 (1度目は、1936年9~11月の綏遠事件に対し、参謀本部作戦部長心得であった石原莞爾・・かねてよりの杉山元の手駒・・が妨害し(コラム#4008、4010)、2度目は、1937年8月のチャハル作戦に対し、関東軍参謀長であった東條英機・・杉山構想被開示者・・が自分を指揮官とする察哈爾<(チャハル)>派遣兵団(俗に「東條兵団」と言われる)を編成して中途半端な作戦を行って妨害した(コラム#13512、14401及び下掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6 )。(太田)

 同年12月7日に朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権<も>掌握。5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蔣介石監禁事件(西安事件)で・・・宿敵である蔣介石と手を結び、第二次国共合作を構築。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1

⇒「共産党軍は国民党軍の剿共戦<(そうきょうせん)>により21万人から7万人まで勢力を弱め、陝西省・甘粛省の2省に追い詰められていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
のが、1936年12月の西安事件によって、毛沢東は九死に一生を得るわけだが、これは、杉山元らが毛沢東と組み、張学良に工作をして事件を惹き起こさせた、と見てよかろう。
 杉山元らが目をつけたのは、かねてから「反共親日」の姿勢を日本側に開示していた汪兆銘であり、彼は、狙撃され、療養を兼ねて欧州外遊中だったが、その妻で夫の留守中の情報収集をまかせられていた陳璧君
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98
から、狙撃されるまで蒋介石政権の行政院長(首相)をやっていた汪兆銘とその後陳璧君が集めたところの、オープンになったら蒋介石政権と癒着する宋孔陳蔣のいわゆる四大家族からなる浙江財閥
https://www.y-history.net/appendix/wh1503-074.html
が同政権と共に支那から追放されかねない腐敗情報を入手した上で帝国陸軍が収集分析してきた関連情報と綜合させて整理した上で、この情報を、狙撃事件の時に「いち早く犯人に駆け寄って犯人を蹴り倒し」(上掲)てくれたことから汪と親交が生じていた張学良に、陳璧君から、と偽って渡し、この情報を公開するぞと蒋介石を脅せば言うことを聞かせることができると伝える一方で、別のルートで、張学良に、父の仇の日本を憎み国を愛するのなら、中国共産党を救い、蒋介石政権と中国共産党を再合作させた上で日本と戦うべきであると吹き込み、西安事件を惹き起こさせた、と、私は想像をたくましくするに至っている。
 (だからこそ、蒋介石解放交渉に、尻に火がついた宋美齢が浙江財閥を代表して核心メンバーとしてしゃしゃり出てきた、と。)
 その後、蒋介石も張学良も、西安事件の時のことを一切しゃべらないまま亡くなり、とりわけ、蒋介石が、西安事件のもう一人の蒋介石政権側の裏切り者たる楊虎城は家族もろとも殺害したけれど張学良は50年間軟禁した上で解放せざるをえなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
のは、張学良が蒋介石が自分を殺せば、この秘密が暴露される手筈にしていたからだろう、とも。
 なお、杉山元らは、この情報を、汪兆銘に南京政府を作らせる際、秘匿することを誓わせる一方で、ひそかに米国のしかるべき人物に流すことで、米国自身が収集した情報と併せて、米国をして、終戦後、蒋介石政権を見限らせた、とも。(太田)

 「<日支戦争当時、>毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。・・・毛沢東は延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだ。

⇒西安事件の後、紆余曲折を経て、翌1937年の4月までに第二次国共合作がようやく成立したところ、支那世論の支持こそ得られたが、蒋介石政権内では反発が強く、蒋介石が亡くなったり失脚したりすれば、その後継国民党政権によってすぐ反故にされる恐れがあったこともあり、杉山元らと毛沢東は、相談の上、中国共産党軍が国民党軍を装って盧溝橋事件を惹き起こし、更にこれを日支戦争へと導き、合作を強固なものにすることに成功した、と見る。
 そんな毛沢東が、日支戦争中に日本軍を心中応援していたのは当たり前だろう。(太田)

 毛沢東は、裏で日本軍と手を結び、蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ていた。延安で八路軍が栽培していたアヘンの販売で日本軍と結託していた<し、>また積極的に占領区内の日本軍と商売を行い、晋西北の各県は日本製品であふれていた<し、>中共指導者と日本派遣軍最高司令部の間で長期間連携を保っていた。<ちなみに、>毛沢東の代理人は、南京の岡村寧次<(やすじ)>大将総本部<・・岡村が総司令官の時に限らず支那派遣軍総司令部、という趣旨か(太田)・・隷属の人物であった。」(コラム#7572)

⇒こういう関係を、ズブズブの関係と言う。(太田)

 「<日本敗戦直後、>毛は・・・「たとえ、われわれがすべての根拠地を喪失したとしても、東北(<旧>満洲<国>)さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と述べた。・・・」(コラム#7820)

⇒それこそが、杉山元らによるところの、満州事変/満州国建国、の主たる目的であった可能性すらある。(太田)

 「「天皇陛下によろしく」-。1956年9月、北京。毛沢東は、侵略戦争に関わった日本の元軍人代表団を招待し、「戦犯」だったはずの昭和天皇にメッセージを投げた。一方、昭和天皇もひそかに中<共>側にメッセージを送り続け、「訪中」を悲願とした。」
https://www.imc.hokudai.ac.jp/contributions/news_events/202111/002767.html

⇒毛沢東は、杉山元らのボスを(実は貞明皇后だったのに)昭和天皇だったと誤解したままだったということだろうし、昭和天皇は、日本が支那に多大なる迷惑をかけたし、将来、米国に代わる宗主国に支那がなる可能性がある、と、考えていたので、罪償の訪中が念願だったのだろう。(この念願を後に、天安門事件後の欧米から総スカンをくって窮地に陥っていた中共に、上皇が、皇太子の岳父が外務次官の時に、私見では上皇のイニシアティヴで訪問して救ってやる形で果たす(コラム#14168)ことになる。)(太田)

 「毛沢東(1893~1976年)は、・・・1964年7月、日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返した。・・・なお、毛沢東が戦後日本の天皇制を批判したことは無い。・・・」(コラム#7177)
 「エドガー・スノー<は、>・・・1964年から1965年にも再々訪中したが、そのとき<にも、>毛沢東は・・・、<支那>大陸における中国共産党による赤化革命成功には「(彼らの敵であった)蔣介石だけでなく、日本の8年にわたる侵略が必要だった」と語っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC
 「1970年代に国務院副総理陳永貴が日<支>戦争のとき「漢奸」だったと告白した際、毛沢東はそれを一笑に付して、「日本人はわが救命恩人だ。命の恩人の手伝いをし、漢奸になったということは、つまりわたしに忠誠を尽くしたということだ」と言った。」(コラム#7820)

⇒毛沢東は、単にホンネを吐露し続けていただけであるわけだ。(太田)

 「ノーベル経済学賞受賞者であるアマルティア・センは、毛沢東が、日本の教育政策と医療政策を中共に移入した、という趣旨のことを指摘してい<る>」(コラム#7989)ところ、いや、彼は、ありとあらゆるものについて、日本を範にしてきた、というのが私の見方なのだ。
 以上、私が述べてきたところの、日本大好き人間たる毛沢東を象徴するのが、下掲の事実だ。(太田)↓

 「中華人民共和国では旭日模様のデザインが中国共産党の下で積極的に好んで利用されてきた歴史がある<が、>・・・これは毛沢東が旭日模様をとても気に入っていたからとの指摘がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%AD%E6%97%A5%E6%97%97
 例えば、毛沢東思想万歳ポスター、文化大革命ポスターを見よ。
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=6FeCBROi&id=3E1C20EACE1A591992ED6F1F28A5CA3A32559184&thid=OIP.6FeCBROifFfjpverOoRMlwAAAA&mediaurl=https%3a%2f%2fi.pinimg.com%2f736x%2f7f%2fcb%2f3f%2f7fcb3f85eb40e3ce8a50fcc18bd39747.jpg&exph=615&expw=437&q=%e6%af%9b%e6%b2%a2%e6%9d%b1+%e6%97%ad%e6%97%a5%e6%a8%a1%e6%a7%98&simid=608012334527560407&FORM=IRPRST&ck=FC7FD9E650A36AD1A5EF35A1055F92A5&selectedIndex=0&itb=0&idpp=overlayview&ajaxhist=0&ajaxserp=0
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=ydGFbrZp&id=B21F146DEDBD3528970917F84A73781FD1E7F7C8&thid=OIP.ydGFbrZpMJQ3d2khPOD9fAAAAA&mediaurl=https%3A%2F%2Fauctions.c.yimg.jp%2Fimages.auctions.yahoo.co.jp%2Fimage%2Fdr000%2Fauc0305%2Fusers%2F4b4d15667f08b23c5c597ddf70c1a29bbb00e16b%2Fi-img450x600-1651664249spq8tm183188.jpg&exph=600&expw=450&q=%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1+%E6%97%AD%E6%97%A5%E6%A8%A1%E6%A7%98&simid=608039629036542137&form=IRPRST&ck=270D53FBFDD612F8D601FE8C5DAA4C90&selectedindex=8&itb=0&cw=1068&ch=1515&ajaxhist=0&ajaxserp=0&vt=0&pivotparams=insightsToken%3Dccid_ZD9o03tCcp_77B4785C3BA29233ACE9557F0A2BEFE8mid_C03E5394ACA6B026A56593D47835C43C76370F56simid_607998350095562049thid_OIP.ZD9o03tCww6NiLB7hCbOggHaJc&sim=11&iss=VSI&ajaxhist=0&ajaxserp=0

 なお、鄧小平は、日本に経済協力を求めてそれを実現させた一方で(欧米の目を眩ませるために)南京事件記念館建設といった反日政策を開始する(コラム#6666)。
 また、習近平・・私見では非血統承継天皇制の中共での樹立を追求している(コラム#省略)・・は、(私が気付いたのは2016年(コラム#8407)だが、)2013年に国家主席に就任した頃から、私が名付けたところの、公然たる日本文明総体継受政策を推進しつつ、(私が気付いたのは2020年(コラム#11381)だが、)中共が日本の宗主国にさせられるのを回避すべく日本の再軍備を図るために日本を口撃等を行う、という、ダブルスタンダード的な対日戦略をとって現在に至っている。 
 最後にもう一点。
 三田村武夫の帝国陸軍統制派アカ論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%AD%A6%E5%A4%AB
という、トンデモ陰謀論を、対米英戦の真最中に近衛文麿が、また、戦後に岸信介が、信じ込んでしまった(コラム#10042)背景に、この2人が、帝国陸軍・・実は杉山元ら・・と中国共産党が通じている気配を感じ取っていたことがあったのではないか、と、私は見るに至っている。

三 ソ連を参戦させた目的

 日本が対米英開戦をした翌年には、蒋介石政権の命綱である米国から派遣された軍事最高顧問は、早くも、同政権を見限っていた。↓

 「1942年2月、中国・ビルマ・インド戦域米陸軍司令官に就任<した>・・・ジョセフ・スティルウェル<(Joseph Warren Stilwell。1883~1946年)は、杉山元らが「提供」したと私が見ているところの、蒋介石政権の腐敗情報(上出)も参照しつつ>・・・1942年の<米国政府宛>レポートから<、>蔣介石は全く役に立たず、能力はあっても抗日戦に軍を使う気がないと報告していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB

 そんな声に一切耳を貸さなかったローズベルトは、1943年のカイロ会談で、蒋介石に最高のプレゼントを与える。↓

 「1943年11月27日にカイロ宣言が発された後、12月1日にはラジオを通じて「カイロ・コミュニケ」(Cairo Communiqué)が発され、連合国が日本の無条件降伏まで軍の配備を続ける(軍事行動を継続する)と宣言した。カイロ宣言では三大国(米英中)が戦争を通じて日本の野心を挫け、懲罰しようとし、自身は利益を受けず戦後に領土拡張に加わることもないと宣言、「日本は1914年の第一次世界大戦開戦以来太平洋で奪取、占領した全ての島嶼を没収される」、「日本が中国人から盗んだ、満洲、台湾、澎湖を含む全ての領土は中華民国に返還される」と述べた。また、日本は暴力と貪欲で奪取した全ての領土から排除され、「朝鮮は適当な時に自由と独立を得る」とも述べた。
 カイロ会談の終結から2日後、スターリンはイラン帝国のテヘランでルーズベルト、チャーチルと会談した(テヘラン会談)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%AD%E4%BC%9A%E8%AB%87

 しかし、この時点までには、米国政府内は、御大のローズベルトを除き、蒋介石政権を見限るべきだとの声ばかりになっていた。↓

 「カイロ会談<直>後の<1943年>12月6日に<ロ>ーズベルトは<、支那>へ派遣されている外交官やジョセフ・スティルウェルから、「次に日本軍に攻勢されれば国民党政府が倒壊する」と冷水を浴びせられ<た。>・・・
 <そして、その翌年の大陸打通作戦の結果、ついにローズベルトも蒋介石政権を見限るに至る。↓>
 1944年4月の日本陸軍の大攻勢である大陸打通作戦<が始まり、>・・・日本軍が勝利を収め<た結果、>・・・1945年に行われた連合国の重要会議である<、スターリンが出席したところの2月>ヤルタ会談と<、そのスターリン、と、ローズベルトが亡くなったので米新大統領となったトルーマンが出席したところの7~8月の>ポツダム会談に蔣介石が招かれることはなくなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A3%E4%BB%8B%E7%9F%B3

 当然、この2月の時点までに、蒋介石が見捨てられたことは杉山元らも察知したに相違ない。
 ということは、米国が、毛沢東が支那の権力を掌握することを事実上認めたことを意味する。
 つまり、日本は、1945年2月の段階で、日蓮主義完遂戦争たる先の大戦の戦争目的であったところの、経済ブロック廃止(自由貿易実現)、対ソ(対露)抑止、アジア解放、蒋介石政権打倒のうち、対ソ(対露)抑止、を除いて全て達成できたことになる。
 (アジア解放については、前年に実施したインパール作戦が英領インド植民地内の原住民に予想通りのインパクトを与え、独立機運が急速かつ不可逆的に盛り上がっているとの情報を杉山元らは入手していた筈だ。)
 しかし、最後に残ったところの、この対ソ(対露)抑止、の実現は、依然道遠しの状態だった。
 当時のそのヒューミント諜報力からして、米国政府は、毛沢東の中国共産党が、親日反ソであることなど全く掴めておらず、反日親ソであって中国共産党はソ連共産党の支那版である、と、ローズベルトも同政権も信じ込んでいて、かつ、米国政府にとって、ソ連、すなわち、ソ連共産党、は、お友達である以上、中国共産党が支那の権力を掌握しても問題はないと考えていたと思われるからだ。(太田)

 振り返れば、「<米>国における赤狩りの歴史は有名で、19世紀以来、社会主義運動に対し「非アメリカ的」であるという理由でさまざまな迫害が加えられた。とくに第一次世界大戦中から戦後にかけて、ロシア革命への危機感などから、パーマー司法長官のもとで、共産主義者はもとより無政府主義者や労働運動指導者に対する大々的な取締りが実行された。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E7%8B%A9%E3%82%8A
 ところが、「ローズベルト大統領は、・・・ソ連訪問から帰ったばかり<の>・・・バーナード・ショーの1931年の講話・・「<スターリンらは、>ソ・・・連・・・においてワシントンとジェファーソンとハミルトンとフランクリンが築き上げたものと全く同じものを築き上げた。ジェファーソンはレーニンであり、フランクリンはリトヴィノフであり、ペインはルナチャルスキー(Lunacharsky)であり、ハミルトンはスターリンなのだ。今日はレニングラードにワシントンの塑像を見いだすが、明日には必ずやニューヨークでレーニンの塑像を見いだすことだろう。全世界のプロレタリアはロシアのボートに乗るつもりがあれば歓迎される。ロシアではどこでも希望がある。なぜなら、破産した資本主義が最後の絶望的なもがきの下にあり、われわれに対して悪が迫りつつあるというのに、ロシアでは共産主義の普及によって悪は後退しつつあるからだ。」・・<といった御伽噺、や、>・・・スターリンを尊敬してい<いた>・・・駐ソ米国大使のブリット(William Bullitt)・・・や[、1930年代の]ニューヨークタイムスのソ連特派員のワルター・デュランティ(Walter Duranty)[・・スターリン主義の暴虐さに目をつぶって筆を曲げていた(コラム#178)・・]<や、>・・・1930年代に、ニジニ・ノヴゴロド(Nizhni Novgorod)に4,000万ドルもかけて巨大な自動車工場をつく<るために>大恐慌のまっただ中に何百万ドルも金塊で支払った・・・ヘンリー・フォード(Henry Ford)<等>・・・の対ソ宥和的意見<、>に取り囲まれており、死ぬまでスターリンを「ジョー叔父(Uncle Joe)」と呼び、ソ連と友好関係を維持した」(コラム#2844)という、外国について完全音痴の、そしてついでに言えば、人種主義者、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88
たる典型的米国人ときていた。
 (ちなみに、バーナード・ショー(George Bernard Shaw。1856~1950年)は、ノーベル文学賞受賞のアイルランド出身の文学者で、英国や米国など英語圏の国々で<大活躍>した人物だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC ) 「1933年に発足した<ところの、そんな>フランクリン・デラノ・<ロ>ーズベルト(FDR)<の>政権<は>、実質共産主義者に乗っ取られていた「疑似共産主義政権」であった<。>・・・
 歴代の共和党政権は、1917年・・・に成立したソビエトをけっして国家承認しなかった<というのに、ロ>ーズベルト政権は政権1年目(1933年)に、直ちにソビエトを正式承認した。・・・
 <そして、>ニューディール政策と呼ばれる社会主義的統制経済を始めた。・・・
 政権中枢では、容共思想のハリー・ホプキンスが大統領側近として米外交をリードした。財務長官ヘンリー・モーゲンソーは、FDRの親友の立場を利用して国務長官コーデル・ハルを差し置いて外交問題に口を挟んだ<が、その>モーゲンソーの右腕がソビエトスパイであるハリー・デクスター・ホワイトであった。日本を対米戦やむ無しと決断させた「ハルノート」を起草した人物である。・・・
 国務省には、同じく<後に>スパイ<であること>が確定したアルジャー・ヒスがいた。彼は、死期迫る<ロ>ーズベルトに代わってヤルタ会談の実務を仕切り、ソビエトに日本固有の領土までも分け与える条件で<ソ連の>対日戦争参戦を実現<することになる>。」
https://voice.php.co.jp/detail/9134 
 「<元米大統領の>ハーバート・フーヴァーは<、>自著『裏切られた自由』において、1946年5月に<当時、日本の連合国最高司令官であった>ダグラス・マッカーサーと会談し、「我が国は、<早期に、日米の>戦いの重要な目的を達成して日本との講和が可能であ<った>。(早い時期に講和していれば、その後の)被害はなかったし、原爆投下も不要だったし、ロシアが満州に侵入することもなかった」とマッカーサーに語り、「日本との戦争が、狂人<ローズベルト>が望んだものだと<述べた>・・・」と<ころ>、マッカーサーもそれに同意して「<ロ>ーズベルトは1941年9月には近衛文麿との講和が可能だった」と述べたと・・・記述し・・・、<ロ>ーズベルトについて手厳しく批判を重ねている。・・・
 1944年10月14日、<ロ>ーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を提案した。同12月14日にスターリンは武器の提供と南樺太と千島列島の領有を要求、<ロ>ーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした。・・・
 ヤルタ会談・・・の会期中<の1945年>2月9日に開かれた英米軍事会議において<ロ>ーズベルトは、チャーチルから「戦争が1年でも半年でも短縮されるならば意味がある。」として<、>ドイツ、日本との戦争終結に際しての降伏条件をいくらか緩和するように提言された<が、・・・ロ>ーズベルトは<、>「そうした考えは、世界情勢に無知であり、今なお自国に有利な譲歩を得られると考える日本人に、そのような条件緩和を行うことが有効だとは思えない。」と一蹴し、あくまでも無条件降伏を要求し続けるとの姿勢を固持した。
 そしてヤルタ会談において<、ロ>ーズベルトは、ドイツ降伏後も当分の継続が予想された対日戦を、降伏条件を緩和することなしに早期に終結させるため、スターリンに対し千島列島、南樺太のソ連への割譲を条件にドイツ降伏後3ヶ月以内の対日参戦を要求した。・・・
 <そのローズベルトが、>1945年4月12日<に亡くなったわけだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88
 杉山元らは、以上のような、ローズベルト及び同政権の容共親ソぶりを熟知し、こういった成り行きも予想した上で、杉山構想を実行に移していった、と、私は見ている。
 (そもそも、杉山元は、杉山構想を策定した時点で、既に、ローズベルト及び同政権を徹底的に利用することを織り込んでいた、と、私は考えている。
 そんな、ローズベルトないしその後継政権・・ローズベルトの米国内における人気についても、また、その人気が対米英戦勃発後も続いていたことも、従って後継政権も民主党政権であろうことも、杉山元らは把握していたことだろう。)
 日本がその植民地を解放する等、第二次世界大戦の結果、力をほぼ完全に失うに至るであろう英国、及び、軍事的敗戦に打ちのめされるであろう日本、に代わって、そんな米国政府に、対ソ抑止を、全球的に担わせるには一体どうしたらよいか、が、杉山元らにとって杉山構想における最難関の課題であり、1945年の2月のヤルタ会談、4月のローズベルトからトルーマンへの米政権の承継、5月のナチスドイツの降伏、等のたびに、彼らは予め立てていたところの、本件に係る計画の再検証を行ったに違いない。

 ここで、杉山元らの本件に係る布石を振り返ってみよう。
 布石の眼目は、ドイツが第二次世界大戦を勃発させてから暫く経った時点でそれに日本を参戦させることとするが、先にドイツを敗北させ、その後ソ連を対日参戦させるところにあった。
 というのも、ドイツが敗北すれば、直ちにソ連が赤軍占領地域を事実上併合したり属国化したりする筈であり、一貫してソ連を敵視してきていた英国がそれを看過できず、米国の対ソ観の誤りを指弾し始め、そのような中で、ソ連が対日参戦をし、日本の本土まで手を伸ばして来れば、さすがに米国政府も対ソ観の根本的転換を余儀なくされる、と目されたからだ。
 そして、現実は、ほぼこの想定通りに進行した。↓(太田)

 ドイツの敗北より前に行われたヤルタ会談(1945年2月4日~11日)の段階で、ポーランド問題を巡って、早くも英ソが激しく対立する光景を米国政府は目の当たりにすることになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87
 また、この「ヤルタ会談では、・・・秘密協定<が>・・・まとめられ・・・、ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満洲国の港湾と南満洲鉄道における、ソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後2か月または3か月を経て、ソ連が対日参戦することが取り決められた。・・・
 ・・・ロンドンの暫定ポーランド政府のリビコフスキーから小野寺信を通じて、<この>協定の内容は・・・<帝国陸軍>に知らされ・・・た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87
ことから、杉山元らは、快哉を叫んだことだろう。
 さて、「1940年(昭和15年)8月には東部・中部・西部の各防衛司令部を東部・中部・西部軍司令部に改称し、指揮のみでなく統率もするものとし<、>また同年12月新たに樺太・北海道・青森県・岩手県・秋田県・山形県を管轄する北部軍司令部を設けた。
 <そして>、1941年(昭和16年)7月、これらの軍司令部を広域防衛の見地から一元指揮する為に防衛総司令部を置き、1944年(昭和19年)に指揮のみでなく統率もするものとした<。
 このように、対米英戦開始時点では、東北地方以北南樺太/千島列島までは本土扱いがされていたわけだ。(太田)・・>が、・・・北部軍<が>1943年(昭和18年)北方軍に<名称が変更され、その後の>、1944年(昭和19年)[3月19日に]第5方面軍<へと>改編<された>[際に、東北地方は切り離されて東部軍に編入され])」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%A8%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC5%E6%96%B9%E9%9D%A2%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D) ([]内)
昭和20年(1945年)4月8日に、第1総軍と第2総軍が編成された際にも、第5方面軍が、中部、関東、東北を作戦地域とする第1総軍に編入されることはなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E7%B7%8F%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
 これは、杉山元らが、1944年3月時点で、日本は北海道以北は本土だと考えていない旨を宣言し、ヤルタ会談の秘密協定で南樺太と千島列島を「得た」ソ連に対して、翌1945年4月時点で、改めて、その旨、念を押した、ということを意味する。
 そして、更に念を入れ、「1944年(昭和19年)3月15日に編成された<西部軍隷下にない>第32軍は、沖縄本島に司令部を置き奄美群島から先島諸島をその守備範囲として連合国軍の上陸に備え<てい>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6
が、そのままの名称で兵力を増強した状態で1945年3月から沖縄戦が始まり、7月2日に連合国は沖縄戦終了を宣言するが、わざわざ、ソ連向けに「第1総軍<と第2総軍<を>、この沖縄戦(1945年3月26日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6
の真っ最中の>・・・昭和20年(1945年)4月8日に編成<した、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E7%B7%8F%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
とさえ言えよう。
 そんなところへ、4月のローズベルトの死で大統領に、「外交経験が全く無い」、ローズベルトと違ってソ連に何の思い入れもない筈のトルーマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 (「」内)
が就いたことで、杉山元らは米国政府の対ソ観の根本的転換がより容易になったことを喜んだ一方で、ソ連の対日参戦以前に米国が日本に対して好条件での降伏勧告をしてくることを若干は危惧したと考えられるが、そんなことはないと読み切ったのだろう、6月に原爆開発を打ち切っている。
 (1944年7月にサイパンが陥落すると、当時まだ首相だった東條英機は早期原爆開発を自ら督促しており(コラム#14393)、それだけ杉山元らが思い入れがあったものを打ち切ったのだから、彼らは、6月時点までに、杉山構想の概ね完遂はもはや確定的だと判断した、と考えられる。)
 この間、4月30日にヒトラーが自殺し、5月8日、ドイツが降伏している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E6%88%A6%E7%B7%9A%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%B5%82%E6%88%A6_(%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6)
 その後のポツダム会談(1945年7月17日~8月2日)では、「チャーチルはソ連に対する不満を最初から隠そうともせず、・・・ソ連とその占領地域における政策の批判を続け<、総選挙で勝利しチャーチルに取って代わった労働党のアトリー新英首相も同じ姿勢をとった>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E4%BC%9A%E8%AB%87
が、トルーマンは「スターリン・・・と事前の打ち合わせをした際、スターリンからソ連が(ヤルタ会談での密約通り)8月15日に対日宣戦布告すると聞かされ<、>その日トルーマンが妻に書いた手紙では、「戦争はこれで一年以内に終わるであろう」と安堵の気持ちを述べていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
くらい、まだソ連に大甘だったのであり、そこまで知る由がなかった杉山元らにしてみれば、トルーマンを完全に覚醒させるためには、ソ連の対日参戦と、ヤルタ秘密協定での取り決めの範囲を超えてソ連に北海道への着上陸を敢行させる必要があったわけだが、そんな「トルーマンは<、>7月16日<に原爆開発成功>・・・を聞いたときに態度を一変し、ソ連に対して強硬路線を取るようになった」(上掲)ことから、結果的にはこれは杞憂だった。
 ソ連は、「1945年(昭和20年)8月9日、日ソ中立条約を破棄し、<前倒しして直ちに>対日参戦したソビエト連邦は、8月11日に南樺太の占領作戦を開始し<、>・・・8月15日に日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争(大東亜戦争)は停戦に向かった」<が、>・・・ソ連軍は<戦闘を継続し、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1945%E5%B9%B4)
更に、「8月18日に千島列島への侵攻を始めた<ところ、>・・・<その当面の目的は、>北海道の北半分を奪う<ことだったが、日本軍が抵抗を続けることを期待し、その場合は北海道全域を占領することを狙っていた、と、私は見ている。>・・・8月24日の午前5時に留萌上陸を始める計画であった。
 <しかし、>侵攻は開始予定の2日前、8月22日に中止され<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%BE%B5%E6%94%BB%E8%A8%88%E7%94%BB
 これは、”・・・all the Kurile Islands in the area to be surrendered to the Commander-in-Chief of the Soviet Forces in the Far East. However,・・・ it is my intention and arrangements have been made for the surrender of Japanese forces on all the islands of Japan proper, Hokkaido, Honshu, Shikoku and Kyushu, to General MacArthur.”という、8月18日付のトルーマンのスターリン宛メッセージがあった
https://digitalarchive.wilsoncenter.org/document/translation-message-harry-s-truman-joseph-stalin
からだ。
 スターリンは、この電文の「米大統領より」の所をペンで塗りつぶしており(上掲)、その悔しさのほどが窺える。
 極東における冷戦は、この瞬間に、始まったと言えるのであり、杉山元らは、ソ連の侵攻中、北海道への攻撃が一切なかったことで、そのことを察知したことだろう。
 ソ連が進軍を完全に停止したのは9月5日であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6
ところ、杉山元が自殺したのは9月12日であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
そのことをしっかり確認した上でのことだったと思われる。
 以上のような、杉山元らの成功の前提として必要だったのは、第一に、(繰り返すが、)ドイツの降伏より前に日ソ戦が勃発しないことであり、第二に、中国共産党がソ連共産党を筆頭とする共産党一般とは異なる存在であるとの認識を米国政府に抱かせることだった。
 (第二については、さもないと、米国政府が反ソに転じた瞬間、米国が、中国共産党政権成立やむなしとの判断を覆し、蒋介石政権支援を再開することが必定だったからだ。)
 以下、順次、説明しよう。
 まず、第一についてだ。
 スターリンはロシアに過剰適応したグルジア人であり、プーチンそっくりの人物だった、的な認識をまず持った上で読み進めて欲しい。
 1938年7月29日~8月11日の張鼓峰事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%BC%93%E5%B3%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
は、ソ連が、前年に勃発していたところの、日支戦争に蒋介石政権に肩入れする形で介入するかどうかを見極めるための威力偵察かも、と、日本を疑心暗鬼に陥らせ、日本軍をソ連との国境に引き付け、日支戦争に投入できる兵力を削減させる目的でスターリンが仕組んだところ、ソ連側の軍事的敗戦に終わったもの、と見ている。
 その後、極東ソ連軍は更に増強され、「満洲方面における日ソ両軍の戦力バランスは・・・1939年時点では日本11個歩兵師団に対しソ連30個歩兵師団<、になってい>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 かかる背景の下で勃発したところの、「1939年5月11日~9月16日の(第一次及び第二次)ノモンハン事件は、当時進行中であったところの、4月17日にドイツに持ち掛けた独ソ不可侵条約交渉、がまとまる見通しが得られていたスターリン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84
・・ヒットラーからソ連に対して公式に前向きの回答があったのは5月24日だが、5月11日までにはスターリンは明るい感触を得ていた可能性がある(太田)・・が、対ドイツ戦勃発を顧慮することなく、欧州方面とアジア方面の侵略を行えるようになったので、欧州侵略の前に極東侵略のための本格的な威力偵察を行ったのが第一次ノモンハン事件だったと、私は見るに至っている。

(参考)ソ連によってほぼ同時期に行われた欧州方面の(威力偵察ならぬ)文字通りの侵略は次の通りだ。↓
 「1939年9月1日から10月6日にかけて、ソ連は、・・ソ連は9月17日からだが・・ドイツと共にポーランドを占領、分割したところの、ポーランド侵攻を行ったが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BE%B5%E6%94%BB
ソ連は、「1939年前半、レニングラード軍管区は既にバルト三国に向けて赤軍の約10%に当る17師団の配備を終えていた。間もなく動員が行われた。1939年9月14日、第8軍がプスコフに派遣され、動員された第7軍はレニングラード軍管区の指揮下に入った。侵攻準備はここまでに完成に近づいていた。9月26日、レニングラード軍管区には「エストニア・ラトビア国境へ部隊の集中の開始と9月29日の作戦終了」が命じられる。その命令では「攻撃開始の時刻については別の命令が発せられる」ことと伝えられる。1939年10月初めまでにソビエトはエストニア・ラトビア国境に全部で以下のような準備を終えていた。
兵力 437,325 砲撃火器 3,635 戦車 3,052 装甲車 421 車両 21,919・・・
 <その間の>9月25日、ソ連はバルト三国全ての空域に入り、大規模な情報収集活動を実施。ソ連政府はバルト三国がその領土にソ連の軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求した。
 1939年9月28日、エストニア政府は最後通告を受諾し、関連する協定に調印した。10月5日にラトビアが続き、リトアニアは10月10日に調印した。その協定はヨーロッパの戦争の期間、ソ連がバルト三国の領土にソ連の軍事基地を建設することと1939年10月からエストニアに2万5千人、ラトビアに3万人、リトアニアに2万人の赤軍駐留を認めるものだった。・・・
 ソ連はフィンランドにも同様の協定への調印を要求したがフィンランドは拒否し、1939年11月30日、ソ連はフィンランドに侵攻し、冬戦争が勃発した。この侵攻は国際連盟によって違法なものと判断され、12月14日にソ連を国際連盟から除名する。この戦争は1940年3月13日に終り、フィンランドとソ連はモスクワ平和条約に調印した。フィンランドは首都ヘルシンキに次ぐ第2の都市ヴィープリを含む産業の中心部も併せてカレリアのほとんど全て(全部で領土の10%近く)を譲渡することを強制された。軍隊と残っていた住民は、新しい国境の内側に急いで避難している。フィンランドの全人口の12%に相当した42万2千人のカレリア住民が家を失った。フィンランドはバレンツ海のルイバチー半島(・・・Rybachy Peninsula・・・)のフィンランドの領域であったサッラ (Salla) の一部に加えてフィンランド湾のスールサーリなど4つの島も譲渡しなくてはならなかった。最終的にハンコ半島は30年間海軍基地としてソ連に貸与された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E5%8D%A0%E9%A0%98 

 ところが、「第一次ノモンハン事件(5月11日~31日)・・・における損害は、日本軍、戦死159名・・・、戦傷119名、行方不明12名で合計290名、九四式三十七粍砲1門、トラック8台、乗用車2台、装甲車2輌に対し、ソ連軍の損害は戦死および行方不明138名、負傷198名、モンゴル軍の損害は戦死33名の合計369名、戦車・装甲車13輌(うち2輌はモンゴル軍のBA-6)、火砲3門、トラック15台であり、戦力が勝っていたソ連・モンゴル軍の方の損害が大きかった。・・・
 <また、>空の戦いは日本軍の一方的勝利に終わった。」(上掲)
 この結果にスターリンは衝撃を受け、極東における本格侵攻を行うどころか、日本軍が北進してくる恐怖にかられ始め、日本軍に痛撃を加えることで日本軍を抑止することにした、と、私は見ている。
 ところで、「ジューコフの希望を上回る増援を送り込んできたソ連に比べると、「ソ連に事件拡大の意図はない」と完全にソ連の意図を読み違え、兵力の増強を怠った日本陸軍中央の甘い情勢判断が対照的となった。」(上掲)と一般に言われているところ、そうではなく、兵力を増強すると、次にはソ連に更なる大勝利を博してしまい、調子に乗って関東軍がモンゴルのみならずソ連領内攻撃まで始めて、それが日ソ戦争に発展する恐れがあったので、杉山元らはあえて兵力増強をしなかった、というのが私の見方だ。

 かかる背景の下、「第二次ノモンハン事件(6月27日~9月16日)<が起きるわけだが、その結果は、第一次ノモンハン事件を含め、〆て、>・・・日本軍<は、>・・・大まかに人的損失(病人も含む)20,000人でうち戦死・行方不明は9,000人<であったのに対し、>ソ連軍<は、>戦死:9,703人 戦傷:約15,952名(約16,000名とする見解もある)<で>ソ連軍合計:約25,655名<、>モンゴル軍<は、>死傷者990名 ソ連軍・モンゴル軍合計:26,645人<、であり、人的損害はソ連側の方が大きかった。・・・
 <要するに、>日本軍は・・・兵力、武器、補給の面で圧倒的優位に立っていたソ連軍に対して、ねばり強く勇敢に戦<い>、勝ってはいなくても「ソ連軍の圧倒的・一方的勝利であったとは断定できない」との見解が学術的には一般化・・・して<おり、>歴史家秦郁彦も<、>「・・・ノモンハン事件は・・・、実態は引き分けに近かった」と<した上で、>・・・「損害の面では、確かに日本軍のほうが少なかった」<し、>「領土に関していえば、一番中心的な地域では、ソ連側の言い分通りに国境線が決まったが、停戦間際、日本軍はその南側にほぼ同じ広さを確保」と戦闘開始時の目標をソ連は達成したが日本も同等の領土が得た・・・」と指摘している。」(上掲)
 私は、上述したように、ソ連は、本来は本格的侵攻を企図していたと考えているので、それを断念した以上、ソ連側が敗北した、と、見てよいと思っている。 
 いずれにせよ、「ノモンハン事件の停戦後も、小規模な紛争は引き続き起きたものの、大規模な戦闘は生じなくなった。ノモンハン事件末期の1939年9月に第二次世界大戦が始まっている状況で、日ソの外交交渉が行われた。1941年4月に日ソ中立条約が成立し、相互不可侵と、モンゴル人民共和国および満洲国の領土保全が定められ、一連の日ソ国境紛争は終結。日本とソ連はモンゴル人民共和国と満洲国を相互に実質的に承認<するに至っ>た。」(上掲)
 なお、「日本軍首脳部は、ノモンハン事件での大敗で、ソ連の実力を侮りがたいものとして評価した<結果>、ソ連を仮想敵とする北進論は鳴りを潜め、<米英>との対決を覚悟して南方に進出すべきとする南進論に力を与えることとなった。」(上掲)とも一般に指摘されているが、そうではなく、杉山元らは、北進論の鳴りを潜めさせるために必要最小限度の兵力しかノモンハン事件に投入させなかったのだ。

 1941年(昭和16年)7月の関東軍特種演習、いわゆる関特演、も、この文脈の中で理解されるべきだろう。
 山下奉文陸軍中将がヒトラーから数日後に独ソ戦を始めるので日本軍も満洲方面でソ連を攻撃するよう要請を受けたが、杉山元らはもちろん取り合わなかった(コラム#14403)ものの、「独ソ戦(1941年6月22日開戦)が始まった直後の1941年7月に・・・「関東軍特種演習」<を行っている。>・・・<これ>は、<一般に、>実際には単なる軍事演習ではなく、秘密動員のうえで開戦決定し、そのままソ連侵攻による開戦を意図した関東軍による戦争準備策であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D%E7%89%B9%E7%A8%AE%E6%BC%94%E7%BF%92
と指摘されているけれど、「独ソ戦が始まり緒戦はドイツ軍が圧倒的優位に立つと、松岡洋右外務大臣や原嘉道枢密院議長らをはじめ日本政府内では、まずは日独同盟を重視し、ドイツと協力してソ連を挟撃すべしという主張が勢いを持った(北進論)、が、>近衛文麿総理大臣<に>はノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(兵員約28万)では満洲工業地帯の防衛が困難であると判断、関東軍首脳部の主張を支持<する、と、陸軍が言わせた(太田)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D%E7%89%B9%E7%A8%AE%E6%BC%94%E7%BF%92
けれど、関特演は、それだけでは政治家達の圧力をかわすには不十分と考えてとったところの、方便的措置だった、というのが私の見方だ。
 「陸軍参謀本部がソ連開戦の前提条件としたのは、極東ソ連軍の兵力が半減することであったが、極東ソ連軍の兵力が減少することはなかった」(上掲)ところ、ノモンハン事件での勝利を知っている杉山元らにすれば、極東ソ連軍の兵力が半減するどころか減少することすらありえないこともまた知っていた筈だからだ。
 なお、「後年、日下公人が関特演の作戦立案にあたった瀬島龍三に開戦前夜の大本営について質問している。1941年11月26日にハル・ノートが出た頃、ドイツ軍の進撃がモスクワの前面50kmで停止し、大本営は「冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる。」と考えていた。「本当に大本営はそう思っていたんですか?」と尋ねると「思っていた。」と。続けて「もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか?」と尋ねると、「日下さん、絶対そんなことはありません。私はあのとき、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやるという人なんかいません。その空気は、私はよく知っています。」と答えている」(上掲)が、杉山元らは、最初からドイツは敗北すると考えており、モスクワが落ちようが落ちまいが、全く気にしていなかった筈だ。
 (ナポレオンのロシア遠征の時、モスクワを落としたけれど、結局、ナポレオンは敗北しているし、そもそも、当時とは違って、米国がロシア(ソ連)を大量の軍事支援を行うことが予見されていたからだ。)

 次に、第二についてだ。
 「中国共産党が<・・ホンネでは親日である点は秘匿しつつ(太田)、・・>ソ連共産党を筆頭とする共産党一般とは異なる存在であるとの認識を米国政府に抱かせる」ため・・には、一体どうしたらいいか?
 杉山元が目をつけたのは、アグネス・スメドレーのような、1936年までソ連のスパイだったところの、「正統派」共産主義者たる米国人、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BC
https://en.wikipedia.org/wiki/Agnes_Smedley
ではなく、野心があってかつ御し易い、ジャーナリストたる米国人、エドガー・スノーだった、ということではなかろうか。
 (スメドレーは、その後スノー同様の道を歩み、朱徳の提灯持ち的伝記本である『偉大なる道-朱徳の生涯とその時代』を書いている。(上掲))
 そして、杉山元らは、スノーを毛沢東の根拠地の西安に送り込む。↓
 
 「スノー<は、>・・・1935年の日本による中華民国北部侵攻に反感を抱き「抗日戦線の鍵は中国共産党にあり」と考えて党拠点への取材を求める。・・・
 <1935年秋にまでかかった>長征により兵力の大半を失い、抗日戦線のための中国人の団結を訴えたかった毛沢東との利害とが一致し、スノーは中国共産党についての報告を行っていく。スメドレーも長征以前の共産党の内部事情について報道していたものの、スノーのように長征以後の共産党幹部と身近に接したものは他にいなかった。毛沢東はスノーに自分の半生を語り、書くようにすすめた。スノーはその時点では知らなかったが、毛沢東はインタビューに非常に用心深く、何の制約もないと主張したにもかかわらず、毛沢東のリクエストに応じてスノーは多くの修正をせざるをえなかった。
 <そして、>・・・1937年にロンドンで『中国の赤い星 (Red Star Over China) 』を出版した。これは毛沢東を中心とした中国共産党を好意的に取り上げ、将来の共産党の隆盛を予見するものであった。スノーは毛沢東は政治的改革者であり、1920年代のように軍事的また革命的ではなくなっていると報じた。この本は販売後4週間で12000部が売れた。本書は、初期の中国共産党の活動を描いた古典となった。・・・
 しかし『赤い星』は、<理由はお分かりだろうが(太田)、>ソ連・コミンテルン、中華民国にいた共産党シンパの欧米人やスターリニストだった宋慶齢らから分離主義として非難を浴びた。・・・
 その後、・・・政治的な著作『アジアの戦争』を書き上げ、日中戦争における日本を批判的に取り上げた。同書では南京安全区国際委員会の委員長であったジョン・ラーベが示した算定として「南京大虐殺」において「日本軍は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した」、「10歳から70歳までのものはすべて強姦された」と記し、成都で会ったL・スマイスが編纂した『南京地区における戦争による損害』を引用して「日本軍による暴行」として告発している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC

 要するに、毛沢東は、自分達が親日であることを秘匿し、かつまた、それらが日本由来であることも秘匿しつつ、スノーに、縄文的弥生人化しつつあったところの、自分達や人民解放軍の兵士達、及び、縄文人化しつつあったところの、陝西省北部の農民達、を見せて原稿を書かせ、それを検閲した上で、スノーに『赤い星』を世界に向けて上梓させ、まんまと目的を達した、というわけだ。
 (毛沢東が、スノーに日露戦争での日本の勝利に感激した話をしたのは、うっかりホンネを吐いてしまったのか、若気の至りだったとしてその話をしたのか、どちらかだろう。

 なお、1937年12月の南京事件は、捕虜の大量殺害、と、「一般市民」に対する殺害、強姦を含む暴行陵虐、の二側面があるが、前者については、捕虜の扱いは蒋介石政権やソ連同様日本も過酷だった「だけ」であることから支那側が問題にしたことはない一方、後者は、杉山元らが、私が杉山構想被開示者と見ているところの、元陸軍次官の柳川平助第10軍司令官に指示してやらせたのであって、その狙いは、終戦後、政権をとるであろう中国共産党に日本を非難する材料を与え、実際非難させることによって、日本と中共が敵対しているとの誤った印象を、世界、とりわけ米国、に与えるところにあった、と見ている(コラム#10449)。1942年2~3月のシンガポール華僑粛正事件も同じ性格のものであった可能性がある。)


[重い雑談–議会制と民主制、など]

 第一回で取り上げ忘れた重要なことを話しておきたい。↓

 「ヘロドトスが指摘したように「戦争はすべてのものの父」なのだ。・・・
 政府が戦争を始めるのではなく、戦争が政府をつくったのだ。
 戦争は政治的な危機(その中には宗教、人種、文化等を要因とするものを含む)が引き起こすが、その戦争が議会制度、徴税機構、(戦費が税金だけでは賄えないので国債が発行され、その国債を引き受けるための)中央銀行(の創設)、(その国債を売買するための)債権市場(の創設、更には)、株式市場等の金融制度を生み出した。そして、これら金融制度が適切に機能するように法の支配が確立し、これら金融制度を適切に運営できる人材を養成する必要から教育制度が発達した。」(ニール・ファーガソンの本の要旨)(コラム#207)

 ここでは、戦争が生み出した諸制度中、議会制と民主制について補足しておく。
 まず、議会制についてだが、議会制は、弥生人が戦争を行うために軍最高司令官を選出し、当該戦争に係る基本方針を決定するための制度が起源だ。
 どうしてそのような制度が必要になるのか?
 戦争の都度、戦闘員達は、自分達の命がかかっているのだから、戦略、戦術、武術、の、できればいずれにおいても傑出した人物を最高司令官にしたかったからだ。
 もとより、「立候補有資格者」は特定の家(家々)の限られた人々に最初から絞られることも多かったが、これは選出を迅速に行わなければ戦機を逸したり情報が敵に漏れたりする恐れがあったからだ。
 (いずれにせよ、縄文人も、普通人も、弥生的縄文人も、はたまた縄文的弥生人も、議会とは本来無縁だった。)

 その事例の第1が、騎馬遊牧民に係るモンゴルのクリルタイ(kurultai)であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4
事例の第2が、ゲルマン文化のシング(Thing)(議員は自由人たる成人男性)だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Thing_(assembly)
 このシング・・後にこれが「物」という意味に転化したことがその不可欠性を示している・・が、アングロサクソン文明下において、アングロサクソン諸王朝のウィタン(Witan)(議員は諸侯と高位聖職者)になり、
https://en.wikipedia.org/wiki/Witan
ノルマン・コンケスト後のキュリア・レジス(Curia Regis)(議員は同上)になり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%B9
更に、イギリス議会(Parliament)(議員は諸侯/高位聖職者と市民)となって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%AD%B0%E4%BC%9A
現在に至っている。
 シングがプロト欧州文明のフランスの三部会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%A8%E4%BC%9A
に至る経緯やその立ち枯れに至る経緯についても面白いのだが、立ち入らない。
 次に、民主制(民主主義)についてだが、こちらの方は、普通人の古典ギリシャ文明が起源だ。
 (女性や非市民居住者や奴隷が蚊帳の外であったことは取り敢えず忘れて欲しい。また、本来の議会制と民主制・・戦士や戦争のためのカネやモノの提供者以外の有象無象も参加する!・・とは、古今東西、大部分の場合、相容れないことに注意。)
 すなわち、アテナイで、BC594年に、ソロンが、民会(Ecclesia=Assembly)出席資格を全男性市民に拡大した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ecclesia_(ancient_Greece)
 これは、(アテナイはイオニア人のポリスだが、)アナトリア半島北西部の同族のイオニア人地域
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BA%BA
等の広義のギリシャ人地域にリュディアが脅威を及ぼしつつあったこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2
に衝撃を受け、重装歩兵や戦闘艦艇の漕ぎ手・・どちらに起用しても五体健全でさえあればさしたる訓練なくして使い物になる・・として無産市民達を動員する総力戦体制を構築してリュディアが将来アテナイ等にまで食指を延ばしてきた時のために備えることを目指したものである、というのが私見だ。
 結局、BC6世紀後半に、この植民都市群はリュディアに征服されてしまうのだが、その後すぐに、今度は、そのリュディアがBC547年にペルシャ帝国に征服される。(上掲)
 今度は、ペルシャ帝国の脅威に晒されたアテナイで、クレイステネスがBC510年に実権を掌握し、彼によって、「旧来の血縁による4部族制を廃止し、地縁に基づく10部族制のデーモス(区)制定及び10部族制デーモスを基礎とした五百人評議会<・・行政機関・・>の設置<が>行<われ>、将軍職(ストラテゴス)<が>定め<られ、>・・・、僭主の出現を阻むためにオストラシズム(陶片追放)の制度<が>創設<される等、>・・・民主制<が整備、強化された>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%B9
上で、アテナイは、まず、BC506年に近接する2つのポリスを破るという予行演習を行い、次いで、BC499年にアナトリア半島でのギリシャ人達の対ペルシャ反乱(イオニア反乱)に戦闘艦艇群を送って支援してペルシャを挑発し、BC492年、ペルシャのダレイオス1世に対ギリシャ戦を開始させ、BC490年のアテナイ軍中心のマラトンの戦いに勝ち、ダレイオスを継ぎ、ペルシャ戦争を継続したクセルクセス1世率いるペルシャ軍に対して、BC480年に今度はやはりアテナイ軍中心のサラミスの海戦で勝ち、翌479年に〔スパルタ軍を筆頭とする〕プラタイアの戦い等で勝ち、クセルクセスの暗殺事件を経て、BC465年に和睦が成立してギリシャ側勝利で戦争は終結する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ([]内)
 (ちなみに、「アテナイ民主政の下では将軍職などごく一部の重要な役職を除いて役職が希望者の中から籤で選ばれていた」
https://www.bing.com/search?pglt=43&q=%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9+%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%8A%E3%82%A4+%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%88%B6&cvid=44a011e2569c449f993832dbe2af78d9&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyBggAEEUYOTIGCAEQABhAMgYIAhAAGEAyBggDEAAYQDIGCAQQABhAMgYIBRAAGEAyBggGEAAYQNIBCTExNTk2ajBqMagCCLACAQ&FORM=ANNTA1&PC=U531
ことからも、軍事司令官は、市民でさえあれば誰でもこなせるというわけにはいかないポストの最右翼であったことが分かる。)
 このアテナイの民主制は、ペルシャ戦争勝利後、BC5世紀前半のペリクレスの時に最盛期を迎える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B9
 何が言いたいかというと、明治維新は、日本の、(民主制と弁証法的統合が成し遂げられつつあったところの)議会制、を始めとして、大蔵省、中央銀行、株式/債権市場、欧米の司法制度、欧米の教育制度、等の導入からなる、近代化、を目指したと言われているが、そうではなく、近代化・・近代的でも何でもない議会制等が含まれているので「近代化」と言い直すべきだが・・は手段に過ぎなかったのであって、あくまでも、目的は、戦争体制の構築だった、ということだ。
 これが、いずれも縄文的弥生人であったところの、大久保利通や山縣有朋ら、そして、遡れば島津斉彬ら、の認識だった、と、見てよい。

 (念のためだが、どちらも弥生人の文化や文明ではない点では同じながら、維新期の日本は縄文的弥生人が縄文人を統治する日本文明下にあったのに対し、古典ギリシャ文明は支那の中原文明同様の普通人の文明だった、という違いがあったことに注意。)

 (3)日蓮主義

  ア 日蓮

 日蓮の高弟6人中の筆頭は日昭だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%80%81%E5%83%A7
が、彼は、比叡山での修行中の年長の学友で、関白・藤氏長者(とうしのちょうじゃ)の近衛兼経の猶子であったところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E7%B5%8C
「日蓮が佐渡に流されると,鎌倉にのこり<、>・・・鎌倉幕府による日蓮教団弾圧の動きが起こると,「天台沙門」(天台宗の僧)と名乗り,幕府のための祈願を行って難を避け・・・<また、>日蓮の葬儀をとりしき<った」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%98%AD-1099535 
人物だ。
 このことは、近衛家が、日蓮宗の発足と存続に関わったということを意味する。(コラム#12103も参照)

 元寇を予言し、的中させた「日蓮は、外からの脅威はその根底から絶たなければならないとし、そのためには必要に応じ武力行使も躊躇してはならないとし、この壮図に、縄文的弥生人のみならず、人間主義者(縄文人)も、できる限り参画すべき」(コラム#12103)であるし、「日蓮<は、>いくさ(戦)<の評議の場>への立ち合いを求めた<が、これは、その場で>発言することもあるべし、」(コラム#13292)という含意だった。

 日蓮は、私見では、武家の過剰が内戦状態の恒常化をもたらすことを危惧し、武家を対外志向させることによって、人間主義(縄文性)の世界への普及、ひいては世界に平和をもたらすことを夢見たのだ。(コラム#11375)
 別の角度から言えば、日蓮は、人間主義を世界に普及させるための弥生性の発揮を、武士にとっての最高の慈悲行である、と考えた、と、私は見ている。
 これを、私は、(広義の)日蓮主義と呼んでいる。

  イ 後醍醐天皇

 後醍醐天皇の父の「後宇多天皇は<、1281年の弘安の役の頃、日興(注8)>の申状を園城寺の碩学に諮問した結果、賛辞を得たので、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」との下し文を日興に与えたという。・・・

 (注8)1246~1333年。「日蓮の高弟であり、日蓮が定めた本弟子六老僧の一人。・・・父は・・・甲斐<の>・・・武士<。>・・・弘安4年(1281年)、第2回蒙古襲来(弘安の役)に前後して、日蓮は鎌倉幕府に対する諫暁が事態の改善にならないことを鑑みて天皇に対する諫暁を決意し、朝廷に対する申状を執筆した(その申状は「園城寺申状」と呼ばれる)。その上で日蓮は日興に指示し、京都に上って同申状を後宇多天皇に上奏せしめた。日蓮は翌、弘安5年(1282年)、さらに日目に命じて再度、朝廷に上奏せしめている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%88%88

⇒これは、厩戸皇子が最も尊重した法華経、そして、天台宗の依拠する法華経、の解釈は日蓮によるものが最も正鵠を射ている、と、時の天皇が認めた、ということだ。(太田)

 1321年・・・、<日像が、>後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立した。1334年(建武元年)後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許され、勅願寺となる。・・・

⇒これは、後醍醐天皇による自らが日蓮主義者であるとの宣言であった、と、私は見ている。
 それは、天皇自らが、権力を掌握し、封建制を廃して日本を再中央集権化した上で、武士達に日蓮主義的外征を行わせる、との決意表明でもあった、とも。
 そのために、同天皇は失敗に終わった1331年の元弘の乱を経て、1333年に鎌倉幕府の打倒に成功し、建武の新政を開始するも、足利尊氏の母の弟が日蓮宗の高僧の日静であったことから、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%A0%BC%E9%87%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9D%99
足利氏が事実上の日蓮宗信徒であったにもかかわらず、1335年に足利尊氏が背き、1336年には失権してしまい、外征への着手どころではなかった。(太田)

 <なお、1339年に後醍醐天皇は没するが、その>後に<、日蓮に対して>皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号、が>追贈され<ることになる>。」(コラム#11375)

⇒大菩薩号を追贈されたのは、「大覚の雨乞いの功により、後光厳天皇から日蓮に大菩薩、日朗と日像に菩薩の号が贈られた」ものだが、これ以外は、寛政2年(1799年)の光格天皇から役小角(えんのおづぬ。634?~701年?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%92
への神変大菩薩号の追贈だけだ。
 これは、当時、北朝は南朝に追い詰められており、南朝の日蓮主義に対抗すべく打ち出された一種の起死回生策だったのではなかろうか。
 なお、立正大師号追贈については、鎌倉仏教創始者達のうち、大師号を追贈されていなかったのは栄西と日蓮だけであった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B8%AB_(%E5%83%A7)
ところ、1922年には後の昭和天皇が既に摂政をしているが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87
大正天皇でも摂政の裕仁皇太子でもなく、日蓮宗信徒であった貞明皇后・・豊臣完子(後出)の子孫でもある・・の指示に基づくものだろう。
 なお、九条家と言っても、貞明皇后の祖父の九条幸経は、近衛家の分家たる鷹司家の出身であり、貞明皇后の時点での九条家は意識の上では近衛家化していた、と、私は見ている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E7%B5%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%AD%9D
 (なお、後出の瑞龍寺のくだりも参照。)
 さて、「私は、鎌倉持代以降、近衛家と島津家は<一貫して>一心同体に近かったと見て<いる(コラム#省略)が、この>近衛/島津家<は、>後醍醐の親政構想に反対した<ところ、それ>は、後醍醐が日蓮主義を信奉していて大陸侵攻を企図していた、ことに共感は寄せつつも、そのリスクの大きさからしても、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の完全実現、すなわち、鎌倉幕府では不完全に終わったけれど、今度こそ清和源氏の嫡流筋に権力を担わせる形での完全実現、が先決であると考えたからだ、と思う・・・。
 であるとすれば、近衛/島津家は、天皇家親政志向の南朝にも、日蓮主義の実施を妨害した尊氏にも、飽き足らなさを覚えていたはずであり、彼らが、尊氏、直義/直冬、そして南朝、の三者の間を揺れ動いたのは、(もちろん<世俗的>利益追求の側面もあったはず<だ>が、)不思議ではない、ということにな<る>。」(コラム#11768)(太田)

  ウ 信長流日蓮主義と秀吉流日蓮主義

 建武の新政より前の、持明院統と大覚寺統の両統迭立時代の途中、後宇多天皇が日蓮宗にお墨付きを与えた時点から、大覚寺統は日蓮主義、持明院統は非日蓮主義、という色彩を帯びるようになり、建武の新政において、大覚寺統の後醍醐天皇が権威のみならず権力も一時掌握するに至って、その日蓮主義は、後の(私の言う)秀吉流日蓮主義(後出)の色彩を帯びるに至った。
 ところが、後醍醐天皇に代わって、足利尊氏が最高権力者となり持明院統(北朝)を擁立する形で室町時代が始まると、足利氏が事実上の日蓮宗信徒であったことから、大覚寺統(南朝)の秀吉流日蓮主義に対し、足利幕府/北朝は自ずから(私の言う)信長流日蓮主義(後出)、という対立図式になった。(コラム#12328での示唆を敷衍した。)
 いわば、北朝は、いやいや、日蓮主義を抱懐させられたわけだ。
 それを象徴するのが、北朝の後光厳天皇による故日蓮への大菩薩号の追贈(前出)だ。
 また、南北朝合一時の真の合一条件は、北朝の後小松天皇による敷地提供による日蓮宗の本満寺の、時の近衛家の長たる近衛忠嗣の叔父の日秀を開祖とする、京都における創建、であった、と、私は見ている。(コラム#12103)
 さて、織田信長が足利義昭(注9)と共に上京し、その「信長の支持によって」義昭は日蓮宗の本圀寺を仮居所(六条御所)としている、というか、させられている、が、二人とも日蓮宗信徒ではない。
 
 (注9)信長は安土城城郭内に摠見寺を建立しており、臨済宗の義昭の墓所は臨済宗の等持院。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%89%E6%8C%81%E9%99%A2

 しかし、義昭に関しては、「本圀寺・・・が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)3月で、四祖日静上人の時である。日静は室町幕府初代将軍足利尊氏の母・上杉清子の弟で、尊氏の叔父であった。そのため、幕府からの支援もあり、日静は光明天皇より寺地を賜ると六条堀川に寺基を移転させた。また、天皇から「正嫡付法」の綸旨も受けている。・・・<それ>以降も寺は足利将軍家の庇護を受けたほか、応永5年(1398年)には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%80%E5%AF%BA (本文中の『』内も)
ということから、本圀寺、ひいては(足利氏の嫡流なのだから当然ながら)日蓮宗の事実上の信徒でもあったと言えよう。
 また、「天正10年(1582)3月、武田氏を滅ぼした信長は、甲斐善光寺の如来像を美濃に移した。・・・中世において・・・源頼朝<もそうだったが、>・・・善光寺信仰は、太子信仰と・・・密接に関わっていた。・・・三河国明眼寺の可心なる僧の夢に太子が現れ、「天下」は信長に帰すべしと告げた。これを受け、可心は熱田社から武威の正統性を象徴する太刀を貰い受け、信長と対面した。その際信長は「我モ慥ニ如夢ヲ見了、近比大慶也トテ、天下存分ナラヌ(ハヵ)太子御建立ノ寺ヲハ可有再興由有契約ト語」たという。・・・<また、>「信長の旗指物の麾<(き)(注10)>に「南無妙法蓮華経」と描かれている<・・「理念」を周知させ普及させるためには適切な「象徴」を用いることが重要(太田)・・>こと」
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg04803.pdf?file_id=9345
から、厩戸皇子→日蓮→信長、という系譜が見えてきて、信長もまた、事実上の、しかも、正統派の、日蓮宗信徒でもあったと言えそうだ。

 (注10)「旗印とは・・・その武将のいる部隊の目印<、>・・・馬印と<は>・・・その武将が乗っている馬の脇に立て、武将の居場所を表す目印になり<、>・・・この旗印と馬印を合わせて旗指し物と呼<ぶ。>・・・信長の場合は、旗印が黄色い永楽銭の旗、馬印が金色の唐傘か南蛮傘を使ってい・・・た。」
https://www.pt-jepun.com/history/kiji14251.html
 麾は、「指揮をとるための旗」
https://kanji.jitenon.jp/kanjih/3776.html

 その信長は、「注10」から、自分の軍勢は富国強兵の精華であって日蓮主義の推進を旨とし、具体的には、東アジア(唐笠!)と欧州(南蛮傘!)、すなわち、全世界への人間主義の普及を希求している、ということを宣明していた、と、私は解している。
 但し、信長は、天皇家に累が及ばないよう、自分の責任でこれを成し遂げようと思っていた、とも私は見ており、信長の日蓮主義を私は信長流日蓮主義と名づけている。
 信長は「上洛中の宿所として<日蓮宗の>妙覚寺を使用することが<18回で>、本能寺を宿所とすることは3回・・・であった<ところ>、天正10<1582>年6月2日・・・は息子の織田信忠<を>妙覚寺に逗留<させ>ており、信長は<日蓮門下の法華宗本門流の>本能寺を宿所としていた<が、>その本能寺を明智光秀の率いる軍勢が包囲し、襲われるという本能寺の変が起き<て信長は亡くなっている>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA
ところ、彼が宿舎として最も好んだ妙覚寺が「不受不施義<(注11)>の中心的寺院」であったこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E8%A6%9A%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
・・朝廷と何ら関わりを持たない日蓮主義の本舗!・・、及び、信長が「天正6年(1578年)・・・4月<に>・・・右大臣・右近衛大将を辞した」こと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
が、その根拠だ。

 (注11)「日蓮による思想の1つで、不受とは法華経信者でない者から布施を受けないこと、不施とは法華経信者でない者に供養を施さないこと。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%97%E4%B8%8D%E6%96%BD%E7%BE%A9

 次に豊臣秀吉だが、彼は、近衛前久の猶子になっているものの、この2人とも日蓮宗信徒ではない。(注12)

 (注12)秀吉は、母の大政所も弟の秀長も墓所は臨済宗の大徳寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E6%89%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%95%B7
で、本人も墓所は豊国神社だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
 また、前久の墓所は臨済宗の東福寺だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85

 しかし、秀吉の姉のとも(村雲日秀)とその子で秀吉の養子になった豊臣秀次と豊臣秀勝、の墓所は、それぞれ、瑞龍寺/本圀寺/善正寺、と、善正寺、善正寺、であるところ、いずれも日蓮宗の寺院であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%A7%80%E5%B0%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%8B%9D
3人とも日蓮宗信徒だ。
 従って、秀吉は、日蓮宗信徒の身内に囲まれた生涯を送ったと言っても過言ではなく、しかも、日蓮主義者の主君たる信長に仕えたわけだ。
 かかる背景の下、秀吉は、信長流日蓮主義とは一味違ったところの、朝廷を巻き込んだ日蓮主義、すなわち秀吉流日蓮主義、を抱懐しつつ、第一次日蓮主義戦争であるところの朝鮮出兵を敢行した、と、私は見ている。

  エ 二つの非完遂日蓮主義戦争

  (ア)朝鮮出兵(1592~1598年) 

 私見では、これは、(1449年の土木の変における明のモンゴル系のオイラトへの敗北以後、明の北方民族に対する影響力が低下したことがコシャマインの戦い等を通じて日本に伝わっていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%9C%A8%E3%81%AE%E5%A4%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ことを踏まえたところの、)遊牧民系の弥生人に対する予防戦争、と、イデオロギー(キリスト教)を尖兵とするゲルマン系の弥生人に対する予防戦争、とを兼ねた戦争であって、その目的は縄文性(人間主義)と縄文的弥生性からなる日本文明の世界の普通人諸社会等への普及だった。。
 しかし、縄文モード志向の天皇家、信長流日蓮主義推しでかつ豊臣家による関白位乗っ取りに反対の近衛家、この両家に配慮した千利休や豊臣秀次、そしてキリシタン達(北政所周辺、及び、キリシタン諸大名)、等に足を引っ張られているうちに、秀吉が亡くなってしまい、非完遂のまま終わってしまった。
 日本がこの戦争に勝てなかった筈がないのであり、現に、それからわずか21年後の1619年に、後金(後の清)が、明にサルフの戦いで大勝利を博し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
明を名存実亡状態に陥れ、1636年に清朝の成立が宣言され、1644年には明は滅びてしまうのだから・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B8%85%E4%BA%A4%E6%9B%BF 
 また、1580年にポルトガル王を兼ねることになったスペインのフェリペ2世に対し、1582年、1584年、1585年に、日本のイエズス会布教長は、キリシタン日本人傭兵も動員する形での明の征服を進言しており、(日本の征服は困難だが、)明の征服は容易である、と報告していたところだ。
https://www.mclaw.jp/column/tsutsumi/column014.html

  (イ)国姓爺合戦

 国姓爺(こくせんや)は、日支ハーフの鄭成功(田川福松。1624~1662年)のことであり、国姓爺合戦は、鄭成功による対清・対蘭戦争だが、「弟の次郎左衛門は<平戸藩士の娘である、この2人の>母と共に日本に留まり、田川家の嫡男となり田川七左衛門と名付けられて日本人として育った。長崎で商売が成功した七左衛門は、鄭成功と手紙でやり取りを続け、資金や物質面で鄭成功を援助していた<ところ、>・・・父・鄭芝龍は福建省泉州府の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の寵をうけて川内浦(現在の平戸市川内町字川内浦)に住んで、田川マツを娶り鄭成功が産まれた<という経緯があり、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%88%90%E5%8A%9F
私見では、国姓爺合戦は、秀吉による朝鮮出兵と同じ動機・目的によるところの、日蓮主義氏たる松浦氏による私戦だった。(コラム#14163も参照。)↓

 「鄭氏政権下の台湾経済は利益主導のオランダ植民地よりも大きな経済多角化を達成し、より多くの種類の穀物、野菜、果物、魚介類を栽培した。・・・鄭成功の台湾攻略は東アジアにおける欧州人の植民地拡大の北限と転換点を<画した」。>」(上掲)


[軽い雑談–先入観の陥穽]

 先の大戦の勝敗の件がその典型例だが、人は先入観の囚人なのであり、先入観を捨てること・・赤ん坊のように素直に物事を見ること・・を意識的に行う必要がある。
 こういう私自身、天皇への思い入れという先入観から比較的最近まで昭和天皇家の評価を180度間違ってしまっていたし、更に卑近な例を挙げれば、小さい時から忠臣蔵の舞台や映画を見て刷り込まれてきたため、忠臣赤穂浪士 v. 悪人吉良上野介、という図式でしか赤穂事件を捉えられなくなってしまっていた。

 例えば、コラム#29は、私の役所時代の随筆の転載だが、上記図式を当然の前提としているし、コラム#9692とコラム#12455のどちらでも山鹿素行まで持ち出しつつ上記図式に全く疑いを持つことがなく、コラム#14163に至って、ようやく、日蓮主義という、私が到達した日本史観のプリズムを通して山鹿素行を再評価したことをきっかけに、彼が反赤穂藩でかつ上野介の親友であった、という、誰でもすぐ分かることに初めて「気付き」、赤穂事件全体が、日蓮主義を巡っての理念の戦いであったことの発見に至った次第だ。

  オ 江戸時代における秀吉流日蓮主義の雌伏

  (ア)近衛家/島津氏

 近衛家・・元祖日蓮主義家・・と島津氏は、ほぼ一心同体であり続けた、と見てよい。(コラム#9902)
 良く知られていることだが、島津重豪の娘の茂姫(高台院)も、島津斉彬の従姉妹で養女の篤姫(天璋院)も、一旦、近衛家の養女となってから、それぞれ、徳川家斉、徳川家定、に、輿入れしている。

  (イ)御三家

 紀州徳川家と水戸徳川家の祖の頼宣と頼房は、その父家康の、強烈な日蓮宗信徒であったところの、側室の萬(養珠院。1577~1653年)、の子であり、両家は日蓮主義家としてスタートを切った。
 (家康とこの養珠院の2人は、水戸徳川家出身の徳川慶喜の祖先であるわけだが、実は、島津斉彬の祖先でもある。(コラム#12168))
 水戸徳川家の日蓮主義家度は、頼房の子の光圀が近衛家から御簾中として尋子(ちかこ)・・光圀に『大日本史』編纂に着手させたと私は見ている(コラム#12455)>・・を迎えたことで更に高まり、そのまま、幕末まで推移する。
 紀州徳川家の方は、その日蓮主義度はそれなりの水準で推移したが、幕末期の慶福(よしとみ。将軍となり家茂)の祖父は事実上の日蓮宗信徒だった徳川家斉だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E9%A0%86
し、その養子で最後の紀州藩主となった茂承(もちつぐ)は伊予西城藩主の子だが日蓮宗信徒だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%8C%82%E6%89%BF
 また、尾張徳川家は、その祖の徳川義直が近衛信尋と濃厚な交流があったこともあり、日蓮主義者にして大変な尊皇家になった、と、私は見ており、その後も、同家は、血統いかんにかかわらず、近衛家を始めとする摂家や天皇家、更には水戸徳川家との姻戚関係を重ねることを通じて、その日蓮主義家性を堅持し続けた。(コラム#12176)
 つまり、反日蓮主義の徳川家本家(将軍家)は、最初から、日蓮主義家の身内三家によって外堀を埋められていた、と、言ってよい。

  (ウ)豊臣家

 「智(とも)は実子のいない弟・豊臣秀吉に、長男の秀次を養子として出していた。しかし文禄4年(1595年)、秀次は秀吉と対立し蟄居先の高野山で自害<させられ、>秀次の妻子は三条河原で処刑され、智の夫であり秀次の実父である三好吉房も流刑となった。

⇒姉の実子で自分の養子だった秀次一家に対する、文禄の役と慶長の役の間の時期におけるむごたらしい措置は、秀次が、恐らく、反弥生モードの、後陽成天皇(天皇:1587年~)、と、その祖父で前天皇の(千宗易に利休という居士号を与えた)正親町院(~1593年)、及び、信長流日蓮主義者の近衛前久(~1612年)、の要請を受け、かつまた、唐入りプロジェクトに消極的であったところの、徳川家康や島津家や石田三成、そして、身内にキリシタンが多数いた北政所やキリシタン大名ら、の気持ちも踏まえ、自らの信長流日蓮主義者としての信条にも忠実に、秀吉の秀吉流日蓮主義の実施に消極的抵抗をした(コラム#12328)ことに対して、秀吉が、養父としての自分に対して思想的に反対しただけでなく、太政大臣としての自分の命令に対して消極的抵抗を行った・・朝鮮出兵の秀次は京都における兵站担当、北政所は大阪における兵站担当だった(コラム#省略)・・ことに対して、近親だからこそ憎悪を募らせた結果だ、と、私は見ている。
 (慶長の役直前の1591年に秀吉が千利休を切腹させたのも、利休が秀吉流日蓮主義に基づく朝鮮出兵に反対であったことが理由だと私は見ている(コラム#9381、12054、12328)。
 千利休が出兵に反対したのは、高弟の古田織部を通じて、織部が親交のあった近衛信尹
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I033081833
から、信尹の父で猶子たる秀吉の「父」でもある近衛前久、や、正親町院/後陽成天皇、の反秀吉流日蓮主義の意向が伝えられていたからだと私は想像しており、この2人を恫喝するために秀吉は利休を殺した、と。(コラム#9381))
 他方、「秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、・・・<自分の妻のねねの義兄弟で反弥生モードの浅野>長政・・・<が>「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」と・・・述べた<ので、>秀吉は激怒して刀を抜いたが、長政は平然と「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%94%BF
のに、結局、罰さなかったのは、秀次一族を根絶やしにしたこと等からこれ以上係累を減らすことを秀吉が躊躇したこと、更には、長政が誰に使嗾されたわけでもないことが分かった、からではなかろうか。(太田)

 ・・・智は処刑された子や孫の菩提を弔うために出家し、以前から帰依していた日蓮宗による寺院を建てようとしたところ、文禄5年(1596年)、話を聞いた後陽成天皇より嵯峨の村雲(現・二尊院の北側)の寺地と「瑞龍寺」の寺号・寺領1000石・菊紋・紫衣を賜って創建された。これにより瑞龍寺は日蓮宗寺院で唯一の門跡寺院及び勅願所となり別名を村雲御所と称して、以後、代々皇女や公家の娘を貫首として迎えた。・・・
 <瑞龍寺は、>豊臣秀次の菩提寺でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82) (コラム#14216も参照)

 反日蓮主義的であった後陽成天皇と智の仲介をしたのは恐らく日蓮主義家たる近衛家の近衛前久だろう。
 また、智(瑞龍院日秀)の子で豊臣秀次の弟の豊臣秀勝、と、江(その後徳川秀忠の正室となる)、の間の子であるところの、つまりは、智の孫である豊臣完子(さだこ。1592~1658年)、の血統は、完子の子孫二系統から貞明皇后へと続くこととなる。
 なお、瑞龍寺の歴代門跡中の9世(1778~1868年)と10世(1868~1920年)が伏見宮家出身であって、10世の村雲日栄の場合、伏見宮邦家親王の子で貞明皇后の曽祖父の九条尚忠(ひさただ)の猶子となった上で門跡になっており、
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91%E9%9B%B2%E6%97%A5%E6%A0%84-1114691
(豊臣完子の子孫である)貞明皇后にとって、10世門跡は義理の「大叔母」にあたるが、更に注目すべきは、伏見宮邦家親王の子の閑院宮載仁(ことひと)親王・・村雲日栄は妹で、その前の9世村雲日尊は叔母・・が先の大戦初期の参謀総長(1931~1940年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E8%BC%89%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82) 前掲
また、伏見宮邦家親王の孫の伏見宮博恭(ひろやす)王・・10世の村雲日栄は叔母、9世の村雲日尊は大叔母・・が先の大戦初期の軍令部長(軍令部総長)(1931~1941年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B
をそれぞれ務めたことであり、この両名が、貞明皇后(や西園寺公望や牧野伸顕)の傀儡として、(秀吉流日蓮主義に基づくところの、日蓮主義戦争の最後のフェーズである、)先の大戦を開始するとともに、対米英戦必至の態勢確立、を、それぞれ、陸軍と海軍で行うこととなる。

 (3)本格的日蓮主義戦争の決行

  ア 始めに

 幕末における選択肢は、当時の統治者階級たる武士の観点からすれば、佐幕対尊皇とか公武合体対尊皇攘夷とかではなく、遊牧民系の弥生人的に受け止められていた露、及び、イデオロギー(キリスト教)を尖兵とするゲルマン系弥生人に率いられた欧米、からの脅威にどう対処するか、という観点からの、
一、(欧米・露流)帝国主義:佐藤信淵→平野定臣/吉田松陰→江藤新平(コラム#14220)、と、
二、対露抑止:杉田玄白/工藤平助→林子平…→横井小楠→勝海舟(コラム#14220)/伊藤博文(後出)・・これを私は横井小楠コンセンサスと名付けている(コラム#6579、6581)・・、
三、日蓮主義・・これを私は島津斉彬コンセンサスと名付けている(コラム#9902)・・、
の三択だったのであり、結局、島津斉彬コンセンサスが、横井小楠コンセンサスと帝国主義とを糾合して主導権を握る形で、但し、(欧米の目をくらませる目的もあって)横井小楠コンセンサスをもっぱら掲げつつ、倒幕・維新がなるや、直ちに日本は対欧米・露戦時体制に入るのだ。
 そして、「理念」として日蓮主義を掲げていることを日本国内に浸透させていくための「象徴」として、(島津斉昭、及び/または、徳川斉昭、による)「日」蓮の「日」章旗の国旗としての採用と(恐らく近衛家/薩摩藩による)旭「日」旗の軍用旗としての採用がなされた(コラム#14214、14216)。(後出の囲み記事参照。)
 その後は、先の大戦まで、一瀉千里なのであり、私は、明治、大正、昭和戦前期を通して、日本は、77年間にわたって冷戦と熱戦を繰り返しつつ、一つの日蓮主義戦争(1868~1945年)を戦い、勝利を収めた、という認識なのだ。
 既に、75年間生きてきた私の感覚で言えば、77年など一瞬であり、戦争と休戦とを繰り返しつつ116年続いた英仏間の百年戦争(1337~1453年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
や、同じように、但し英仏間を軸に多数の諸国が巻き込まれたところの、126年続いた第2次百年戦争(1689~1815年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
といった「先例」に比べれば、さほど長いとは言えない。
 それを象徴するのが、先の大戦を除く、全熱戦に参戦したところの、長州藩支藩岩国藩士であった、長谷川好道(よしみち。1850~1924年)の、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、への指揮官としての出征、と、第一次世界大戦における参謀総長としての「従軍」、だ。
 長谷川は、その後、冷戦中の1919年の三・一独立運動の時の(武断政治と称される)朝鮮総督まで務めている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A5%BD%E9%81%93
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
 この戦争の最高指揮官は、大久保利通(1868~1878年)→山縣有朋(1878~1922年)→貞明皇后(1922~1945年)、と、順次バトンタッチがなされていった。
 また、大久保時代に関しては、サブ(1868~1878年)は山縣が、山縣時代に関しては、最初のサブ(1878~1890年)は伊藤博文が、次のサブ(1890(注13)~1904年)は近衛篤麿が、最後のサブ(1904~1922年)は西園寺公望(注14)が、そして、貞明皇后時代に関してはサブは西園寺(1922~1940年)、次いで牧野伸顕(1940~1945年)、が、それぞれ務めた、と、私は見ている。

 (注13)篤麿が欧州留学から帰国したのが1890年、亡くなったのが1904年だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF
 (注14)1903年に、山縣が伊藤を政友会総裁から辞任させた結果、西園寺が政友会総裁に就任している。
 西園寺は、一人だけ残った・・自分で自分を残した!・・形で最後の元老となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
(コラム#12712~12806(一つおき)も参照。)

 どうしてそう言えるかだが、最高指揮官に関しては、大久保は(西郷隆盛と並ぶ)維新の元勲の筆頭だったことから説明を要せず、また、貞明皇后については後述する。
 なお、最高指揮官達が、光格天皇家の監視役として歴代天皇の傍らに送り込んだのが、明治天皇の時は徳大寺実則(さねつね。1840~1919年)・・西園寺公望の実兄であり、1871年から1912年の間、初代侍従長、第2代宮内卿、第6代侍従長、第2代内大臣、と、切れ目なしに務めた・・、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%89%87
大正天皇と昭和天皇(終戦時点まで)の時は大久保利通の子の牧野伸顕・・(1909~1921年の間枢密顧問官を務めていて)1921~1945年の間、宮内大臣(1921~1925年)(その間に帝室経済顧問にも)、内大臣(1925~1935年)、その後も引き続き帝室経済顧問を務めた・・だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/term-en/00000401
 問題は、山縣だ。
 まず、山縣は長州藩出身なので木戸孝允亡き後は当然長州出身者のボス的存在になったことに加えて、隠れ薩摩藩士的な存在であった(コラム#12614、12810)ところ、そのことは薩摩出身者の上澄みは周知していたと思われることから、大久保亡き後は薩摩出身者のボス的存在でもあったことが銘記されるべきだろう。
 一般には、大久保、木戸亡き後は伊藤が最高権力者になったとされているけれど、山縣は伊藤より3歳年上で、下級武士とはいえ武士の子だったのに対し、伊藤は生まれた時点では百姓の子であり、そのこともあってか、山縣と伊藤の青年時代の武術の技量や教養のレベルの違いは歴然としている上、松下村塾時代の2人の知的能力の評価が山縣>伊藤であったこともまた歴然としており、それに加えて、2人の幕末/維新の時の功も山縣が上回っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
以上、この2人の相互間での序列意識がどうであったかは言うまでもなかろう。
 だから、伊藤が最高権力者のように見えた時期があったとすれば、それは山縣があえて伊藤をそういう形で使った、と考えなければならないのだ。
 (なお、歴代のサブ達の中で、伊藤だけは、日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者ではなかった、と、私は見ている。
 しかし、この主義/コンセンサスの存在は内外に対して秘匿しなければならないので、欧米と協調的な伊藤を山縣は見せ金として使ったわけだ。
 西園寺(長期仏留)も牧野(米帰国子女!)も、伊藤よりも更に欧米事情に通じていたこともあり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
どちらもサブの時に伊藤的な役割をも自らこなすことができたが、そのため、日本国内の日蓮主義者の跳ね上がり分子達から誤解され、実際は昭和天皇こそ最大の「奸」であった(後述)というのに、この2人は、「君側の奸」の代表格として、彼らからその生命を狙われ続けることになる。)
 また、近衛篤麿は、近衛家の当主である上に、父忠房が、島津斉彬の祖父斉宣の子にして斉彬の父斉興の養女の子であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%81%E5%A7%AB
かつ、斉彬の養女となった女性、を娶っていて、篤麿がその間で生まれたことになっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E6%88%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF
ところの、しかも、(その子の文麿とは違って)真に優秀な人物だった(上掲)。
 なお、西園寺については、「大正11年(1922年)2月、山縣が病死した<が、>山縣は死の直前に自分の私設秘書であった松本剛吉に、西園寺の元に仕えるよう命じ<ており、>これは山縣が西園寺を後継者と認識していたためであり、以降松本は西園寺の元に政治情報を伝える役割を担うことになった。西園寺自身も「山公薨去後は松方侯は老齢でもあり(中略) 自分は全責任を負ひ宮中の御世話やら政治上の事は世話を焼く考なり」と、山縣の後継者であることを意識していた。以降興津(清見潟)の坐漁荘には、政官界の大物が「興津詣」を行うようになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
ということから、山縣の後継は貞明皇后ではなく西園寺ではないかと思われるむきもあろうが、西園寺は、あくまでも元老として山縣の後継になったにとどまる、というのが私の見方だ。

  イ 島津斉彬コンセンサス

  (ア)前史としての徳川吉宗

 「まだ幼少の島津継豊(つぐとよ,1702-1760)に対して・・・5代将軍・徳川綱吉(つなよし,1646-1709)<から、そ>の養女<・・実態は綱吉の側室の養女・・>である竹姫(たけひめ,清閑寺煕定<(注15)>の娘<、後の浄岸院>)との縁組みのご内意があった<時にも>、島津氏はこの申し出を幼少を理由にいったん拒否した。

 (注15)「元禄14年(1701年)2月には霊元上皇の使者として江戸へ下向し、浅野長矩による吉良義央への殿中刃傷に遭遇した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E9%96%91%E5%AF%BA%E7%86%88%E5%AE%9A

 <しかし、>・・・8代・・・将軍吉宗が側室の子である益之助(島津宗信)を嫡子にして良いと認めたこと、6代将軍家宣の正室・天英院(島津家との縁戚関係にある近衛煕子[・・・ひろこ<(1666~1741年)。>・・・院号は天英院<。>・・・父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・(品宮)常子内親王<であり、>・・・8代将軍に徳川吉宗を指名したのは天英院だとする説がある・・・<なお、>日蓮正宗総本山大石寺の山門(三門)を寄進し<、>また、・・・生前の家宣が・・・帰依していた・・・浄土宗明顕山祐天寺に鐘楼を寄進し<ている>。・・])の強い意向があったことにより、島津継豊は・・・竹姫<(注16)>を正室に迎えることになった。

 (注16)「浄岸院<(竹姫)>は将軍家の養女という立場を大いに利用し、島津家と徳川家の婚姻関係を深める政策を進め、薩摩藩8代藩主・宗信の正室に尾張藩主・徳川宗勝の娘・房姫と婚約させ(寛延元年、輿入れ前に房姫が死去。寛延2年には房姫の妹邦姫と宗信の婚約の話があがったが、今度は宗信が死去)、義理の孫で9代藩主・島津重豪の正室に一橋徳川家の当主・徳川宗尹の娘・保姫を迎えさせている。この婚姻により、島津家と徳川家との縁戚関係が深まっていくのである。・・・
 〈竹姫<(浄岸院)>の最期の仕事は、島津重豪への遺言<であり、>「あなたの娘の茂姫(しげひめ)を、徳川家斉様へ差し上げなさい」というもの<だった>。〉
 浄岸院やその他のこれらの婚姻の結果、外様であった薩摩藩の幕府に対する発言力が大いに増すこととなり、幕末に薩摩藩が台頭する大きな要因の一つになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%B2%B8%E9%99%A2 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%86%99%E5%AD%90 ([]内)
https://bushoojapan.com/jphistory/edo/2023/12/04/36163/2 (〈〉内」)(基本的にコラム#9902に拠る)

⇒この成行は、将軍家における将軍たる(日蓮主義家の)紀州徳川家出身の徳川吉宗と大奥の長たる(日蓮主義家の)近衛家出身の(日蓮宗信徒の)天英院が結託して、竹姫(浄岸院)を使って将軍家と島津氏/近衛家とを結び付けることにより、将軍家の日蓮主義家化を図ったもの、と、私は捉えている。(太田)

 「「『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱った<ところ、>北朝の天皇についての扱いについても議論となり、当初北朝天皇を「偽主」として列伝として扱う方針を採っていたが、現在の皇室との関連もあり、後小松天皇の本紀に付記する体裁に改めたという。
 だが、光圀が生前に望んでいた『大日本史』の<北朝系である>朝廷献上は困難を極めた。・・・1720年・・・、水戸藩から『大日本史』の献上を受けた将軍徳川吉宗は、朝廷に対して刊行の是非の問い合わせを行った。当時博識として知られた権大納言一条兼香(後、関白)はこの問い合わせに驚き、北朝正統をもって回答した場合の幕府側の反応(三種の神器の所在の問題)などについて検討している(『兼香公記』享保6年閏7月20日条)。この議論は10年余り続いた末に、・・・1731年・・・になって現在の皇室に差しさわりがあることを理由に刊行相成らぬとする回答を幕府に行った。だが、吉宗は同書を・・・3年後<の1734年>に独断で刊行を許可した・・・。
 <なお>、水戸藩<自身>も不許可回答の翌年である・・・1732年・・・に江戸下向中の坊城俊清に同書を託して朝廷への取次を要請し<ている>。
 <結局、>これが嘉納されたのは実に69年後の・・・<徳川家斉が将軍の時の>1810年・・・のことであった。」(コラム#12170)

⇒吉宗の将軍就任(注17)によって、日蓮主義家である御三家に加えて、ついに将軍までもが日蓮主義者になったわけだが、依然、幕臣達のほぼ全員は非日蓮主義者、で、親藩の大部分は非日蓮主義藩であったところ、まず、吉宗が行おうとしたのが、御三家の中で最も筋金入りの日蓮主義家であった水戸徳川家と組んで、日蓮主義総本舗であったところの南朝の南朝正統史観を日本の公定史観として確立することであり、当然、北朝系の朝廷の反発をくらったが、その反発を無視して、吉宗は、南朝正統史観の幕府史観化を強行したわけだ。

 (注17)「家継が危篤に陥ると、将軍候補は和歌山藩主・徳川吉宗と、名古屋藩主・継友の2人に絞られた。継友は吉通と同じく、将軍家に最も近い血筋であった。しかも、関白太政大臣・近衛家熙の次女である安己姫と婚約していた。安己は大奥の実力者・天英院(近衛熙子)の姪であり、姉・近衛尚子は、中御門天皇の女御になることが決まっていた。間部はじめ家継の幕閣たちは、継友に従四位下・左近衛権少将・大隅守という官位を与えており、継友は大奥からも幕閣からも、そして朝廷からも推されているように見られた。ところが、天英院は姪が嫁ごうとしている尾張家の継友ではなく、紀伊家の吉宗を指名し、第8代将軍は吉宗になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%99%E5%8F%8B

 (「注17」を踏まえれば、吉宗から天英院(近衛熙子)に『大日本史』の幕府公定史観化を行う意向を伝え、それを喜んだ天英院が、自分の血筋よりも自分の理念を重視して吉宗を将軍に指名した、と、見るのが自然だろう。
 なお、前述したように、私は、そもそも『大日本史』を徳川光圀に編纂着手させたのは、その正室の近衛尋子(ちかこ。1638~1659年)であると考えているわけだ)。)
 「徳川吉宗が、1731年(享保16年)に次男の宗武(田安家初代)へ、1740年(元文5年)に四男の宗尹(一橋家初代)へそれぞれ江戸城内に屋敷を与え<、>・・・御両典(甲府家・館林家)の例に倣い、2人を指して「御両卿」(ごりょうきょう)と呼んだ<・・>その後、吉宗の長男で第9代将軍となった徳川家重が、1759年(宝暦9年)に次男の重好(清水家初代)へ屋敷を与え<たことで、>「御三卿」の体裁<を>整<え>た<のは、>・・・将軍家に後嗣がない際は後継者を提供したほか、御三家をはじめ他の大名家へも養子を提供する役割を果た<させる>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%8D%BF
ため、とされているが、それは、養子を、将軍家の権威を嵩に親藩を中心にゴリ押し的に送り込むことで、非日蓮主義藩を日蓮主義藩に「転向」させることが最大の狙いだった、と、私は考えるに至っている。
 その一方で、幕臣達に関しては、彼らを、日蓮主義者へと「転向」させることよりも、その弥生性を消滅させる策を模索したように思われる。
 それにより、将来、島津家/近衛家、が、日本が日蓮主義完遂戦争体制構築を図った時に、幕府が簡単に倒れるように、と。
 その証拠が、武芸奨励策をとったように見せかけつつ(注18)、吉宗本人はあえて武芸を怠るという高等戦術をとり、むしろ幕臣達の武芸を磨く意欲を削ぎ、その弥生性を減退させることによって彼らの無害化を図った、とみられることだ。

 (注18)「享保改革に於いて為された主な武芸奨励策を列挙すると以下の通りである。
・武芸上覧(現役の武官-旗本クラス-に対して)
・武芸吟味(旗本の子弟に課された登用試験)
・武芸見分(現役の武官-御家人クラス-に対して)
・狩猟の復活
・射礼の研究・復活
・西洋式・唐式馬術の研究」
http://www.initiative.soken.ac.jp/journal_tokusyuu/pdf/kokusai_nihon/yokoyama.pdf
 しかしながら、本来、武芸振興を図るのであれば、そのための教育訓練機関を設けるべきだが設けていない以上、武芸に係る潜在能力や実力を試験して登用するのが狙いであるはずの武芸吟味がまともに機能する筈がない。
 吉宗自身は、(狩猟を好んだことを除き、)武芸、兵学へのまともな関心を全くと言っていいほど示さなかった。(コラム#9669)(注19)

 (注19)「吉宗<が、>弓術を好み、故実に沿った諸式の復興を主導し<、例えば、>・・・弓術儀式である弓場始<を>・・・再興し<、>・・・田安家でも伝え興行することを言いつけ・・・た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%AD%A6
ことや、五代将軍綱吉が廃止した鷹狩の享保2(1717)年における復活、や、享保10、11(1725、1726)年における鹿狩の実施、をしたことについては、前者は鷹が獲物をしとめるわけだし、後者は鹿や猪を追い詰める目的で空砲も使用するものの、しとめるのは騎馬の武士が槍で行い、一度は吉宗自身も槍をふるった、
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjK8fijnKCHAxVnk1YBHY2_ASIQFnoECA4QAQ&url=https%3A%2F%2Fnichibun.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F425%2Ffiles%2Fnk50004.pdf&usg=AOvVaw3_UhqhobYanUm3yShCB71j&opi=89978449
といったことは、ことごとく、古式を復活保全する文化事業の域を越えない。

 また、「キリスト教関連以外の書物に限り洋書の輸入を解禁とした。これにより、長崎を中心に蘭学ブームが起こった。・・・
 海防政策としては大船建造の禁を踏襲しつつも下田より浦賀を重視し、奉行所の移転や船改めを行い警戒に当たった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97
といった具合に、日蓮主義者にとって最大の敵となりつつあったところの、西欧について学ぶことを、日本全国に対して勧めると共に、学ぶ目的が西欧に対して軍事的に対処できるようにすることであることを宣明した、というわけだ。
 (なお、吉宗の1751年の死を受けて親政を開始していた将軍徳川家重の時
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%87%8D
の1756年の、若い公家達の働きかけによるところの、大義名分論者の竹内式部による桃園天皇へのご進講、等を受けての1758年のこの竹内が重追放に処せられた宝暦事件、そして、1757年に「朱子学的大義名分論に貫かれ,尊王斥覇思想によって幕藩体制下の政治・経済・社会状況を激しく批判し<た>・・・柳子新論」が山県大弐によって書かれ、
https://kotobank.jp/word/%E6%9F%B3%E5%AD%90%E6%96%B0%E8%AB%96
家重の子の将軍徳川家治の時の1767年にその山県が謀反の共犯として死罪に処せられたところの、明和事件、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%92%8C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
が出来したのは、上記吉宗による『大日本史』の1734年の刊行許可の影響もあるのではなかろうか。)

  (イ)島津重豪/徳川家斉

 私見では、徳川家斉(1773~1841年)が日本を統治した時代が、日本の戦前史の始まり・・本格的日蓮主義戦争準備時代・・なのだ。
 一般にはこの時代は不景気の時代だったと言われる。↓

 「文化14年(1817年)に・・・老中首座<の>・・・松平信明・・・が死去すると、家斉は老中首座に水野忠成らを任命する。この時期、金の含有量を減らした文政小判の発行など8度に及ぶ貨幣改鋳や、農村の治安維持対策としての文政の改革(1827年~1829年)が行われた。財政支出の増加により大量の貨幣が市場に投下されたことで、物価の持続的な上昇と共に、貨幣経済が農村にまで進展した。一方、幕政の緊張が緩み賄賂政治・放漫財政が黙認されたため「水の(水野)出て もとの田沼に なりにける」と風刺された。将軍家斉の奢侈な大奥生活も、社会の退廃的風潮を促進し、幕府の財政や政治に影響をもたらしたとされる。・・・
 <同時に、>異国船打払令を発するなどたび重なる外国船対策<も行われた。>・・・
 一般に江戸時代の経済はバブル期の如き江戸初期や元禄などの高度経済成長時代から享保を境に低成長時代へと移り変わったと言われる。
 大御所時代<(文化文政時代)>に関しても寛政の改革や寛政の遺老の時代のみならず、その後の水野忠成の時代になっても同時代に生きた人間の感覚として当時は不景気であった。水野忠成の時代の作である津田敬順の「十方庵遊歴雑記」には、「時節下り不景気といへど、花の江戸と余国に賞するも宣なり」とあり、少なくとも文政年間に成立したこの書の時期には江戸市民の間で当世は不景気という認識があったことがうかがえる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E6%89%80%E6%99%82%E4%BB%A3

 しかし、江戸ではそういう認識だったかもしれないが、全国的にはその逆だったのであり、この結果、日本は、欧米以外の世界では、相対的に高度経済成長を開始することができた。↓

 「西欧諸国からは・・・英国のほか8カ国が,アジアからは旧文明国のトルコ,エジプト,イラク,インド,中国の5カ国が選ばれ<て、超長期一人あたりGDPの推移比較を行っ>た<結果は次の通り>.
 日本の一人あたりGDPは,古代前半は中東地域の半分,後半に中東地域に近接した後に停滞した.
 17世紀以降に諸国の序列が変化する中で,上位となった西欧諸国の半分以下に日本はとどまっているが,トルコ・インドとはほぼ同水準となった.18世紀に英国が急成長し,産業革命が波及したドイツとベルギーも高成長を遂げた.この時期,凋落傾向にあった旧文明国に日本は追いつき,追い越した.
 日本は当初,14カ国中の最貧国だったが,江戸時代にはアジア諸国を凌駕した.これはアジアでも「近世の期間に小分岐がおこっていた」ことを意味する.しかし,それは徳川後期の農村工業発展による経済成長と西欧諸国の干渉や国内統治の問題に起因するもので,日本が英国のように急成長したわけではない点に注意が促されている.日本が西欧諸国へ追い付くのは,プロト工業化と「農村経済の商業的発展による市場の発達」からなる「前近代型工業化」脱却後のことであるとした.」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjV8_Lo_OaGAxWKjK8BHStlAic4FBAWegQIBBAB&url=https%3A%2F%2Frepository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp%2Frecord%2F53612%2Ffiles%2Fecon0820405.pdf&usg=AOvVaw1XsOFLsGjeOBh0TW5v2k_n&opi=89978449
 すなわち、日蓮主義に基づく日本の富国強兵政策は、文化文政時代に始まったのだ。
 また、重豪/家斉は、吉宗の始めたところの、幕臣の無害化政策を再開した。
 家斉は吉宗のひ孫だが、吉宗の孫の「松平定信が老中となると、・・・寛政2年(1790年)5月24日に大学頭林信敬に対して林家の門人が古文辞学や古学を学ぶことを禁じることを通達し、幕府の儒官である柴野栗山・岡田寒泉に対しても同様の措置を命じた。更に湯島聖堂の学問所における講義や役人登用試験も朱子学だけで行わせた。また、・・・荒廃していた湯島聖堂の改築を行った。寛政4年(1792年)9月13日には旗本・御家人の子弟を対象として朱子学を中心とした「学問吟味」を実施させた。
 寛政5年(1793年)4月に定信主導の学制改革に必ずしも協調的とは言えなかった大学頭林信敬が嗣子の無いまま急死すると、幕府はその養子縁組にも介入し、譜代大名松平乗薀の子である乗衡を養子として送り込み、林家の湯島聖堂への影響力を抑制した。そして同年7月の松平定信の老中辞任後も将軍徳川家斉の意向によってこの政策は継承され、湯島聖堂から学問所を切り離して林家の運営から幕府直轄の昌平坂学問所に変更した。寛政11年(1799年)11月には定信時代からの懸案であった湯島聖堂の改築が完成し、以前よりも敷地・施設よりも大規模なものとなった。享和元年(1801年)4月20日には将軍徳川家斉が徳川家宣以来絶えていた湯島聖堂参詣を行い、ここに定信の正学復興の意図はほぼ完成した。
 ただし、「寛政異学の禁」の本来の趣旨は昌平坂学問所などの幕府教育機関における異学の講義を禁じることを意図しており、国内の異学派による学問や講義を禁じられたわけではない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E7%95%B0%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A6%81
 まず、寛政異学の禁止についてだが、家康の当時から、「封建的身分秩序を,永久に維持するために,君臣の関係の絶対性を強調する朱子学が特に武士階級の倫理として主張された<ところ、>江戸後期,・・・大義の内容が変わり幕政批判の目的から皇室の尊厳を強調,幕末の尊王攘夷運動の思想的背景となった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%BE%A9%E5%90%8D%E5%88%86%E8%AB%96-90982
とされているけれど、重豪/家斉は、そう遠くない将来に開始されることが期待される本格的な日蓮主義戦争を日本が遂行するためには、それまでに、その日本を中央集権国家にしなければならない、との認識の下、かかる中央集権化「革命」に対する抵抗勢力となる恐れがあるところの、幕臣達、の無害化を図るために、幕臣達の間ですら流行らなくなっていた朱子学を再活性化して幕臣に注入することで、尊王、すなわち日本では、尊皇、の意識を彼らに叩き込もうとして異学の禁を打ち出した、と、私は考えるに至っている。 
 「朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行<った>」(注20)(コラム#12456)こともその一環であると同時に、昌平坂学問所でも学問吟味でも、武の要素を完全排除することによって、幕臣達を文官化=縄文人化することによって、彼らの徹底的な無害化を図った、とも。
 
 (注20)「幕臣の教育振興と人材発掘を兼ねて、寛政の改革の一環として寛政4年(1792年)に初めて行われ、同6年(1794年)の第2回学問吟味において制度が整備され、以後、概ね3年に1度の頻度で実施されるようになり、慶応4年(1868年)までの間に19回実施された。試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に気風を行き渡らせることであったが、慣行として惣領や非職の者に対する役職登用が行われたことから、立身の糸口として勉強の動機付けの役割も果たした。・・・
 初場(予備試験)と本試(本試験)に分かれ、「初場」で四書五経や小学の試験を行い、合格者が「本試」に進み、「経義科」「歴史科」「文章科」の試験を受け、試験は数日間にわたって行われた。「経義科」では指定された箇所の解釈と講義、「歴史科」では和解(漢文の和訳)や歴史上の政事や人物に関する問目(論評)、「文章科」では論・策(時事を論じ方策を述べる)が出題された。評価は、及第として、上から「甲科」「乙科」「丙科」、及び落第の4段階に総合評価され、甲科と乙科には、褒状と褒美の金品が、丙科には褒状のみが授与された。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%95%8F%E5%90%9F%E5%91%B3

 私は、以上のような家斉の政策は、ことごとく、岳父たる島津重豪(1745~1833年)の薫陶の下で行われたと考えている。
 最後に、家斉の日蓮主義者としての無双ぶりに触れておこう。
・「<秀吉の唐入り出兵の際、朝鮮が歯向かったためと思われるが、文化8年(1811年)に>・・・家斉の将軍職就任を祝賀して派遣された朝鮮通信使が、江戸時代最後の朝鮮通信使となった<上、>対馬での応接にとどめ、江戸へ招かなかった。」(コラム#12156)
・文化7年(1810年)に日蓮主義/南朝正統史観に基づく『大日本史』を朝廷に嘉納させた。
 これは、光格天皇がとりわけ北朝正統論に与していた可能性が高いこと、や、近衛家の近衛基前が内大臣でしかなかったこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%89%8D
等を勘案すれば、画期的なことと言えるが、時あたかも、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)の、ロシアのレザノフによる文化露寇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E9%9C%B2%E5%AF%87
に心を痛めていた光格天皇に対し、家斉が、『大日本史』を嘉納してくれれば、爾後、国際的事件が発生した際には、朝廷にも状況説明をする、という、画期的なバーター的約束をしたおかげではないか、と、私は推測している。
 (幕府は、朝廷に対して、翌文化8年(1811年)、「ゴローニン事件の際に・・・交渉の経過を報告」している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 )
・「<文政8年(1825年)に>異国船打払令を発するなどたび重なる外国船対策として海防費支出<を>増大<させた。>」(コラム#12156)
・「文政10年(1827年)太政在院年数が40年になった<として、家斉は>自・・・から朝廷に働きかけ<て>・・・太政大臣に任じられ<た>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89 前掲
ところ、これは、同じく太政大臣に任じられているところの、非日蓮主義者であった家康や秀忠ではなく、日蓮主義戦争を決行した豊臣秀吉、に倣おうとしたものであると私は見ているところ、当時、近衛忠熈は内大臣に過ぎなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95
が、彼の正室の祖父である島津重豪
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%81%E5%A7%AB
の働きかけを受けて、忠熈が、重豪の娘婿たる家斉の太政大臣任官に尽力したからこそ、この家斉の、家康、秀忠以来
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%A4%A7%E8%87%A3
の異例の大願を成就させるできたに違いない。
・非日蓮主義者であった家康を軽蔑したためだと思われるが、家斉は、「その生涯で一度も日光社参<を>しなかった。」(コラム#12156)

  (ウ)島津斉彬/徳川慶喜

 私見では、島津斉彬(1809~1858年)の薫陶の下で徳川慶喜(1837~1913年)が徳川幕府を終焉に導き、島津斉彬コンセンサスに導かれた日本の本格的日蓮主義戦争が開始されたのだ。
 島津氏には、初代の島津忠久が源頼朝の落胤であって、清和源氏の嫡流であるとの意識がもともとあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E8%88%88
ところ、島津斉彬は、その母の弥姫(いよひめ)を通じて、「徳川家康、伊達政宗、織田信長、毛利元就らの血を引いている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%A7%AB
(但し、既述したように、父方からも家康の血を引いている)ことから、日本の縄文的弥生人の精華中の精華としての自負を持っていたと考えられる上、もちろん、日蓮主義家/氏であるところの近衛家/島津氏、の嫡子、としての自負も併せて持っていたと考えられる。
 その斉彬は、1851年に、最後は、老中阿部正弘、ということは、徳川家斉の子の将軍家慶、の手を煩わせる形でようやく薩摩藩主に就任すると、1853年に、「養女である篤姫<近衛敬子(すみこ)=天璋院)>とともに、現在の日蓮正宗総本山大石寺・遠信坊(静岡県富士宮市)の檀越とな<り>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC
藩内外に、自分が日蓮主義者であること、藩が日蓮主義藩であることを宣言した。
 そして、その同じ1853年に、乱暴な黒船来航があり、これこそ日蓮主義「革命」の契機たりうる待ち人来る、と、斉彬、そして、阿部や斉彬や斉昭ら、日蓮主義者達は小躍りして喜んだに違いない。
 ペリー退去後、将軍家慶が死去し、行為無能力者に近い家定が後を継いだが、阿部は、(斉彬や斉彬と相談の上だろうが、)大名、旗本、庶民に至るまで外交についての意見を求めることで、危機意識を全国に浸透させ、日蓮主義「革命」の口火を切った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA ←事実関係
 これが幕府の地盤沈下につながると反発する親藩の大名達や幕臣達の声を背景に、阿部が1857年に死去すると、井伊直弼らが半ばクデーター的に幕府の実権を握り、翌1858年には勅許なしで日米修好通商条約に調印し、家定の後継に慶喜ではなく家茂を立て、更に日蓮主義者らの弾圧を開始するが、この禍機に斉彬が死去してしまったために、日蓮主義者達は、打撃を受けつつも、1860年、桜田門外の変で直弼の暗殺に成功する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%BC%BC
 そして、倒幕/維新が、島津斉彬の遺志の手順と方法に従って、薩摩藩主導で、それに徳川慶喜らが「協力」する形で行われることになる。↓

 「1858年<の>・・・斉彬の死・・・以降の薩摩藩の行動は<、>斉彬の遺志継承の名の下に進められ<、>久光の率兵上洛も<、>有馬新七の挙兵計画も,そして・・・武力討幕<も、>決定されたのだった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC-18466 前掲
 水戸徳川家も日蓮主義家であるところ(既述)、実は、この斉彬による倒幕計画に積極的に協力したのが、徳川斉昭、慶喜父子なのだ。
 それを、直接的に象徴するのが斉彬による慶喜の将軍就任工作だし、間接的に象徴するのが、備前岡山藩の池田氏の養子となって藩主となった(島津重豪の孫で中津藩出身の)慶政のこれまた養子となって藩主となった(慶喜の異母弟の)茂政だし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%8C%82%E6%94%BFhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%85%B6%E6%94%BF
斉彬の母の弥姫の出身の因幡鳥取藩の池田氏の養子となって藩主となった(慶喜の異母弟で茂政の同母兄の)慶徳だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%85%B6%E5%BE%B3

 しかも、斉彬は、倒幕/維新は何のためものなのかも、幕府宛の建言書の中で間接的に示していた。↓

 「斉彬<は、>・・・安政5年(1858)5月の建言書<で>・・・冷徹に現実を直視した結果、積極的で過激な攘夷論を一時凍結し、むしろ通商条約を容認する立場を取った。その利益をもって海軍を興し、十分な戦闘・防衛態勢を整えた上で大海に打って出るとしながらも、欧米列強には敵わないこの段階で、唯一導くことができた未来攘夷を志向した」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/80795
 「斉彬は<こ>の幕府への建言書を久光に<も>見せ<ている。>」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC%E3%81%A8%E7%88%B6-%E6%96%89%E8%88%88%E3%81%A8%E3%81%AE%E7%A2%BA%E5%9F%B7-%E7%95%B0%E6%AF%8D%E5%BC%9F-%E4%B9%85%E5%85%89%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%A8%E3%81%AF-%E5%98%89%E6%B0%B8%E6%9C%8B%E5%85%9A%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E9%AB%98%E5%B4%8E%E5%B4%A9%E3%82%8C-%E3%81%8A%E7%94%B1%E8%89%AF%E9%A8%92%E5%8B%95-%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8/ar-BB1mOQLd

 それに加えて、「十分な戦闘・防衛態勢を整え」る手段に至っては、斉彬は、藩主に就任する前から主張していた。↓

 「藩主就任前<から、>島津斉彬は、日本の植民地化を憂慮して軍事力強化の重要性を唱え、富国強兵、殖産興業をスローガンに藩政改革を主張していた<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E6%88%90%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E6%A5%AD 

 そして、その四半世紀後、下掲が上梓され、以上の相当大きな部分、や、余り知られていなかった部分、について、関係者に周知させる措置がとられた。↓

 「幕末の薩摩藩主で、名君とうたわれた島津斉彬が残した言葉を、側近として仕えた藩士・市来四郎が編述して明治17<(1884)>年に<『島津斉彬言行録』として出版し・・・た。」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=1c74ab0cdb3731a6JmltdHM9MTcxNzExMzYwMCZpZ3VpZD0zYjc0MjA5My02MjhlLTYxNmQtM2M0OS0zNGRkNjM2NDYwZGYmaW5zaWQ9NTAwNw&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=3b742093-628e-616d-3c49-34dd636460df&u=a1aHR0cHM6Ly93d3cuYW1hem9uLmNvLmpwLyVFNSVCMyVCNiVFNiVCNCVBNSVFOSVCRCU4QSVFNSVCRCVBQyVFOCVBOCU4MCVFOCVBMSU4QyVFOSU4QyVCMi0lRTUlQjIlQTklRTYlQjMlQTIlRTYlOTYlODclRTUlQkElQUItMjMtMS0lRTUlQjMlQjYlRTYlQjQlQTUtJUU2JTk2JTg5JUU1JUJEJUFDL2RwLzQwMDMzMDIzMTE&ntb=1

 何度でも言うが、私見では、薩摩藩士や(山縣有朋や福澤諭吉(後出)のような)隠れ薩摩藩士達、及び、彼らによって登用された人々、並びに近衛家を中心とする五摂家の人々の多く、は、かかる、島津斉彬コンセンサスを完遂すべく、日蓮主義戦争を冷戦期と熱戦期を繰り返す形で戦い抜き、完遂したのだ。

  ウ 本格的日蓮主義戦争第一フェーズの様相

  (ア)四民平等

 「四民平等<は、>・・・明治政府の開明性を主張するスローガン<であり、>従来の士農工商の身分差別を廃し,1870年平民の苗字(みょうじ)許可,1871年平民と華族・士族間との通婚を許し,1872年学制を制定して国民皆学を布告し,職業や移転の自由を認めるなど,封建的身分制による差別を廃し,国民すべてが平等であるとした。・・・
 〈四民平等〉が下から獲得されたもの,人権尊重の意識に根ざすものでなく,支配層の富国強兵策,文明開化政策の一環であった<。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%B0%91%E5%B9%B3%E7%AD%89-523901
とされるが、このような解説は誤りであり、明治新政府の四民平等観は、欧州における四民平等観と同じなのだ。
 この四民平等を推進したのは板垣退助だった。
 (引用の最終センテンスに注目。)↓

 「幕末期の段階で開国派・攘夷派を問わず、富国強兵の必要性については共通の認識が確立していた<。>・・・
 明治3年閏10月24日(1870年12月16日)、高知藩の大参事となった板垣退助は、国民皆兵を断行するため海路上京し、11月7日(1870年1月7日)、「人民平均の理」を布告する事を太政官に具申。その許可を得て12月10日(太陽暦1月30日)高知に帰り、12月24日(太陽暦2月13日)山内豊範の名をもって全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し、四民平等に国防の任に帰する事を宣した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%9B%BD%E5%BC%B7%E5%85%B5

⇒「大村や西郷従道、山縣有朋・・・らは、早くから「国民皆兵」の必要性を唱えていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E4%BB%A4
ことから、これは、山縣との連携プレーだったと言えよう。
 これを受け、「1871年1月3日(明治3年11月13日)に山縣有朋の構想のもと、徴兵規則が制定され、各府藩県より士族・卒族・庶人にかかわらず1万石につき5人を徴兵することを定めた。続いて翌1871年4月2日(明治4年2月13日)には、西郷・板垣の構想を取り込む形で三藩(薩摩・長州・土佐)の軍が親兵として編成され、この兵力を背景に同年旧暦7月廃藩置県が断行された。・・・西郷隆盛も最終的には山縣の考え方を支持して、山城屋事件で山縣が辞職に追い込まれた後も、西郷は桐野利秋らの反対論を退けた。1872年12月28日(明治5年11月28日)に徴兵告諭(明治5年11月28日太政官布告第379号)が出され、翌1873年(明治6年)1月10日に徴兵令が施行<された>。」(上掲)
 板垣は、1866年末以来、西郷隆盛らの薩摩藩士らと、江戸におけるテロ活動を含め、行動を共にしており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9
下掲からも分かるように、彼らの島津斉彬コンセンサスを完全に抱懐するに至っていたと見てよい。↓
 「幕末<(1867年)>に締結した薩土密約で<板垣と西郷隆盛の>2人は顔を合わせ、手を握っています。密約ということからも伝わってきますが、これは藩として正式なものではなく、板垣退助が個人で結んだ約束です。そのような約束を西郷は信じ、そして板垣は実際約束を果たしました。この一件だけでも、かなり強い信頼関係がふたりにはあったのではないかと感じます。岩倉具視使節団が外遊している間、留守政府を守った中心人物が西郷隆盛と板垣退助でした。」
https://meiji-revolution.com/taisuke-itagaki-922 (太田)

  (イ)家制度と身分制度

   ・家制度

 明治の家制度は、紆余曲折を経て、それを盛り込んだところの、民法の親族編、相続編が1998年6月に公布され、7月に施行され、確立した。
 一般には、この家制度は、単なる激変緩和措置だとされてきた。↓

 「前近代における「家」は、あたかも莫大な権利義務を有する法人のようなものであった。家長個人は権利義務の主体ではなく、家の代表者として強大な権利を行使するかわりに、家産・家業・祭祀を維持する重い責務を負う存在にすぎなかった。ところが明治維新によって職業選択の自由が確保されると、このような生活モデルは崩壊する。諸外国の例を見ても、家族制度が徐々に崩壊して個人主義へ至ることが歴史の必然と思われたが、かといって未だ慣習として根付いている以上、法律をもって強引に無くすことも憚られた。そこで、近い将来の改正を前提とし、所有権と平仄を整え、戸主権の主体を家ではなく戸主個人としたうえで家産を否定し、戸主の権限を従前よりも大幅に縮小する過渡的な暫定規定を置くこととしたのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E5%88%B6%E5%BA%A6

 しかし、以前(コラム#14266で)示唆したように、この家制度は、それまでの庶民の家制度を捨て、それまでの武家の家を若干庶民の家に片寄せる形のものを定めた、ということに注目すべきだろう。↓

 「跡取りは普通は息子、長男だけとは限らず、家業継承との関連上、適任者が選ばれ、かならずしもつねに息子に譲るとも限らないのが庶民の家であり、跡取り娘に有能な婿をとり次代家長夫婦とすることも、ことに実力を重んずる町家ではまれではなかった。父系による家系相続や長男相続を重視する儒教や武家の規範からみれば反則とされた庶民の家の、このような柔軟性に富む方法を、武家や儒教の家系継承の観念からみて、尊重するに足りない劣った慣習だとみなした明治政府は、父系長男相続を民法に定め、以後国民全体の守るべき「家=家族制度」とした。ただ、息子のいない場合、娘に婿養子をとり次代家長とすることは認められた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B6%28%E3%81%84%E3%81%88%29-1503281

 すなわち、日蓮主義者が率いる明治新政府は、庶民たる男性達に対して、武士の家父長としての生き様を身に付けるように促すことが、庶民を本格的日蓮主義戦争に動員し易くなる、と、考えた、と、私は見るに至っている。

   ・身分制度

 「明治2年(1869),版籍奉還に伴い公卿・大名は華族,武士は士族とされた。 当初は両者ともに苗字帯刀や家禄といった特権を有していたものの,政策によりそれらは次々と奪われた。華族は,明治17年(1884)に華族令が制定されたことにより皇室の藩屏として数々の特権が付与され,勲功があった士族・平民も叙爵されることによってその身分になれる制度が整備された。一方,士族は明治15年(1882)に閏刑<(じゅんけい。「武士・僧侶など特定の身分の者、または婦女・老幼者・身障者などに対して、本刑の代わりに科した寛大な刑。律令制のもとでは、官吏の免官、僧侶の還俗げんぞくなど。江戸時代には、武士の閉門、婦女の剃髪ていはつなど。」
https://kotobank.jp/word/%E9%96%8F%E5%88%91-78583 )>が廃止されたことで特権を消失したものの,戸籍上に族称として残存し履歴書・宿帳・願書などに記載を求め<られる>・・・という形骸化した<形で、新憲法成立に伴う廃止まで>80年近くも存続した」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwii99XWhOKGAxUeklYBHWEjBYYQFnoECD8QAQ&url=https%3A%2F%2Fmeiji.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F4478%2Ffiles%2Fsundaishigaku_174_139.pdf&usg=AOvVaw0hla1OL5OZ-02P8R_v4sn_&opi=89978449 ※
とされ、この身分制度・・「族称は家の階級に対する称呼である」(上掲)ことから、家制度と身分制度は表裏一体の関係にある・・もまた、一般には単なる激変緩和措置だとされてきた。
 しかし、江戸時代においては軍人(武士)ではなかったところの、皇族は軍人にならなければならないとされた。↓
 「「皇族男子はすべからく軍人たるべし」との方針(皇族海陸軍従事の令。明治6<(1873)>年<・・山縣有朋が陸軍大輔の時、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
・・>)のもと、戦前の皇族男子のほとんどは海兵、陸士のいずれかに進み、旧大名や公卿、明治以降の勲功者などからなる、当時の貴族である華族たちの多くも、それに倣った。」
https://gendai.media/articles/-/69452
 旧貴族や大名達からなる華族も倣わざるを得なかった、というわけだ。↑
 しかし、自分達の元々の殿様達たる華族が軍人になるのなら、元武士であった士族達の多くも軍人を目指さざるを得ない。
 だから、「日露戦争時における陸軍の軍人・軍属は約半数が士族であ<り、>・・・
 建軍世代が退いた大正11 年(1922)に至っても士族が陸軍全体の約4割を占め<た>・・・<<。ちなみに>,大正12年(1923)以降は,軍人・軍属の総数を族称別に統計することがなくなった。>」(※)のは当然だろう。
 ロシア兵の戦死者数を上回る戦死者数を出して日本軍が旅順を陥落させた旅順
攻囲戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6
の際の日本軍の兵士達の決死の戦いぶりに、信じられない思いで畏怖に近い畏敬の念を抱く戦後日本人は私に限らないだろうが、それは、彼らの半分が、今や絶滅してしまったところの、縄文的弥生人たる武士達であって、残りの半分も彼らに感化された人々であったからこそなのだ。
 まさに、こういうことを意図して、明治新政府を率いた日蓮主義者達は身分制度を作ったのだ、と、私は見るに至っている。

  (ウ)国会開設

 「板垣は率先して征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。
 これに激憤した板垣は西郷隆盛らとともに下野。世論もこれを圧倒的に支持し、板垣・西郷に倣って職を辞する官僚が600名あまりに及<んだ。>・・・
 野に下った退助は五箇条の御誓文の文言「広く会議を興し、万機公論に決すべし」を根拠に、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、明治7年(1874年)1月12日、同志を集めて愛国公党を結成。<同じ土佐藩出身の>後藤象二郎らと左院に『民撰議院設立建白書』を提出したが時期尚早として却下される。・・・
 そのため、地方から足場を固めるため、高知に戻り立志社を設立。さらに、全国組織に展開を図り大阪を地盤として愛国社の設立に奔走。その最中、明治8年(1875年)、「『国会創設』の活動を行うならば、下野して民間で活動するより、参議に戻って活動した方が早い」との意見もあり、2月に開催された大阪会議により、3月に参議に復帰した。
 参議復帰後の板垣退助は、明治8年(1875年)4月14日、明治天皇より「立憲政体樹立の詔」を得るなど、一定の成果を見た。・・・

⇒板垣が島津斉彬コンセンサス信奉者であったこと、また、何故、彼が国会開設を唱え、自由民権運動を起こしたか、が腑に落ちるのが、下掲から伺えるところの、彼の欧米に対する怒りだ。↓
 「洋行中には板垣は宿願であったスペンサーとの会見を実現したが、・・・板垣が「白色人種の語る自由とは、実質としては有色人種を奴隷の如く使役した上に成り立ってる自由であり、これは白人にとって都合の良い欺瞞に満ちた自由である」と発言したことに対して、スペンサーは、「封建制をようやく脱した程度の当時の未だ憲法をも有していない日本が、白人社会と肩を並べて語るには傲慢である」と論を退け、板垣の発言を「空理空論」となじり、尚も反論しようとする板垣の発言を制し[要出典]「NO、NO、NO…」と席を立ち喧嘩別れとなったとしている。・・・<また、>帰国した<時、>板垣は・・・フランスという国は一言でいうならば非常に野蛮な国家である。表向きは自由や平等を標榜しながら、実際には世界中に殖民地を有し、有色人種を使役して平然とし、世界の貴族階級であるかのように振舞っている。かれらが「天は人の上に人を作らず」と唱える自由と平等は、白色人種にだけ都合の良い自由と平等であると言えまいか。私はこのようなことであっては決してならないと考えるのである。私が維新改革を憤然決起して行った理由は、かの国(フランス)に於ける革命主義の如き思想に出でたるものに非ずして、尊皇主義に徹した結果である。しかるに昨今は、西洋の主義に幻惑してこれを崇拝するが如くあるは、最もその間違いの甚しきものと言わざるを得ず。皆これを見誤ること勿れ<、と述べている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9 (太田)

 明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)。福岡の頭山満は西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して、来高。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、「最早その時代(武力で政権を覆す)にあらず」と、言論による戦いを主張する。これを契機として頭山は自由民権運動に参加し、板垣が興した立志社集会で初めて演説を行う。福岡に戻った頭山は、12月に自由民権結社・向陽社を結成した。」(上掲)
 そして、「1881年、国会開設の詔が出たことを受けて・・・自由党<が、>・・・10月18日に・・・初代総理(党首)<を>板垣<として、>・・・成立・・・した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%85%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC_1881-1884)

⇒西南戦争の時に全く反応を示しておらず、また、この頭山への対応といい、征韓論の時の西郷への呼応が義理を果たしたものに過ぎなかったことが分かる。
 西郷下野以後、板垣は、大久保利通の、そしてその死後は、その前から連携していたところの、山縣有朋、の「指示」に従って言動を行った、と、見てよかろう。
 とまれ、島津斉彬コンセンサス信奉者達にとって、四民平等も国会開設も、富国強兵・・日蓮主義戦争遂行体制構築・維持・・のための手段でしかなかったことを銘記すべきだろう。
 (四民平等は徴兵制の前提であり、国会開設・・究極的には普通選挙に立脚した国会の開設・・は徴兵制と裏腹の関係にある。)
 ところで、「大隈重信<が1882年に作った立憲改進党の後継政党である>進歩党と自由党はたびたび提携と対立を繰り返していたが、明治31年(1898年)6月頃には両党合同の動きが生まれていた。6月22日、両党は正式に合同し、憲政党を組織した。6月24日、伊藤博文は首相を辞職する意向を奏上し、後継として大隈と板垣を推薦した。これをうけて大隈と板垣の両名に対して組閣の大命が降下し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は隈板内閣(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9
が、これは、<山縣>有朋による<ところの>、島津斉彬コンセンサス信奉者としての、板垣、大隈両名のそれまでの活動・・「板垣退助と大隈重信は、日本の政党史の冒頭を飾る二大巨頭である。板垣は自由党の創始者として、後の政友会につながる政党の伝統を作ることに貢献し、大隈は改進党の創始者として、これは後の憲政党の流れにつながった。」
https://japanese.hix05.com/History/kindai/kindai017.itagaki.html
・・に対する慰労のプレゼントだった、と、私は考えている。
 「大隈と板垣が妥協して隈板内閣を作ったのは藩閥つまり薩長閥への対抗心からということになっているが、実際に彼らの内閣のお膳立てをしたのは、薩長閥で占められている元老たちの意向によってだった。彼らが自分の手で勝ち取ったわけでない<、と、>・・・服部之総・・・<も>見<てい>る」(上掲)ところだ。(太田) 

  (エ)富国

 「強兵」の手段として「富国」を図る「富国強兵」は、既に島津斉彬が藩主時代に薩摩藩で行い始めていたところ、「富国」を、大久保利通が、維新後、全国規模で、更にその手段である「殖産興業」というスローガンの下で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%96%E7%94%A3%E8%88%88%E6%A5%AD
旧薩摩藩士の前田正名を使って進めていった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%90%8D
 ちなみに、「大久保利通は「富国」優先――経済と殖産興業を高めることで、国の強化をはか<ったのに対して、>西郷隆盛は「強兵」優先――まずは戦争に勝利して、国の威力を見せ、事態を打開しようとした」
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2024/05/14/159190/5
のであり、西郷は「富国強兵」の理解が不十分だったと言わざるをえない。
 この「殖産興業」による「富国」を、民間で推進したのが澁澤榮一だ。
 澁澤榮一は、徳川慶喜に仕え、生涯、慶喜に傾倒し続けたのだから、慶喜の影響で日蓮主義者になっていた筈であり、次いで、大隈との交友関係から、澁澤が民間に転じて間もなく、島津斉彬コンセンサス信奉者になっていた大隈の影響で、同コンセンサス信奉者まがいにはなっていたと考えられる。
 なお、澁澤は、同コンセンサスの権化とも言うべき福澤諭吉とも後に親しくなり、大隈を含めた三人ぐるみの交流もあった。
https://www.rekishijin.com/17085
 「<澁澤>の回想によれば、<福澤>と親しくなったのは日清戦争の時だったという。二人は戦争を前に話し合いの上で一致団結し、<福澤>は『時事新報』を通じて国威発揚に貢献し、<澁澤>は企業を回って寄付金を集めた。
 戦後、時の大蔵大臣である渡辺国武は、日清戦争の勝利を「是れ実に先生の賜なり」として、<澁澤>に感謝状を贈っている。」
https://www.rekishijin.com/16603
 この澁澤は、日本の対外進出にも積極的協力をしている。↓
 「1902年から1904年にかけて、大韓帝国にまだ中央銀行がなかった時代に、第一銀行は在韓支店において第一銀行券を発行していた。その1円、5円、10円券には頭取の栄一の肖像が描かれていた。韓国統監となった伊藤博文は韓国に中央銀行(後の朝鮮銀行)を設立して、中央銀行に発券機能を担わせる施策への転換を図るべく<榮一>に協力を求め、<榮一>もそれに応じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%96%E7%94%A3%E8%88%88%E6%A5%AD
 そんな澁澤が、日露戦争には躊躇したのは、彼が伊藤博文とも親しく、伊藤から慎重論を吹き込まれていたからだろう。
 そんな澁澤の説得には、どうやら、山縣が直接あたったらしい。↓
 「日清戦争はやむにやまれぬ戦と考えていた<澁澤>だったが、日露戦争については「反戦」の態度をとった。・・・この時、再三にわたって<澁澤>のもとを訪ねたのが児玉源太郎だった。児玉は実業界が開戦に賛成するよう、<澁澤>を説得している。説得に訪れたのは児玉のみではない。最終的に<澁澤>を「開戦論」に導いたのは、<山縣>有朋のようである。」
https://www.rekishijin.com/16603 前掲
 「<澁澤>によれば、<伊藤博文と>の初対面は1869(明治2)年のこと。当時、静岡藩で働いていた<澁澤>は、政府に出仕するよう呼び出されて東京に赴いているが、この時に伊藤と会ったの・・・だという<。>・・・<その>伊藤博文を・・・<澁澤榮一は、>・・・「最も親密なる友人」と評した」
https://www.rekishijin.com/17050
 ちなみに、その「伊藤博文<は、>・・・日清戦争後、・・・対露宥和政策をとり、陸奥宗光、井上馨らとともに日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシアとの不戦を主張した。同時に桂太郎・山縣有朋・小村寿太郎らの日英同盟案に反対した。さらに、自ら単身ロシアに渡って満韓交換論を提案するが、ロシア側から拒否され<てい>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

  (オ)民間人高等教育機関

   ・慶應義塾

 慶應義塾は、島津重豪の子の奥平昌高(1781~1855年)・・中津藩の当主を経て隠居・・の遺志を受けて、1858年に、当初白羽の矢の立った薩摩藩蘭医・松木弘安(のち寺島宗則)のピンチヒッターとして中津藩士・・その実、山縣有朋と同じく隠れ薩摩藩士でもあったと私が見ているところ・・の福澤諭吉(コラム#10042)が、中津藩の江戸の、かつて昌高の隠居所であったところの、中屋敷、で開いた蘭学塾がその起源だが、「西南戦争が起きた1877年(明治10年)頃から慶應義塾は経営難に陥った<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE
 「<この時、諭吉は、>・・・島津家<から>維持費用援助を<得て凌いでいる!>・・・
 明治14年には大隈一派を政府の役職から辞職させる明治十四年の政変が起こる<が、>・・・諭吉の理解では、伊藤と井上は初め大隈と国会開設を決意したが、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節し、大隈一人の責任にしたというものだった。・・・
 明治13年(1880年)、大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれていた諭吉の立場はますます厳しいものとなった<。>・・・
 諭吉の考えるところ、日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためにあった。そのためには朝鮮における清の影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考え、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となっていった。・・・
 独立派の金・朴は、明治17年(1884年)12月4日に甲申事変を起こすも、事大党の要請に応えた清軍の出動で政権掌握に失敗した。・・・
 1887年(明治20年):伊藤博文首相主催の仮装舞踏会を家事の都合を理由として欠席する。・・・
 明治27年(1894年)・・・ついに日清は開戦に至った(日清戦争)。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した。・・・
 [1890年 – 大学部が発足し、文学・理財・法律の三科を設置。・・・
 <この>理財科<は、>・・・日本で最初の経済学部であ<り、同学部は、その後>・・・慶應義塾大学の看板学部となった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91%E3%83%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E9%83%A8 ]
 「1901年(明治34年)<の>・・・葬儀の際、遺族は諭吉の遺志を尊重し献花を丁寧に断ったが、盟友である大隈重信<の使者が>持ってきた花を、福澤家は黙って受け取った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89

   ・東京専門学校(早稲田大学)

 大隈重信(1838~1922年)は、維新直後は、長州藩出身の木戸孝允、井上馨、伊藤博文と親しかったが、次第に、薩摩藩出身の、西郷隆盛、次いで大久保利通の信頼を得るようになり、台湾問題の時には同じく薩摩藩出身の西郷従道と共に強硬姿勢を取り続けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1
 この大隈の、島津斉彬コンセンサス信奉者への変化をもたらしたのは、第一に徳川慶喜の影響で日蓮主義者になっていた澁澤榮一(後出)であり(注21)、第二に隠れ薩摩藩士として島津斉彬コンセンサス信奉者になっていた福澤諭吉(注22)、そして、第三に、これが一番大きいと思われるが、名実ともに同コンセンサスを体現していて、大隈が生涯を通じて最も尊敬した人物である大久保利通(コラム#9902)、だろう。

 (注21)「一八六九(明治二)年一〇月、大蔵省出仕の命を受けた<澁澤>は、その命令を断るつもりで大隈に面会した。当時、大蔵省のトップは宇和島藩主の伊達宗城であったが、実質的なトップとして大蔵省を取り仕切っていたのが、大輔(次官)の大隈であった。大隈は<澁澤>の考えを消極的な発想だとした上で、新日本の建設に従事することのほうが遥かに大きな意義を持つものであると<澁澤>に呼びかけて、<澁澤>を翻意させたのであった。・・・
 しかし、一八七三(明治六)年、大隈と<澁澤>の間に亀裂が入る。・・・原因は、近代化のための多額の支出を求める大隈や各省と、政府収入からみて過大な支出はできないとする<大隈が参議になった後に大蔵大輔になっていた>井上<馨>と<澁澤>とが対立したのであった。・・・
 <しかし、>辞職後、本来の志願であった民間での経済活動に従事した<澁澤>が、大隈としばしば連絡を通じており、その後も親しい関係を続けていたことがわかる。」
https://www.waseda.jp/inst/weekly/news/2021/09/24/89924/
 (注22)「年齢は、<福澤>諭吉は1835年生まれ、大隈重信は1838年生まれなので、<福澤>諭吉が3歳年上ということになります。出会ったときは両人とも既に有名人でしたのでお互いのことを知ってはいたようですが、印象としてはお互いに良いイメージを持ってなかったようです。そしてある知識人が集う親睦会(飲み会)があり、両者は初めて相まみえることになります。明治6<(1873)>年のことでした。・・・直接話してみたところ「日本の未来のために若い人材を育てよう」ということで、あっという間に意気投合してしまいました。二人にとっては運命の飲み会になったのでした。」
https://www.kotenoblog.com/entry/2020/03/09/220356

 「大隈<は、>・・・急進的な立憲政体についての意見書を提出し、明治14年(1881年)の明治十四年の政変で下野し、翌年、立憲改進党を結成してその党首となり<(前述)>、また、東京専門学校を開設した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1 前掲
 「東京専門学校<は、>・・・大隈重信を中心に、小野梓ら旧東京大学出身者らが結成した「鷗渡会」のメンバー(高田早苗・市島謙吉・天野為之・砂川雄峻・岡山兼吉・山田一郎・山田喜之助)の支援を受けて<1882年に>設立された東京専門学校である。イギリス流政治学の教育に重点をおき、東京大学のようにドイツ流の法学を中心とする学問体系と異なり、政治学と経済学の融合を志向した政治経済学の構築を目指した。そのため、法学部が文系学部の中心学部であることが多い他の大学と異なり、政治経済学部が現在もなお早稲田大学の看板学部・中心学部となっている。・・・
 開校式に<は、>・・・、来賓としてモース、外山正一、菊池大麓、福澤諭吉、河野敏鎌、前島密などの著名人が参列した。・・・
 第1回得業式(卒業式)には来賓として鍋島直彬、辻新次、外山正一、福澤諭吉、中村正直、穂積陳重、北畠治房、中島永元、杉浦重剛、野村文夫、尾崎行雄ら各界の名士数十人が数えられ<た。>・・・
 1913年(大正2年)の創立30周年を機に教旨が制定され<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AD%A6%E6%A0%A1
 「教旨<には、>・・・早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て、立憲帝国の忠良なる臣民として個性を尊重し、身家を発達し、国家社会を利済し、併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す。」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0%E5%A4%A7%E5%AD%A6_%E6%95%99%E6%97%A8
とある。
 このように、大隈が、島津斉彬コンセンサス信奉者中枢のお役に立てる政治家やジャーナリストの養成を意図したことが分かり、開校式と第1回得業式への福澤諭吉の出席から、東京専門学校が、島津斉彬コンセンサス信奉者の役に立つ実業家の養成を意図して設立された慶應義塾・・と役割分担したところの、事実上の姉妹校、として発足したことも分かる。

   ・対支戦略

 日清戦争も結果的には支那を甚だしく辱めたわけだが、24ケ条要求に至っては、辱めること自体が目的だったようにさえ見える。↓

 「第二次大隈内閣発足は1914年(大正3年)4月16日、第一次世界大戦勃発は1914年7月28日、日本の参戦は1914年8月23日、対華21カ条要求は1915年(大正4年)1月18日だが、「当初、中国側の袁世凱は希望条項として秘密交渉に委ねられていた第5号の7か条(日本人の政治・財政・警察顧問の招聘、日本の兵器受給などの要求)を国際社会に暴露することで国際社会の反発を煽って不成立にしようと画策したが、 日本側は4月26日に要求を19ヶ条に減らして若干緩和し、さらに5月7日には第5号の要求を削除した13ヶ条にし、5月9日を期限とする「最後通告文」を出した結果、同日に袁世凱が最後通告文を承認。しかし中国国内では受諾に対する激しい反対運動や暴動がおこり、日中関係が悪化。また外国の猜疑心を招き、ワシントン会議では10か条に縮小された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82
 どうして、こんなものを大隈は袁世凱に突き付けたのだろうか。
 このような解釈があるが、「大隈の中国観は徐々に変化し、」はトル必要があるものの、それ以外は、表見的には全て正しい。↓

 「当時の元老は<山縣>有朋、大山巌、井上馨、松方正義らで、<山縣>がその筆頭的地位を占めていた。・・・大隈内閣は事実上の<山縣>内閣であったといっても過言ではない。・・・<また、>当時の日本国民の大多数は中国における権益の拡大を要望し、同要求の達成のためには強硬手段をとることを希望していた。・・・<更に、>大隈の中国観は徐々に変化し、要求提出の段階では、中国は日本の指導と協力なしには独立できないと考えていた<。>」(木村時夫「対華二十一条要求と大隈重信」)
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=0bd0cb3b8c7a2864JmltdHM9MTcxNjg1NDQwMCZpZ3VpZD0zYjc0MjA5My02MjhlLTYxNmQtM2M0OS0zNGRkNjM2NDYwZGYmaW5zaWQ9NTI5Nw&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=3b742093-628e-616d-3c49-34dd636460df&psq=%e5%a4%a7%e9%9a%88%e9%87%8d%e4%bf%a1+%e6%97%a5%e6%b8%85%e6%88%a6%e4%ba%89&u=a1aHR0cHM6Ly93YXNlZGEucmVwby5uaWkuYWMuanAvP2FjdGlvbj1yZXBvc2l0b3J5X2FjdGlvbl9jb21tb25fZG93bmxvYWQmaXRlbV9pZD0xNTYzMiZpdGVtX25vPTEmYXR0cmlidXRlX2lkPTE2MiZmaWxlX25vPTE&ntb=1

 私見では、『島津斉彬言行録』から伺えるところの、島津斉彬コンセンサスにおける対支那戦略・・支那を辱めよ、支那と交流を促進せよ、必要あらば軍事力を用いてでも支那に日本国制を継受させよ(コラム#9902)・・のいの一番の項を実行したのだ。
 幕末当時の、将軍や諸大名の中で、というか、全ての日本人の中で、最も支那通だったのは斉彬であると私は見ている。
 斉彬の教育は曽祖父の重豪と母親の弥姫が行なったが、重豪が(蘭学だけではなく)儒学や漢方大好き人間(にんげん)でもあったこと(注23)、弥姫が紫式部みたいな漢籍オタクであったこと(注24)、そんな高度なものを生み出した支那が、アヘン戦争でイギリスに惨敗を喫したところ、斉彬が受けた衝撃は、薩摩藩領の琉球が支那への朝貢「国」でもあったことから、誰よりも強烈なものであったと想像されること、から、斉彬の支那戦略にはとりわけ説得力あるものになったと考えられるのだ。

 (注23)「重豪は、植物事典『質問本草』や儒学書である『四集集註』『五経』『孝経』を編纂させ、西欧の科学技術を紹介した『遠西奇述』、漢方医学書『施治擥要(せじらんよう)』など、多くの書籍を出版させてい<る>。」
https://www.shuseikan.jp/shimadzu-culture/satsuma-education/
 「造士館<は、>・・・1773年(安永2)藩主島津重豪が・・・幕府の昌平黌に倣い創立。・・・<斉彬は、>付随して嘉永・安政年間に集成館および艦船造船所,・・・を設置。」
https://kotobank.jp/word/%E9%80%A0%E5%A3%AB%E9%A4%A8-89391
 (注24)「弥姫は非常に教育熱心で乳母を置かず、一切の養育を自分自身で行っており、当時としては極めて珍しいケースである。
 斉彬が6、7歳になると、将来は薩摩藩という大藩の藩主になる身として、厳しく教育を施された。漢籍の素読はもちろんのこと、書や絵画、そして和歌などを、弥姫自ら教えるという熱心さであった。」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/80794
 「弥姫<(いよひめ。1792~1824年)は、>・・・嫁入り道具として『四書五経』、『左伝』、『史記』、『漢箱』を大量に持ち入り、薩摩藩の奥女中や家臣らを驚かせた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%A7%AB
 「<アヘン戦争での>清の惨敗は、日本人の為政者・知識層を過剰なまでに刺激した。その結果、植民地化の危機を深甚に意識することに直結した。一方で、 幕府はその事実の隠蔽を企図し、国内での動揺を抑えようと努めたが、思うようにいかなかった。島津斉彬は、琉球を通じて独自にその詳細を熟知した。」
https://news.yahoo.co.jp/articles/3189d8e4ee779d683adb4e110f05e33eda87f45e
 「また1844年(弘化1)以来の英米仏による薩摩藩属領琉球への開国強請に<薩摩藩では>危機感がみなぎっていた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC-18466

 斉彬が、造士館改革の際の教育方針として、儒学用語を用いていることは三つ子の魂百までであり、興味深い。↓

 「嘉永4年(1851年)、11代藩主となった島津斉彬は停滞していた造士館の改革に乗り出した。従来の儒教と武芸教育にくわえて西洋の実学を学習の中心においたのである。教育方針は「修身・斉家・治国・平天下の道理を究め、日本国の本義を明らかにし、国威を海外に発揚すること」(安政4年(1857年)告諭)であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A0%E5%A3%AB%E9%A4%A8 
 但し、「嫡男の斉彬が継ぐはず<なのに>、<父親の>斉興はお由羅とその間に生まれた久光<(注25)>を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていた<ため、>・・・斉彬の擁立を望む・・・50余名が<、>対立する久光とその生母・お由羅の暗殺計画を謀った・・・お由羅騒動・・・が勃発し<たところ、斉興が>・・・斉彬を嫌ったのは、<斉彬が>正室の弥姫(周子<(かねこ)>)と仲が悪かったためとも言われて<いて、>反対に、<斉興と>弥姫との仲はよかったとも言われている。斉興は周子との間に4男1女を儲けており、・・・お由羅を含む側室たちよりも多くの子を産ませているが、これは薩摩藩では異例なことであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E8%88%88

 (注25)「学問の才能に優れ、漢学や歴史学、詩歌を好んだ。幼少期は、『唐詩選』の五言絶句の一部を部屋に張って暗記したと言われている。」
https://hitopedia.net/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E5%85%89/#gsc.tab=0
 「久光に対して、藩主斉彬は晩年「若年より学を好む、今に至りては、博聞強記、わが及ばざる所、またその志操、方正厳格、これもまたわれに勝れり。」と称賛したという。」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=7af54e1d9c24e37eJmltdHM9MTcxNzg5MTIwMCZpZ3VpZD0xOWJmMDZkZi02YjFmLTZlNmQtMDk0NS0xMjRmNmE2NTZmMjEmaW5zaWQ9NTI1MA&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=19bf06df-6b1f-6e6d-0945-124f6a656f21&psq=%e5%b3%b6%e6%b4%a5%e4%b9%85%e5%85%89%e3%80%80%e6%bc%a2%e7%b1%8d&u=a1aHR0cHM6Ly9kb3NoaXNoYS5yZXBvLm5paS5hYy5qcC9yZWNvcmQvMjI5MDcvZmlsZXMvMDM3MDAwMTYwMDEwLnBkZg&ntb=1

 斉彬は、重豪とは違って、母の弥姫が漢学一辺倒で蘭学に何の興味も示さないこと、を軽蔑していたと思われるにもかかわらず・・。
 (斉彬が、近思録崩れの流れを汲む西郷や大久保達、ひいては薩摩藩士達、に、人がいないと考えていたのも、あの時期に、儒教なんぞばかりに入れ込む血気盛んな若手藩士達に呆れかえっていたからではないか、とも思う。)
 しかし、こんな斉彬や、その衣鉢を継いだ薩摩藩の島津斉彬コンセンサス信奉者達が活躍できたのは、「斉興時代に・・・調所広郷を重用して・・・行なわれた改革で薩摩藩<が>経済発展を果たし・・・た」(上掲)おかげなのは皮肉だし、斉興が、斉彬へ家督を譲らされた後、「斉彬が幕府のいいなりになっていることに不満を感じていた」(上掲)のは、斉彬、と、阿部正弘/徳川家慶・家定、が連携関係にあったことを示唆しており、1855年に阿部が老中首座を譲らざるをえなくなったのは、「攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の松平乗全、松平忠優を8月4日(9月14日)罷免にしたことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買<ったからだとされているが、>(・・・その原因を正弘の人事・政策に対する親藩・譜代大名の反発と見る考えもある)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%BC%98
のうちの、どちらかと言えば後者の説が正しいのであって、(前に示唆したように、)私見では、半ば島津氏に乗っ取られ、かつ、日蓮主義家になっていたところの、徳川本家(一橋家出身歴代将軍と将軍候補(家斉-家慶-家定/(養子)慶喜))、に対する、幕臣の大半、及び、親藩や譜代大名中の、更には(斉興のような)外様大名中の、反/非日蓮主義勢力、の反発による事実上のクーデターであった、と、私は考えるに至っている。)

  (カ)文学

 山縣は、縄文的弥生人たる森鴎外の文学者としての令名を陸軍のプロモーションに活用するとともに、そのドイツ通知識人としての能力も陸軍幹部教育や社会政策のために活用した。
 もとより、鴎外自身、何もなくても、日清、日露両戦争に医官として参戦し、活躍したことだろう。

 「森鷗外<(1862~1922年)は、>・・・代々津和野藩の典医を務める森家<に生まれる。>・・・
 陸軍省<に>・・・入省し・・・1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。7月28日、明治天皇に拝謁し、賢所に参拝。8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し<た。>・・・
 1894年(明治27年)夏、日清戦争の勃発により、・・・第2軍兵站部軍医部長<として戦地に。>・・・
 1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで、鷗外は日露戦争に第2軍軍医部長(最初発令の時は乙軍といわれた)として出征・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%B7%97%E5%A4%96
 「森鷗外は軍医として最高峰の地位にまでたどり着き、元老の最長老として政・軍に絶大なる影響力を行使していた<山縣>有朋とも交流を深めた。」
https://www.fben.jp/bookcolumn/2009/02/post_2076.php
 「<山縣>との出会いは、・・・<山縣>の<1889年末における>一回目の総理就任時であり、・・・その後、クラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳紹介した鷗外が<山縣>の目に留まった。
 セカンドポストの軍医監になった鷗外は、陸軍人事に絶大な影響力を持つ<山縣>に近づくことの意味を十分に認識していた。・・・
 1906(明治39)年、鷗外と<もう1人>が発起人となって和歌の研究会「常磐会」を発足させた際、その方面に造詣のある<山縣>を誘い、賛同を得た。・・・翌年、鷗外は医務局長に昇進した。・・・
 常磐会を「オモテ」とすると、鷗外と<山縣>を結ぶ「ウラ」のラインが「永錫会<(えいしゃくかい)>」だった。・・・
 鷗外日記に永錫会が初めて登場するのが1910(明治43)年3月、大逆事件で最初の逮捕者が出る2カ月半前だった。賀古から鷗外宛書簡によると、<山縣>を盟主にして「忠君愛国、法律、経済、文学」の綜合雑誌刊行をもくろんだが、事件の逮捕者が出始めると、社会主義・無政府主義者へ対抗するための理論構築へと会合の目的が変質したという。・・・
 <鷗外は、1910年の>大逆事件で・・・元老<山縣>有朋の永錫会に参加し、・・・社会主義・無政府主義・・・両主義の取締り相談に乗っていた<。>」
https://forbesjapan.com/articles/detail/51801/page4

 ちなみに、縄文人たる夏目漱石が、日蓮主義戦争反対を叫ぶのを押しとどめたものは、結果論だが、<山縣>率いる日本政府が漱石に留学させる形で「贈賄」してあった賜物だと言えそうだ。
 しかも、漱石は、国家のためにも自分のためにも十分この「賄賂」を活用できないまま帰国した負い目から生涯解放されなかったと想像されるのだからなおさらだ。↓

 「夏目漱石<(1867~1916年)の>・・・父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持ち、生活も豊かだった。・・・
 1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道岩内町に籍を移した。・・・
 1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられた。・・・
 1902年(明治35年)・・・「夏目発狂」の噂が文部省内に流れた。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3
 「漱石による日露戦争に対する態度というものは、常に厭戦性と戦争容認性の2元性を包含し、厭戦的な側面が長けていると言えるものの、その厭戦性を真っ向から表現しようという姿勢に欠け、強いものではなかった
https://www.earticle.net/Article/A306530
 「<漱石は、1914年>8月25日の・・・書簡では,「戦争<(第一次世界大戦)>が始まりました。たまにはあんな事も経験のため好からうと思ひます。欧州のものどもは長い間戦争を知らずにゐますから」という,戦争に対して他人事の姿勢を示してい<る>。」
https://note.com/naokihorikoshi/n/n6a9b63331d75

  (キ)アジア主義

 「アジア主義<は、>・・・欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した主張」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9
だが、私は、(広義の)日蓮主義とほぼ同じものであって、その維新後における発現形態の一つ、と、捉えている。
 このアジア主義を、山縣有朋らは、陸軍とそれ以外において、それぞれ浸透、推進した。↓

 陸軍:西郷隆盛、川上操六、荒尾精、石原莞爾、板垣征四郎、松井石根、杉山元、綾部橘樹、牟田口廉也/山縣有朋、高島鞆之助、福島安正、宇都宮太郎、武藤信義、渡辺錠太郎、・・・小畑敏四郎、今村均、武藤章
一般:大久保利通、大隈重信、近衛篤麿、梅谷庄吉、頭山満、宮崎滔天、犬養毅、広田弘毅、大川周明、徳川義親/北一輝、近衛文麿(コラム#9902)(コラム#10042)、牧野伸顕、等

 この中で、最も大きな役割を演じたのは近衛篤麿であり、彼が1898年に発足させた東亜同文会・・やがて半官半民の国策団体となる・・だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E4%BC%9A

  エ 本格的日蓮主義戦争第二フェーズ

 客観的には奇跡にしか見えないところの、勝利に終わった先の大戦(本格的日蓮主義戦争第二フェーズ)、は、ち密なプログラムなくして遂行されたとは考えられない。
 (まさに、そのように、(対日敗戦意識を抱いていたと私が見ている)英国が考えていた可能性は排除できないが、極東裁判の検事団が、(戦争犯罪及び人道に対する罪に加えて)共同謀議の容疑でA級戦犯容疑で訴追した、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4
のは、単に、ニュルンベルク裁判の例に倣っただけだろう。
 なるほど、「A級戦犯28名が1928年(昭和3年)から1945年(昭和20年)まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされ、判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされ<た>」(上掲)が、肝心の共同謀議の存在を証明したとは到底言えない。
 なお、第一フェーズを含む本格的日蓮主義戦争全体に気付いていたところの、この裁判関係者もいた。
 「石原莞爾<は、この>・・・裁判に・・・証人として山形県酒田の出張法廷に出廷し<ているが、>・・・判事に歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね、「およそ日清・日露戦争までさかのぼる」との回答に対し、「それなら、ペルリ(ペリー)をあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満洲も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」との持論を披露し<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE ) 
 さて、当時宮内大臣だった牧野伸顕は、西園寺公望の総指揮の下、1921年に、杉山元という、その翌年陸軍省の軍務局航空課長になる寸前の、フィリピンでの諜報活動経験とシンガポール駐在経験と在インド武官経験と在欧州(ジュネーブ)勤務、という、豊富過ぎるくらいの海外経験がある、人物、
https://banzai2161.web.fc2.com/sugiyamahajime.html
に対し、(大佐昇任後に日本に一時帰国でもした際に?)貞明皇后の命として杉山構想策定を命じ、これを受け、更にその翌年の1923年に、当時の陸軍省の中枢課で陸軍内と陸軍が把握した陸軍外の全ての重要情報が集中する軍務局軍事課長になった杉山は、同構想を概成した、と、私は見ている。
 (杉山は、その後もジュネーブ勤務があり、これほど海外、とりわけ欧米系海外経験の豊富な陸軍将官は珍しい。)
 杉山元は、陸軍内序列(名番)が早い時期から事実上1位になり(コラム#10042)、かつ、陸相、参謀総長、教育総監を全て経験し元帥にまでなった2人中の1人(もう1人は上原勇作)で、陸相を2度務めたところの2人中の1人(もう1人は大山巌)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
であることを想起して欲しい。
 (なお、戦前においては、少なくとも大正デモクラシーの時代までは、入学難易度は、陸士>海兵>一高(東大)だった(コラム#9907)ことを踏まえれば、杉山に限らず、当時の陸軍の上層部がいかに我々の想像を絶するようなエリート集団だったかが分かろうというものだ。)
 そんな杉山(航空課長→軍事課長)に講師をやらせることで、軍内の鉄砲玉を物色させるために、牧野は、1921年末に宮内省管理下の北の丸(皇居に隣接)に、大川周明らを呼び寄せて日本社会教育研究所を開設し、陸海軍の若手「教育」を行わせた(コラム#10427)。
 杉山は、軍務局長から垂直補職で陸軍次官になった時点で陸軍の将来のトップになると目されることとなり、その後、実際に事実上のトップになり、終戦後に自裁するまでその立場にあり続けることになる(コラム#10042)が、そのように仕組んだのも、貞明皇后の威を借りた牧野だろう。
 その杉山は、その5月に済南事件、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%8D%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6
6月に張作霖爆殺事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
・・どちらも、いまだ画竜点睛であった杉山構想とは無関係・・が起こった1928年の8月に、陸軍省軍務局長に就任するが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8B%99%E5%B1%80
同局長の間に杉山構想を完成した上で、垂直補職された陸軍次官の時の1931年の三月事件(宇垣陸相の変節で未遂に終わった陸軍によるクーデタ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
を嚆矢として、満洲事変(支那人達を極限まで激高させること自体を目的とすると共に、この激高を体現する旨を標榜する諸勢力の中から蒋介石政権打倒後に支那を委ねるに足る勢力を見出し確定するという目的に加え、満洲において日本で予定していた総動員体制(高度経済成長体制)の試行を行う、等の目的あり)、十月事件(政界脅迫目的の陸軍によるクーデタちらつかせ)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(海軍を中心とした鉄砲玉を使った)五・一五事件(挙国一致内閣実現)と二・二六事件(陸軍の鉄砲玉を使った陸軍内の目障りな高官達の排除実現)、そして、日支戦争、大東亜戦争、を、次々に引き起こす形で同構想を実施していき、島津斉彬コンセンサスを概ね完遂することに成功する。

 3 新しい日本史:戦後

 (1)光格天皇家

 仁孝天皇、孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、上皇、今上天皇、皇嗣、が共通して抱くと私が考える理念は光格天皇由来であることから、私は、現天皇家を光格天皇家と呼ぶこととした。
 この中で、日本史に画期的な刻印を残したのが、光格天皇と昭和天皇なのだが、まずは始祖の光格天皇(注26)から始めよう。

 (注26)光格天皇(1771~1840年。天皇:1780~1817年)。「母は大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)。・・・誕生の翌年、・・・<本山修験宗総本山の>聖護院<(しょうごいん)>に入寺。将来出家して聖護院門跡を継ぐ予定であった<が、>・・・1780年<に>・・・後桃園天皇<(ごももぞのてんのう)>が崩御したときに皇女しかおらず、皇子がいなかったため、・・・急遽養子として迎え入れられ・・・践祚。・・・1782年・・・の大火により京都御所が焼失したのち、御所が再建されるまでの3年間、聖護院を仮御所とした。・・・
 天明7年(1787年)6月、天明の大飢饉の際に御所千度参りが行われると、<明正天皇(めいしょうてんのう)以来の女性天皇であった>後桜町上皇<(ごさくらまちじょうこう)>はりんご3万個を民衆に配布。光格天皇は事態を憂慮し、朝廷が幕府の方針に口出しをしないという<慣行>・・・を破り、幕府に民衆救済を申し入れた。そのため、天皇の叔父でもある関白・鷹司輔平も厳罰を覚悟して、同様の申し入れを行った。これに対して、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、・・・事態の深刻さから、天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
 <このほか、>ゴローニン事件<(1811~1813年)>の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に努める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87
 大江磐代(おおえいわしろ。1744~1813年)。「鳥取藩の家老荒尾氏の家臣だった父・岩室宗賢と、鉄問屋の娘であった母・おりんとの間に生まれる。・・・父・宗賢<は、>・・・<恐らくは武士が嫌いで自発的に(太田)>浪人して<1人京で過ごしていたが、>町医者とな<る見込みが立ったので迎えに来たこの父>と・・・9歳のときに・・・<2人だけで>京に上がる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E7%A3%90%E4%BB%A3
 「京都での宗賢はこの<娘>を禁中御使番生駒守意の妻寿仙について勉学させ<た。>・・・<この娘は、>[十代のころに・・・籌宮成子内親王の侍女とな<り、>その後、成子内親王が閑院宮典仁親王に嫁ぐと、・・・<27歳の時に同>親王の女房となり、]翌年・・・祐宮兼仁親王(光格天皇)を出産している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%AE%A4%E5%AE%97%E8%B3%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E7%A3%90%E4%BB%A3 ([]内)
 岩室宗賢(いわむろそうけん。1713~1792年)。「浪人となっ<た>・・・経緯は明らかでない。年既に31歳で、婚期も過ぎており、一説には正妻を迎えるのに両親、親戚が厳格であったためとし、又当時の彼には“りん”という一商家の娘と内縁関係にあって既に懐妊している状態で周囲の抑圧からの煩悶の結果一大決心したともいわれている。また武家社会の封建制のしがらみに耐えられず、武士の身分を捨て、それ以上の身分、地位を得るため僧侶か医師か学者になって自由になろうとしたのだともいわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%AE%A4%E5%AE%97%E8%B3%A2 前掲

 「注26」から分かるように、純粋な縄文人として9歳まで育ち、爾後も武士的(弥生性的)なものの匂いを嗅ぐことすらなく宮中に入った生母の大江磐代によって、聖護院において14歳頃まで成育されたと想像されるところの、天皇として史上初めて、縄文人として人となったと思われるところの、光格天皇は、その民衆救済という人間主義的言動を通じて、(紫衣事件(1627~29年)を契機として確立していた、)権力に関しては、征夷大将軍が天皇よりも上であるとの慣行
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E8%A1%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
を、徳川家斉(将軍:1787年~)に事実上撤廃させたと言えそうだ。
 (この民衆救済の件については、その1787年8月25日に先代将軍の家治が死去しており、約1か月間死が伏せられ、その間、田沼意次が失脚させられ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%B2%BB
更に、その後、松平定信が老中首座・将軍補佐になっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
他方で、光格天皇や関白による幕府への申し入れの期日が1787年6月以降であることしか分からないので微妙ではあるが、私は、将軍世子の15歳の家斉が、婚約者で一緒に育った島津茂姫、の、父親の島津重豪、の意見も聞いた上で、本件に係る事実上の最終決裁を主体的に行った、と、想像するに至っている。
 朝幕関係以外にも、前述したけれど、「家斉・・・は、<日蓮宗の事実上の信徒として、>非日蓮主義者だった家康を軽蔑して彼を祀る日光の東照宮を参拝<せず>、日蓮主義者で日蓮主義を実行した秀吉を尊敬して、その真似をし、最高権力者たることだけでは飽き足らず<豊臣秀吉に倣って>太政大臣に就任し<、しかも、>死ぬまでその座に座り続け・・・、海防を命ずるとともに、秀吉から見れば東アジア侵攻の案内役でしかなかったところの朝鮮が日本と対等外交をすることなどとんでもないと考え<、朝鮮通信使を対馬で接遇させ>た」と思われる(コラム#12156)。
 つまり、光格天皇の希望が、大政委任論を唱え、有事と平時の違いに言及までして、強硬に松平定信が反対した尊号一件(1788~1793年)・・このことで家斉の不興を買った定信の後の失脚に繋がった・・
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E4%B8%80%E4%BB%B6-90592
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E4%B8%80%E4%BB%B6
を除き、全て幕府に容れられたのは、反日蓮主義の徳川幕府を倒幕する布石を打った島津氏/近衛家に家斉が一心同体化するに至っていたからだと私は見ており、その背景として、義父島津重豪/義養父近衛経熙の日蓮主義、が、婚約者/正室たる島津茂子/近衛寔子(ただこ)の日蓮宗の事実上の信徒化、をもたらし、それが更に、(日蓮主義者たる徳川吉宗の曽孫で日蓮主義家たる一橋家出身の)徳川家斉自身の日蓮宗の事実上の信徒化、をもたらした、という、島津氏/近衛家の画策の成功があった、と、私は見ているわけだ。(コラム#12156の私の説を改めた。)
 また、光格天皇によるところの、自分が育った聖護院と縁の深い、故役小角への1799年の大菩薩号の贈諱(前出)は、日蓮への大菩薩号贈諱を水で薄める一種の日蓮主義決別宣言と言えるのかもしれない。
 このような光格天皇が1817年に太上天皇となり、皇位を譲られた仁孝天皇は、「光格天皇<が>・・・平安時代におかれた大学寮<(注27)>以来の教育機関を構想した<ことを受け、>・・・公家のための学問所を作る計画<を>決」したり、
https://www.gakushuin.ac.jp/houjin/kikaku/history/
「天皇主催の勉強会で日本書紀を含む六国記<(~887年)>が勉強され、日本の成り立ちや律令制について議論」させるようになる。
https://rekishi.sseikatsu.net/koumeitennou1/

 (注27)「平安時代前期に相当する9世紀から10世紀初頭にかけてが大学寮の全盛期にあたった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%AF%AE
 ちなみに、遣唐使は、838~839年の第19回が事実上の最終回だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF

 島津重豪や徳川斉昭にとっては想定外だった筈だが、光格天皇、仁孝天皇父子には、武士が登場するより前の縄文モード最盛期の摂関/国風文化時代への復古希求があった、と言えそうだ。
 そして、「天保12年1月27日(1841年2月18日)、第58代光孝天皇以来1000年近く絶えていた漢風諡号<(しごう)>選定(但し、崇徳・安徳・順徳の各天皇を除く)及び第62代村上天皇以来900年近く絶えていた天皇号(但し、安徳・後醍醐両天皇を除く)を復活させ、「光格天皇」と諡された。それまでは「追号+院」という形であった。以後、仁孝天皇・孝明天皇の2代にも諡号が用いられた。
 天皇崩御の後、公家の間から「故典・旧儀を興複せられ、公事の再興少なからず、……質素を尊ばれて修飾を好まれず、御仁愛くの聖慮を専らにし、ついに衆庶におよぶ」という功績を称え謐号をおくる意見が出た。そこで朝廷から幕府へ強く要望が出され、特例を以て許可された。さらに朝廷は「御斟酌ながら、帝位の御ことゆえ、以後は天皇と称したてまつられるべき」と天皇の名称も幕府に認めさせたのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87
 この仁孝天皇の子の孝明天皇も光格天皇以来の考え方に忠実であったと考えられるところ、孝明天皇の傳役(養育係)であった近衛忠煕は、この孝明天皇のアナクロニズムは矯正不能であると見切った上で、同天皇を、日蓮主義者へと仕立て上げることを早々に諦め、単なる傀儡として利用すべく、同天皇が余計なことを考えないよう、同じくアナクロニズムに毒されていた中沼了三を天皇の侍講とする
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%BC%E4%BA%86%E4%B8%89
等によって天皇をアナクロニズムの「牢獄」に閉じ込め、日蓮主義に基づく倒幕・維新を実現していくことになった、と、私は見ている。
 このような背景の下で、孝明天皇は、「1846年・・・、幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌1847年・・・、石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈った。・・・1853年・・・、徳川家定の将軍宣下の勅使として下向した三条実万は阿部正弘より叡慮があれば幕府が沿うようにすると<の言質をとっ>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
 この間の「嘉永4年(1851年)に、和気清麻呂の歴史的業績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授け<ている>」
https://kandayoshinobu.seesaa.net/article/201704article_2.html
が、これは、同天皇・・光格天皇家と言い換えてよかろう・・が、天皇制の存続に強い思い入れがあることを示したものだ。
 これ以降の孝明天皇については、下掲を参照。↓
https://rekishi.sseikatsu.net/koumeitennou1/
https://rekishi.sseikatsu.net/koumeitennou2/


[最後の雑談–日章旗と旭日旗]

 既にお気付きだと思うが、旗指物等の象徴は往々にしてそれを掲げている者の理念を示すものだ。
 いや、そんなことを知らなくても、国旗が文字通り理念の象徴であることは誰でも感じてはいることだろう。
 では、日本の国旗である日章旗、や、現在でも自衛隊で使われている旭日旗、の理念は一体何だろうか?
 太陽?
 いや、それはそうなのだろうが、それでは答えになっていない。
 太陽それ自体は天体に過ぎず、太陽が何を象徴しているかが問題だからだ。
 実は、日章旗を国旗として制定することの提案者については、徳川斉昭・島津斉彬共同説、と、徳川斉昭単独説、とがあり、いずれにせよ、制定したのは徳川幕府だ。
 戊辰戦争の時に、幕府軍が軍旗として掲げたのは日章旗だったが、それに対して、官軍が軍旗として掲げたのが旭日旗であり、その提案者は不明だが、恐らくは近衛家/島津氏であり、いずれにせよ、制定したのは維新政府だ。
 で、日蓮の「日」は太陽の日であり、斉昭も斉彬も日蓮主義者だから、少なくとも、日章旗は日蓮主義の象徴である、と言えそうだ。
 しかし、斉昭の水戸藩は、天照大神信仰の山崎闇斎の垂加神道の強い影響を受けていて、この天照大神は太陽神だから、日章旗の提案者に関し斉昭説に立てば、日章旗は天照大神信仰の象徴でもあることになる。
 他方、旭日旗の方は、(制定時点で明治天皇が何の実権も有していなかった以上、)日蓮主義だけの象徴、で決まりだろう。
 確かなことは、国旗である日章旗は幕府が制定して維新政府が継承したが、軍旗である旭日旗は維新政府が制定したことだ。
 そういう意味では、旭日旗と靖国神社は、いわば運命共同体、ということになる。
 だから、韓国の反日勢力による旭日旗と(戊辰戦争以来の官軍側の戦没者への慰霊を謳う)靖国神社への攻撃に対しては、同じ理屈でまともな反論を行う必要がある。
 (靖国神社に係るこれまでの反論はまともな反論ではなかったからこそ、天皇の親拝はさておき、首相等の公式参拝が実現していない。)
 言うまでもなく、戦後日本の国民的史観と言ってもよいところの、司馬(遼太郎)史観・・明るい明治、暗い昭和
https://www.yama-mikasa.com/entry/2017/09/28/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E5%8F%B2%E8%A6%B3%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B_
・・、ないし、丸山(眞男)史観・・福澤諭吉をその対朝鮮・支那強硬論を含め全面的に肯定する
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja/72/Special_Issue/72_209/_pdf/-char/ja
・・では反論にならないのであって、日蓮主義史観だけが反論を可能にするのだ。(コラム#14382、14384、を敷衍した。)
 最後に、我が国の国号である日本の「日」は太陽だろう、だから、日章旗と旭日旗の「日」は国号たる日本の「日」、つまりは、単なる太陽ではないのか、という根本的な反論が予想されないでもないので一言。
 「日本とは語義的には『太陽の昇る東方・東側』といった方角だけを意味している。どこから見た東側なのかといったら、<支那>大陸にある王朝から見た東側なのであって、日本という自称・独立の国号は、『<支那>大陸からの視点・<支那>王朝への対抗意識(冊封体制からの離脱意識)』がなければ生まれなかった可能性もあるのである。
https://esdiscovery.jp/vision/history003/jtopics001.html
 このような「負い目」からか、「中世日本では、「大日本国」を「大日如来の本国」の意と解釈しており、『釈日本紀』巻第五にもこの説が記述されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8F%B7
 この「大日如来<は、>・・・日本密教においては一切の諸仏菩薩の本地とされる。・・・
 <ちなみに、>東密では、顕教の釈迦如来と大日を別体としているが、台密では同体として<おり、>・・・神仏習合の解釈では天照大神(大日孁貴)と同一視もされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5

 とまあこういう次第であり、どうやら、幕末・維新時点でも、日本の「日」は、大日如来だった可能性が高いのであって、そうである以上、日本の「日」と日章旗/旭日旗の「日」が象徴している理念は異なる、と、言ってよさそうなのだ。

 (2)明治天皇と島津斉彬コンセンサス信奉者達の暗闘

  ア 日清戦争・日露戦争に反対した明治天皇

 「安政6年(1859年)・・・明経博士伏原宣明が<明治天皇の>読書師範とな<った。>・・・

⇒孝明天皇は、自身の侍講だった中沼了三よりも儒学者としては格段に落つる、部内の代々儒教を家業としてきた人間(にんげん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AE%A3%E6%98%8E
を嫡子の師範にしたわけだ。(明治2(1869)年に遅ればせながら明治天皇は中沼を侍講にしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%BC%E4%BA%86%E4%B8%89 )(太田) 
 文久元年(1861年)、明治後期に2度にわたり内閣総理大臣を務めることになる西園寺公望は、この年から御所に出仕し、3歳年下の睦仁親王に近習として仕え、以来、両者は親交を結んだ。・・・

⇒山縣有朋もそうだが、その「後継」となった西園寺公望は、かほども縁の深かった明治天皇について、同天皇が崩御した時を含め、全く語ったことがなさそうだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
 2人とも、明治天皇とは相いれないものがあり、しかも、同天皇を全く評価していなかったのだろう。(太田)
 
 和歌に関しては、孝明天皇が睦仁親王に添削を通して直接指導した。元治元年(1864年)正月に、歌道師範家として名高い冷泉家の当主である冷泉為理が、睦仁親王に和歌を指導したいと天皇に申し出たが、天皇は積極的に応じなかった。天皇は和歌の指導を睦仁親王との父子のふれあいの場として楽しんでいた。天皇による和歌の直接指導は、天皇の崩御まで続いた。・・・

⇒結局、明治天皇を教育したのは孝明天皇だった。その結果、明治天皇もまた、典型的な縄文人として人となったと見てよかろう。(太田)

 [朝鮮半島では1884年に甲申事変〈・・独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E7%94%B3%E6%94%BF%E5%A4%89 ・・〉が起き、清国との戦争の危機が高まったが、2月7日の御前会議の席上で明治天皇が「平和に結了」すべきであるという異例の発言をしたため、開戦は避けられ伊藤博文を派遣して李鴻章との間で天津条約を結んだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87 ]
 <また、1894年の対清>宣戦布告直後、宮内大臣土方久元は天皇の御前に伺候し、清国への宣戦を奉告するため、伊勢神宮および孝明天皇陵の後月輪東山陵に派遣する勅使の人選について伺ったところ、天皇は「其の儀に及ばず、今回の戦争は朕素(もと)より不本意なり、閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り、之れを許したるのみ、之れを神宮及び先帝陵に奉告するは朕甚だ苦しむ」と答えたという。驚いた土方は「既に宣戦の詔勅を裁可あらせらる、然るに今に於て斯かる御沙汰あらせらるるは、或は過まりたまふことなきか」と天皇を諫めたが、天皇が「再び謂ふなかれ、朕復た(また)汝を見るを欲せず」と怒り出したため、土方は恐縮して退下した。・・・

⇒明治天皇はホンネでは日清戦争に徹頭徹尾反対だったわけだ。(太田)

 <更に、>日本政府は1904年2月4日の御前会議で<対露>開戦を決めた<が、> 御前会議終了後、明治天皇は内廷にて「今度の戦争は全く私の本意ではない。けれども事態はとうとうこんなことになってしまった。どうしようもない」と言い、「万一、事につまずきでもできようものなら、なんといって先祖にわびよう、どうして国民に顔向けできよう」と言ってはらはらと落涙したという。 他方、日露戦争の『宣戦の詔勅』に続いて作成された詔勅草案は、「信教の自由」と「戦争の不幸」を強調していたが、大臣らの署名がないまま公布されなかった。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒だから、そんな明治天皇がホンネでは日露戦争にも猛反対だったのは当たり前だった。
 (「「尊王攘夷」の儒教的イデオロギーに引っ張られた明治政府は、天皇に軍を統帥する実権を与えてしまっ<てい>た<が、>昭和天皇<もまた、戦争的なものが大嫌いだったので、>この矛盾に悩み、形式的には統帥できる軍が戦争に傾斜するのを防ごうとし<て、>その平和主義のぎりぎりの表明として知られるのが、開戦を決定した1941年9月6日の御前会議で詠まれた明治天皇の御製である。
 よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
 これは今まで昭和天皇が「世界は同胞なのだから戦争はするな」という意思を間接的に表明したものと解釈されてきたが、この御製は1904年にロシアと国交断絶した御前会議のあと詠まれたもの<で、>・・・明治天皇が「これは朕の志でないがやむをえない」ともらして詠んだ歌だ、と<明治天皇の>側近が書いている。・・・
 当時の御前会議のメンバーも仰天し、軍部は<明治>天皇を「啓蒙」するために上奏し、天皇も抵抗を弱めて開戦を許可した。」
https://agora-web.jp/archives/1598697.html
という一点からも、昭和天皇が明治天皇を模範と仰ぐ光格天皇家の家論に忠実な縄文人だったことがよく分かる。)(太田)

  イ 島津斉彬コンセンサス信奉者達による光格天皇家天皇制御

  (ア)島津斉彬コンセンサス信奉者達の天皇制観

 今更ながらだが、島津斉彬コンセンサス形成者たる島津斉彬本人、そして、このコンセンサスを踏まえた日蓮主義戦争を指導したところの、(貞明皇后についてはさておき、)山縣有朋、西園寺公望、牧野伸顕、杉山元、のいずれも、天皇制、或いは、その時々の天皇に対して格別の思い入れなどなかったように思われる。
 まず、斉彬だが、天皇制ないし天皇に関する言動は、わずかに下掲のみだ。↓
 「和気清麻呂<ハ>・・・日本第一ノ忠臣ナリ、皇統ノ危ウキニ臨ンデ、此人ノ誠心ヲ以テ萬世一系御繼續ノ今日ナリ」(コラム#9902)
 「1853年に大隅国の牧園中津川を視察した島津斉彬が、和気清麻呂の遺跡調査を八田知紀に命じて、大隅の国桑原郡稲積の里(現霧島市牧園下中津川)に確定しました。斉彬は「千歳の知己の誠忠を偲びお手植えの松を植えた」と斉彬公伝に記されています。」
https://kandayoshinobu.seesaa.net/article/201704article_2.html 前掲
 これは、期するところのある斉彬によるところの、孝明天皇による和気清麻呂への神階神号授与(前述)を意識した、同天皇への単なるゴマスリ、以上のものではあるまい。
 次に、「山縣は熱心な天皇制護持者だったが、生身の天皇を神格化したわけではない<のであって、>明治天皇が、枢密院の会議に出席したときのこと<、>天皇は平素と様子が異なり、議事の途中で仮睡した<が、>そのとき、議長の席にあった山縣は軍刀の先で床を叩き、その音で天皇ははっとして目を覚まし居ずまいを正したという。」
https://www.general-yamagata-foundation.or.jp/research_a_004.html
ということくらいしか、山縣と天皇制ないし明治天皇に係る挿話はない。
 これは、山縣にとって、天皇制、ないし天皇の存在意義は、象徴的なものに過ぎないが、天皇は少なくとも象徴にふさわしい言動に心掛けなければならないのであって、天皇がそれを怠った場合は窘めて当然だった、と、見てよかろう。
 似たようなことが、西園寺に関しても言えそうだ。↓
 「1928年6月の張作霖爆殺事件の首謀者処分をめぐって、翌年6月、昭和天皇は、河本大佐を停職に留めた田中義一首相を叱責した。・・・西園寺は・・・、天皇には憲法遵守を求めたといわれる。・・・これを機に天皇は政治へのかかわりを自制する決心をした。」
https://www.amazon.co.jp/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E3%81%AE%E6%A8%AA%E6%9A%B4%E3%81%A8%E9%97%98%E3%81%A3%E3%81%9F-%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B%E3%81%AE%E5%A4%B1%E6%84%8F%E2%80%95%E6%94%BF%E5%85%9A%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%81%AE%E8%82%B2%E6%88%90%E3%82%92%E7%9B%AE%E6%8C%87%E3%81%97%E3%81%9F%E4%B8%8A%E7%B4%9A%E5%85%AC%E5%8D%BF%E3%81%AE%E6%8C%AB%E6%8A%98-%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%8D%98%E4%B8%80/dp/4585222324
 露骨に言えば、西園寺は、昭和天皇に対し、天皇など象徴的な存在に過ぎない以上、その分際を超える言動は厳に慎むように言い聞かせたわけだ。
 次に牧野だが、下掲の挿話から、一見、彼が天皇制の維持に思い入れがあるように受け止めるむきがあるかもしれないが、私に言わせれば、全くそんなことではなく、単に、先の大戦を日本が好きな時点で終戦に持ち込めるようにするために、(昭和天皇だけが拘っているところの)天皇制維持さえしてくれれば後はいかなる条件も日本政府は飲む、ということを米国に前広に伝え続けた、というだけのことだろう。↓
 「一九四三年に帰国したグルー<は、>まもなく国務次官に就任し、当時の国務長官ハル(Cordell Hull)や大統領ルーズヴェルト(Franklin D. Roosevelt)から深く信任され、国務省にあってアメリカ政府による天皇に対する非難・攻撃、あるいは天皇と日本国民との関係に対する干渉は一切避けるべしとする政策の指導者となり、対日講和は天皇を通じて最も容易に確保維持できることを絶えず主張した・・・。さらに・・・、天皇に対する力の行使を要求した官僚・専門家。新聞から痛烈に攻撃されてもグルーが敢然としてその主張を枉げず、その政策の正当性をルーズヴェルト、トルーマン(Harry S. Truman)の歴代大統領をして納得せしめることに成功し、1945年8月、いわゆる国体護持を条件とした日本の降伏申し出を連合国が受理したことでグルーの計画は頂点に達した・・・。・・・皇位の性格に関するグルーの<かかる>理解は牧野との度重なる会談によって形成されるところが大きかったと、グルー・・・<は>しばしば・・・語っていた」
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/000/kiyo070a104.pdf
 最後に杉山だが、彼にとって、昭和天皇は、その考えていることなど常に読み切りつつ、なおかつ、まともに相手になどしない対象でしかなかった、と言ってよいのではないか。↓
 「<まだ、近衛内閣だった時の>1941年9月5日<、>・・・昭和天皇は・・・、杉山<参謀総長>に「日米事起こらば、陸軍としては幾許の期間に片づける確信ありや」と質問した。これに杉山は、<この質問をすり替えて(太田)、>「南洋方面だけは3ヶ月くらい」と答えた。・・・昭和天皇は、<杉山がまともに答えたと勘違いして(太田)、>続けて問うた。「汝は支那事変[日中戦争]当時の陸相なり。その時陸相として『事変は1ヶ月くらいにて片づく』と申せしことを記憶す。しかるに4ヶ月の長きにわたり、いまだ片づかんではないか」。・・・杉山は・・・、「支那は奥地が開けており、予定どおり作戦し得ざりし事情」をくどくどと<適当に(太田)>弁明した。これに・・・昭和天皇は、・・・<以下の>発言を行ったのである。「支那の奥地が広いと言うなら太平洋はなお広いではないか。如何なる確信あって3ヶ月と申すか」 ・・・<そこで、>隣にいた永野修身軍令部総長<が、>「統帥部として大局より申し上げます……」と<杉山にではなく天皇に(太田)>助け舟を出し・・・た。」
https://gendai.media/articles/-/68981
 こんな杉山は、当然、天皇制維持などに何の関心もなかった筈だ。

  (イ)軍部への天皇の容喙回避措置

 山縣は、そんな、反日蓮主義的な明治天皇を無害化してお神輿化すべく、「周旋(政治)の才あ<る>」伊藤(吉田松陰)を、伊藤が島津斉彬コンセンサス信奉者ではなかったにもかかわらず、明治天皇と伊藤がウマが合うことに目を付け、あえて初代首相に「任命」した上で、言い含め、同天皇を調略させた。
 (「太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいるなか、・・・井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくては駄目だ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
 井上は伊藤と共にイギリスに短期留学しているが、伊藤とは違ってそれまでに江戸で蘭学を学んでいる上、その後、2年間、欧米を外遊した経験もあり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%A6%A8
英語力はむしろ伊藤より勝っていた筈であり、自薦をした可能性が・・。)
 すなわち、「内閣制度を創設し、明治憲法の制定に尽力した・・・伊藤博文・・・がまずな<した>ことは、天皇の権限を明らかにし、「宮中」・・天皇、皇族、宮中派と呼ばれる天皇側近、宮内省関係者などで構成された政治主体・・を制度化<し、>・・・天皇を政治の意思決定から切り離し、受動的君主として位置付けることで”内閣による政治”を目指<すること>・・・だった。大隈重信・井上毅ら政敵との抗争や、度重なる政治的危機を乗り越えて明治天皇の信頼を得た伊藤の、「真の業績」<こそこれだった。>」
https://www.amazon.co.jp/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87%E3%81%A8%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%BD%A2%E6%88%90%E2%80%95%E3%80%8C%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%88%B6%E5%BA%A6%E5%8C%96%E3%81%A8%E7%AB%8B%E6%86%B2%E5%88%B6%E3%81%AE%E5%B0%8E%E5%85%A5-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%9D%82%E6%9C%AC-%E4%B8%80%E7%99%BB/dp/4062921014
 その結果、「天皇の閣議臨御は明治憲法体制発足後まれになる」
https://kotobank.jp/word/%E9%96%A3%E8%AD%B0-43572 
 この背景には、伊藤が明治19(1886)年に天皇に受け入れさせた「機務六条」があり、重要なのは、「第1条<の>・・・太政官時代には(実際の事例は少ないものの)原則として天皇はいつでも閣議に臨御して自由に意見を述べることが出来たが、今後は総理大臣の要請がない限りは閣議には加わらないことになり、総理大臣が閣議の主宰者であることを確認した<こと、及び、>第2条で<の>・・・天皇の国政に関する顧問は所管大臣と次官に限定した<こと>」だ。(太田)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E5%8B%99%E5%85%AD%E6%9D%A1
 これは、明治新体制を主導する日蓮主義者達が反日蓮主義の光格天皇家を掣肘するのが目的だったのだ。

  (ウ)陸軍省への首相、ひいては国会、の容喙回避措置

 また、「<明治18(1885)年12月22日の>第1次伊藤内閣・・・発足と同時に「内閣職権」が定められた。これは、・・・大宰相主義を取っており、内閣総理大臣には「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」という各省大臣に対する大きな権限が付与されているのが特徴である。
 しかし・・・井上毅は、内閣総理大臣の権限が巨大すぎると、天皇親政の原則を侵しかねないとして大宰相主義に反対した。この危険は憲法制定作業の中でも問題視され、結局4年後<の明治22(1889)年12月24日の第1次<山縣>内閣発足時
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%86%85%E9%96%A3 >には「内閣職権」は「内閣官制」に改正されて、内閣総理大臣の権限は縮小され、各大臣は単独で天皇を輔弼する責任制となり、いわば「大宰相主義」から「小宰相主義」へ移行していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲 
ところ、これは、島津斉彬コンセンサス信奉者ではない伊藤が犯した過ちを、(大久保利通が登用した人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%AF%85
で、大久保の影響で島津斉彬コンセンサス信奉者になっていたと目される)井上に対し、山縣が指示し、井上に伊藤に反旗を翻す汚れ役をやらせた上で、山縣自身が首相に就任したのだろう。
 これは、明治新体制を主導する日蓮主義者達が、自分達の中枢たる軍部を、将来国会・・富国強兵のための資金を集める手段・・が事実上選ぶようになる可能性がある首相による容喙から守るのが目的だったのだ。

  (エ)軍部大臣現役武官制

 「1900年(明治33年)に、当時の山縣有朋首相の主導で、軍部大臣現役武官制を明確に規定した」目的も(ウ)と同じであり、そのココロは戊辰戦争の時から日本は戦争体制下にある、というものだったと見ればよかろう。
 国民及び欧米諸国や露支への欺騙目的で、1913~1936年の間は「現役」が落とされ、予備役や後備役でもよいこととされた(コラム#10042)が、当然、それは、先の大戦開始を目前の翌年に控えた1936年に、私見では、当時7月まで実質的な参謀総長(参謀本部次長)であった杉山元と日蓮主義者で3月に首相に就任した廣田弘毅との連携プレイによって、杉山構想に従って杉山元が引き起こしたと私が見ているところの、>「二・二六事件<に関与した>退役軍人の影響を排除するためという名目で」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6
復活させられることになる。

  (オ)統帥権の独立

 振り返れば、軍部を首相の容喙から守るために、山縣が採った最初の措置が、参謀本部の陸軍卿(後の陸軍大臣)からの独立、いわゆる、統帥権の独立、だった。 
 「明治11年(1878年)・・・12月7日に大山巌を参謀次長とする参謀本部が編成され、12月24日陸軍卿を辞任した山縣は参議のまま初代参謀本部長となった。・・・明治13年(1880年)には・・・<その時まだ参議ではなかった>大山巌
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AD%B0 >
が陸軍卿となり、陸軍の全権を山縣が握っていると評される状態となった。・・・明治15年(1882年)1月に軍人の政治関与禁止を改めて記した軍人勅諭<・・これには、「見返りに」政治の軍事関与禁止の含意があった(太田)・・>を制定。伊藤らから別の省の卿になることを求められるが、拒否して参謀本部長の地位に留まる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
 「<その間、>陸軍卿<は、短期間、>西郷従道<が務めた後、ずっと>大山巌<が務めた>」が、西郷は、<山縣>の陸軍卿時代に二度「陸軍大輔(後の陸軍次官)、一度陸軍卿代理<、>を務めた人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%9C%81
また、上述したように、大山もまた、明らかに山縣よりも政府内序列が下だった人物なのだから、少なくとも「階級」絶対主義の軍部において、参謀本部長の方が陸軍卿より格上との認識を確立させることに山縣は成功したわけだ。
 先の大戦の終戦までの陸軍大臣と参謀総長を比較すると、2回務めた人間(にんげん)も1人としてカウントすると、それぞれ、26人、16人であり、参謀総長の方が長任期であることが分かり、しかも、初めてその職に就いた時の階級が大将だったのは、陸軍大臣では8名だったのに対し参謀総長では15名だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 ←階級記述なし!
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C13070963800 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
 階級が高い上に長任期なのだから、世界中どこでも階級がことにものを言う軍部において、陸軍大臣が参謀総長に頭が上がるわけがない。
 このような人事上の慣行も受け、「明治憲法下で天皇の権能は特に規定がなければ国務大臣が輔弼することとなっていたが、<規定がないにもかかわらず、>慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が輔弼することとなっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
 この観念は、国民にも浸透し、「天皇の仕事は、国務、すなわち政治と、統帥、すなわち軍隊を動かして戦争をすることである<ところ、>天皇の国務を輔弼する(助ける)のは政府であり、天皇の統帥を輔翼する(助ける)のは陸軍参謀本部と海軍軍令部であ<って、>政府、すなわち政治家や官僚は統帥に関与せず、<他方、>軍部は政治にかかわらないことが原則である<、との観念の下、例えば、1904~1905年の日露戦争の終戦の後、>国民にしてみれば、賠償金を取れなかった腰ぬけは政府であり、大国ロシアを打ち負かしたのは皇軍、天皇の軍隊であった<こと>から<、>政府に対して<は>暴動を起し<つつも>、同じ<国民>が凱旋将軍<は>歓迎<した>のである。」
https://www.gendainoriron.jp/vol.16/feature/f09.php

  (カ)大日本帝国憲法

 (イ)~(オ)も実質的な意味での戦前の日本の憲法であって、しかも規範性があったのに対し、形式的な意味での戦前の日本の憲法であって実質的な意味での憲法も含まれていたところの日本帝国憲法には規範性がないもの、だからもちろん、軍部への掣肘などもないもの、として制定された、というのが私の考えだ。
 それは、日本におけるそれまでの唯一の憲法が十七条憲法であったところ、記述されている内容からして同憲法に規範性などなかったからだ。
 ちなみに、「Constitution(国家の根本の法)を「憲法」と訳したのも箕作麟祥である(福澤諭吉は「律例」、加藤弘之は「国憲」、井上毅は「建国法」とそれぞれ訳していたが、箕作の訳した「憲法」という言葉が後に定着することになる)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E4%BD%9C%E9%BA%9F%E7%A5%A5
ところ、1876年から1880年まで、天皇も元老院も「国憲」を用いていたのに、1880年、当時の大蔵卿の大隈重信が「憲法」を用い、1883年に憲法取調局を設置している・・但し、翌年、制度取調局に改称している・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
ことから、1880~83年の間に、政府内において、上記趣旨で呼称の変更が行われ、それをやらせたのは山縣有朋だった、と、私は思うに至っている。
 但し、規範性があったところの実質的な意味での憲法は、実態に即している必要があるだけに、「改正」されることもありえたのであり、軍部大臣現役武官制に関して、改正が2度行われた、というわけだ。

  ウ 明治天皇による反撃に向けての布石

 「18年伊藤内閣が成立すると海軍を離れざるをえず,枢密顧問官などを経て,34年昭和天皇,35年高松宮の御養育主任<を務め、>死去後,大将に進級<した>」という川村純義(1836~1904年)
https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9D%E6%9D%91%E7%B4%94%E7%BE%A9-48363
に、明治天皇が裕仁親王兄弟を養育させたのは、その時点で16年間も海軍を離れていて(、しかも、恐らくは海軍嫌いになっていたとも思われる)が故に意識が事実上文官化していた川村の影響で、裕仁親王兄弟に非軍人意識を身に付けさせたかったからだ、と、私は見るに至っている。
 「明治40年(1907年)1月31日、軍事参議官の乃木<・・日露戦争中に多数の兵士達を死なせたことに慙愧の念を抱き続けていた・・>は<、>学習院長を兼任することとなったが、この人事に<も>明治天皇が大きく関与した。山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を天皇に内奏したが、天皇はこの人事案に裁可を与えず、皇孫(後の昭和天皇)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院長に指名した。・・・
 明治45年(1912年)7月に明治天皇が崩御してから、乃木が<上述した慙愧の念に基づく遅ればせながらの自死であったところの(太田)>殉死<を>するまで3ヶ月ほどの間、裕仁親王は乃木を「院長閣下」と呼んだ。これは、明治天皇の遺言によるものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8
 その「明治天皇は「戦争には本能的なaversion(嫌悪)をもっておられた」という。だから日露戦争時には、「元老会議で決議したのに、まだ開戦の聖断の下らなかったのは、内心、如何にロシア相手の戦争は、できる限り避けたいとの懸念が強かったかを物語る」という」
https://www.moralogy.jp/wp-content/themes/mor/img_research/23miwa.pdf
わけであり、昭和天皇は、自分は、乃木を通じて明治天皇が(大正天皇を飛び越えて)隔世的に憑依した的な自覚、自負があり、その結果、貞明皇后の日蓮主義を拒絶することができたのだろう。
 昭和天皇の、明治天皇への傾倒ぶりは、前述したところの、「日露戦争直前に戦争回避と平和を望んだ<明治天皇>の御製<である>・・・よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ・・・<を、>昭和天皇が<、>1941年(昭和16年)、日米開戦の回避を切望するにあたり御前会議で閣僚・陸海軍首脳らの前で発言」した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
点に端的に現れている。」(コラム#12208)
 「乃木を慕っていた裕仁親王は、乃木が自刃したことを聞くと涙を浮かべ、「ああ、残念なことである」と述べて大きくため息をついたという。・・・
 乃木は、日露戦争において多くの兵士を無駄に死なせてしまったことを心底から悔い、生涯にわたって自責の念に苛まれ続けていた。乃木が前述の通り元帥の称号を断り、最終的に割腹自殺したのも、日露戦争で多くの兵士を死なせたことに対する自責の念が最大の理由だったとする意見は根強い。」(コラム#12206)

  エ 島津斉彬コンセンサス信奉者達による再反撃

  (ア)貞明皇后の擁立(成功)

 「日蓮宗の僧である・・・朝山日乗<(?~1577年)>・・・は莫大な財産を保有しており、公家を通じて後奈良天皇の信任を得た。・・・
 永禄10年(1567年)、日乗は三好三人衆と争っていた松永久秀を支援し、毛利氏からの書状を久秀に届けようとして三好方の間諜に捕まった。三好家臣・篠原長房は日乗を堺に監禁した。・・・
 永禄11年(1568年)4月、日乗は正親町天皇の勅命によって解放された。日乗は4月16日に参内して朝廷に物を献上したという。7月10日には近衛前久邸で法華経の講釈をしている。9月には足利義昭を奉じて織田信長が上洛し、これ以降日乗は信長と朝廷の間を取り持つことで権勢を拡大していく。・・・
 <その>日乗は朝廷に訴え出て、伴天連追放の綸旨を獲得している。・・・
 <そして、>その子孫は九条家諸大夫として続いた。・・・
 大正4年(1915年)、「朝山日乗」として正五位を追贈された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%B1%B1%E6%97%A5%E4%B9%97
 そんな九条家に後の貞明皇后は生まれた。
 「日蓮<は、>・・・1922年には日蓮主義者の本多日生らの嘆願により、大正天皇から立正大師の諡号を追贈された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
 もちろん、これを行ったのは行為無能力者に近かった大正天皇ではなく、その皇后たる貞明皇后だったのであり、その趣旨は、改めて説明するまでもなかろう。
 「<後の貞明皇后(1884~1951年)の>母の野間幾子(1849-1946、二条家家臣野間頼興<(注28)>娘、京都生まれ)は<、>15歳で九条家に仕え、道孝の側室として、九条道実、菊麿王妃範子、大谷籌子、節子(貞明皇后)をもうけた。・・・

 (注28)その祖先は不明。
https://rekishi.directory/%E9%87%8E%E9%96%93%E9%A0%BC%E8%88%88

 <後の貞明皇后は、生まれた翌>月、東京府東多摩郡高円寺村(現:杉並区)近郊の豪農である大河原金蔵、てい夫妻に里子に出され<たところ、>・・・養母のていは・・・早朝から観音経(法華経の一部)を読経しており、節子もていと共に仏壇に手を合わせていた。・・・

⇒明治元年(1868年)に「伏見宮邦家親王の第十王女<が>・・・九条幸経の養女<になって>・・・瑞龍寺第10世門跡」になっているが、1884年時点で、伏見宮家と九条家との話し合いで、次は九条家の実女の節子で、という「合意」が成立していたのではなかろうか。だから、節子を、日蓮宗信徒に仕立てた、と。(太田)

 [明治天皇は皇太子妃をできれば皇族から選びたいと考えて<おり、>]当初、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃として伏見宮貞愛<(さだなる)>親王の長女である禎子女王<(注29)>が挙げられていた。

 (注29)さちこ(1885~1966年)。「1901年(明治34年)4月6日、禎子女王は山内豊景侯爵に降嫁した。ともに妃候補で後に大正天皇の后となった貞明皇后との親交は絶えることなく続いたという。
 1942年(昭和17年)に大日本婦人会が政府指導の下で設立され、会長職についた。大日本婦人会は同年、大政翼賛会の傘下に統合される。そのため、戦後、公職追放となる。
 直心影流薙刀術の使い手であり、1930年(昭和5年)、宮中済寧館台覧試合で園部秀雄と共に薙刀の形を演武した。1955年(昭和30年)には全日本薙刀連盟の初代会長となった。1983年(昭和58年)、故人として高知県スポーツの殿堂に入る。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E7%A6%8E%E5%AD%90

 1893年(明治26年)5月に皇太子妃に内定し、1896年(明治29年)には明治天皇と皇后美子とも対面していた。禎子女王は外見が色白で美しかったが、西欧列強と並び立つためにキリスト教文化圏の一夫一妻制を導入する必要性がある中、健康面を不安視され1899年(明治32年)3月に、婚約は解消された。
 九条節子は、正室の子でないことや、明治天皇が皇族からの東宮妃を強く望んでいたこと、更には政府上層部でも節子に否定的な意見が多かった<が、>最終的には消去法にて、色黒すなわち容姿端麗ではないことよりも、先述の通り『黒姫』と呼ばれるほどに健康であることが重視され、1899年(明治32年)8月21日に婚約が内定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87 ([])

⇒「注29」からも分かるように、禎子はスポーツウーマンだったし貞明皇后よりも遥かに長命だったわけであり、文字通り言いがかりでもって妃候補が差し替えられるというとんでもないことが起こったのは、近衛篤麿の工作によるのではないだろうか。
 摂関家筆頭の近衛家の篤麿が、かねてより、将来の大正天皇の資質に疑問符が付いていて、その妃が重責を担うことになるのが必至であったところ、日蓮宗信徒の九条節子の存在を知り、(山縣有朋の賛同を取り付けた上で、)幕末から維新にかけて短期間、最後の藤氏長者を務めた節子の父の九条道孝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%AD%9D
をまず説得し、次いで、2人で伏見宮貞愛親王を説得し、今度はこの3人で、どちらも貞愛親王の姉であるところの、上出の瑞龍寺第10代門跡、や、
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91%E9%9B%B2%E6%97%A5%E6%A0%84-1114691
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B
(この第10代門跡の姉で)明治天皇の皇后の美子(はるこ)の嫡母(養母)であるところの順子女王(一条順子)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%A0%86%E5%AD%90 及び上掲
といった外堀を埋めた上で、皇后美子(旧名一条美子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E6%86%B2%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%90%8E
を陥落させ、この美子を加えた4人で作ったシナリオに基づき、「明治天皇は・・・1893・・・年5月に禎子女王を皇太子妃に内定した<が、>1898年(明治31年)になると、天皇の侍医である橋本綱常<(注30)>や池田謙斎<(注31)>が「禎子女王に肺病の疑いがある」と発言し出し、岡玄卿<(注32)>侍医局長も結婚中止を具申。

 (注30)1845~1909年。「越前藩医の橋本家の四男に生まれる。・・・10月31日 – 男爵・・・明治29年(1896年)3月 軍医監[(少将相当)]・・・明治37年(1904年)5月 召集・大本営付・・・明治38年(1905年)2月 軍医総監[(中将相当)]・・・1907年(明治40年)9月23日 – 子爵。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E7%B6%B1%E5%B8%B8
 (注31)1841~1918年。「新発田藩藩医<の子。>・・・1888年に日本では初となる医学博士号を受けた。二等侍医を兼ね侍医局長官となったのち、陸軍一等軍医正[(大佐相当)]となり、それらの功績から1898年2月2日には男爵を叙爵し華族に列した。1898年2月14日、錦鶏間祗候を仰せ付けられ、1902年には宮中顧問官となる。西南戦争、日清戦争などでも従軍医として活躍した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%AC%99%E6%96%8E
 (注32)げんけい(げんきょう。1852~1925年)。「津山藩士の<子。>・・・1898年(明治31年)に侍医局長を拝命。翌年に医学博士の学位を受け、1907年(明治40年)には男爵を授けられた。翌年、宮内省の官制改革により侍医頭となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%8E%84%E5%8D%BF 

 これを受けて、1899年(明治32年)1月から2月に宮中首脳が協議を行い「皇統継続」を考えれば禎子女王を皇太子妃にすることは問題であると結論付け、3月22日に婚約内定が取り消された(大正天皇婚約解消事件)。その後、他の妃候補の検討が進められたが、体が丈夫で性格も悪くないという理由で消去法により旧摂関家出身の九条節子が妃候補に浮上。1899年8月、九条節子が皇太子妃に内定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
と、5年もの時間をかけて慎重に事は運ばれた、と。
 私の想像では、1898年に、まず、山縣有朋が画策をして貞愛親王を陸軍中将に昇任させ、姫路第10師団に10月1日に赴任する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%84%9B%E8%A6%AA%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC10%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
までの期間に、どちらも陸軍軍人で、当時橋本は少将相当、池田は大佐相当、であったところ、貞愛親王から、その両名に、上官格として、自分の娘についてウソの診断を下すように「指示」させ、更にこの両名が、医師としては格下の岡に自分達の「診断」を押し付け、明治天皇に上申させた、のではなかろうか。
 (貞愛親王は、大正天皇の資質を酷評するとともに、フランスに留学した後に陸士に入学し、1899年に卒業予定だったところの、土佐藩最後の藩主の嫡男の山内豊景(とよかげ。1875~1957年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E8%B1%8A%E6%99%AF
をベタ褒めすることで、禎子に、相手の切り替えを納得させたのだろう。)
 こんな力技を近衛篤麿が行使したのは、明治天皇の次の天皇の時に日蓮主義の観点からの最終戦争を戦うことが想定されていたからだ、とも。
 こうして、1900年に九条節子が皇太子妃になると、山縣と近衛は、彼女に、山縣を継いで、本格的日蓮主義戦争の最高指揮官を務めること、そして、それはその第二フェーズの最高指揮官を務めることをも意味すること、を、理解させた上で受諾させ、所要の教育等を施した、と、私は想像している。
 成婚後、彼女が長期にわたって精神の失調をきたした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E 前掲
のは、夫の不調のせいもあるだろうが、自分に課された任務の深刻さによるところが大きいと見る。(太田)

  (イ)香淳皇后の擁立反対(失敗)

「野口幽香<(1866~1950年)は、>・・・1910年(明治43年)、東京二葉独立教会(現在:日本基督教団東中野教会)を設立する。・・・クリスチャンである野口は香淳皇后の恩師でもあり、例年の皇后誕生日(3月6日)には皇居に招かれ歓談していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E5%B9%BD%E9%A6%99
 「1915年(大正4年)、学習院女学部中学科進学。前年1914年(大正3年)4月9日に崩御した昭憲皇太后<(注33)>の遺志によって、1915年(大正4年)夏に迪宮裕仁親王が学友らと箱根の神山登山をした際、良子女王は同地の宮内旅館での見送りの一員に加わった。

 (注33)実母民子は「公卿・一条忠香の側室。・・・父は一条家典医の新畑種成。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%95%91%E6%B0%91%E5%AD%90
 「照憲皇太后・・・は女子の洋装化について思召書を出して次のように論じている。昨今の日本女子の和装は、南北朝時代以降の戦乱期が残した悪しき名残であり、今日の文明の世に適していないばかりか、古代の日本女子の服制とも全く異なるものである。欧州服装のように身体に纏う衣と、腰から下につける裳の両方そろっているものが、古代日本の旧来の服制である。よって女性服装の西洋化は実に日本の伝統に合致するのである。・・・
 社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現:学習院女子中・高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した。慈善事業の発展に熱心で、東京慈恵医院や博愛社(現在の日本赤十字社)の発展に貢献した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E6%86%B2%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%90%8E

 1916年(大正5年)11月3日、迪宮裕仁親王の立太子の礼が行われた。この頃から、貞明皇后は学習院女学部へ、式典以外でも行啓して少女たちの態度を観察するようになった。学友達の回想では、少女たちがはしゃぎまわる中でも、良子女王は行儀よく落ち着き、また動作も機敏であったという。やがて良子女王は、上級生の方子女王や(後、李王垠妃、戦後に大韓民国国籍取得)同級生の一条朝子(後、伏見宮家の博義王妃)とともに、皇太子裕仁親王の有力な妃候補とみなされるようになる。
 英照皇太后は九条家、昭憲皇太后は一条家、貞明皇后は九条家であり、一条朝子が有力視された。しかし、方子女王は皇太子と同い年であることが、一条朝子は血縁的に近すぎることがそれぞれ懸念され、良子女王が皇太子妃に内定するに至った。・・・
 [1920年(大正9年)から1921年(大正10年)にかけて元老・山縣有朋らが]母系島津家に色盲の遺伝があり、皇太子妃として不適当として[良子女王の父の久邇宮邦彦王に婚約辞退を迫った]・・・、いわゆる”宮中某重大事件”が起こる。・・・

⇒この事件(1920~1921年)のきっかけは、陸軍軍医・草間要と山縣の主治医の予備役軍医総監平井政遒、次いで同じ判断を下したのは、(山縣がわざわざ前任者を急遽差し替えたところの)退役陸軍中将の中村雄次郎宮内大臣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%86%85%E7%9C%81
の部下である池辺棟三郎侍医頭と宮内庁御用掛の保利真直、三浦謹之助、そして更に、文部省を介して依頼がなされた佐藤三吉東大医学部長、河本重次郎東大医学部教授、三浦謹之助東大医学部教授、永井潜東大医学部教授、藤井健次郎東大理学部教授の5人、だが、最後の5人は、立憲政友会の「オーナー」格の西園寺の下で同会に入党した中橋徳五郎文部大臣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A9%8B%E5%BE%B3%E4%BA%94%E9%83%8E
からの「指示」に服さざるを得ない立場にあった上、文部省・帝大医学部は陸軍医務局と関係が深かった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%9B%BD%E5%A4%AA%E9%83%8E
とくれば、科学的には疑問符がつく話で全員が口裏合わせを行ったという疑いすら生じうる。
 現に、香淳皇后の男の子孫に色覚異常者はいなさそうなので、同皇后が色覚異常を引き起こす遺伝子を受け継いでいなかった可能性が高い。
 もっとも、当時の科学水準では、そこまで調べることは不可能だった。
 とまれ、その上、山縣に、当時のもう1人(だけ)の元老であった松方正義、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81
山縣閥の平田東助内大臣、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E6%9D%B1%E5%8A%A9
上出の中村雄次郎、更には、元帥で陸軍大将であるところの皇族筆頭の伏見宮貞愛親王、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%9B%84%E6%AC%A1%E9%83%8E
それに加えて貞明皇后までもが協力した、というのに、山縣らは敗北してしまう。
 (山縣らが良子女王を忌避するに至ったのは、裕仁親王が反日蓮主義者であるとの心証を得ていたところへ、同女王が野口幽香に心酔しており、事実上キリスト教徒になっているという情報を得たからだと思われる。
 それに加えて、同女王の(祖父の島津忠義の妾であるところの)祖母の薩摩生まれの山崎寿満子(すまこ。1850~1927年)の父親の山崎拾の素性が不詳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E5%AF%BF%E6%BA%80%E5%AD%90
で、恐らくは縄文人たる庶民(非武士)であったことも、寿満子が子供たちの養育/教育に全く関わらせてもらえなかったらしいこと
https://sheemandzu.blog.shinobi.jp/%E9%9B%91%E8%A8%98/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%85%AC%E7%88%B5%E5%AE%B6%E3%81%AE%E5%AE%AE%E5%A6%83
を知ってか知らずか、縄文人系の光格天皇家を持て余してきた山縣の脳裏を改めてよぎったのではないか、とも。
 山縣らは、天皇になった裕仁親王を掌中で転がす自信はあったが、将来の皇后からの働きかけで、対米英戦に同親王が絶対反対をするような最悪の事態を避けようとした、と。)
 久邇宮邦彦王・・当時第15師団長!・・が、マスコミまで使って山縣らに頑強に抵抗したとされているが、たった一人で山縣らに勝てるわけはなく、私は、(良子女王の人となりを直接知るに至っていたところの、皇太子の裕仁親王自身、が、邦彦王の背後にいたからこそ勝てたと考えるに至っている。
 その傍証が、当時東宮御学問所御用掛を務めていて、皇太子に倫理学を教えていて、皇太子の婚約内定後、お妃教育の一環として良子女王にも修身を教えていた、杉浦重剛、が、恐らくは裕仁親王から直接依頼を受けて遠山満等の大物民間人等にも働きかけて猛烈な抵抗運動を行ったことだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E6%9F%90%E9%87%8D%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ←全般 (太田)

 1924年(大正13年)1月7日、結婚に先立ち東宮職女官官制が制定され、女官は既婚で通勤も可能となり、典侍をはじめとする官職や源氏名も廃され、皇太子の主体的な意思により一夫一妻制を目指すこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%B7%B3%E7%9A%87%E5%90%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E6%9F%90%E9%87%8D%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ([]内)
 「<1942>年初めて、<学習院時代の恩師の>・・・野口幽香・・・は皇后からキリスト教(聖書)の講義を行うよう求められた。このことは女官長保科武子や女官伊地知幹子も支持し、皇后宮大夫広幡忠隆も尽力した。同年4月から1947年(昭和22年)まで、計15回にわたり野口から進講を受けた。」(コラム#12833)
 「昭和天皇は・・・キリスト教の関係者に占領期には50回以上会ってい<る>。なかでもフランス人神父のフロジャックとドイツ人の聖園テレジアには頻繁に会っている。フロジャックをバチカンに派遣して、向こうからは枢機卿がやってきて天皇と面会している。定期的に聖書の講義も受けていた。」
https://gendai.media/articles/-/42567?page=3
 「1949年、・・・高松宮宣仁親王が・・・国際基督教大学・・・設立準備委員会の名誉総裁に就任し<、>・・・1953年に初代学長として湯浅八郎(前同志社総長)を迎え、・・・開学に至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6
 「1959年に<現上皇と>結婚<した>・・・<上皇后>美智子はカトリックの家で育<っ>た。」
https://gendai.media/articles/-/42567?page=4

⇒対米英戦こそ、昭和天皇から消極的抵抗を受けただけで開始することができた日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者達だったが、その戦中から戦後にかけて、山縣らの懸念は現実化することになったわけであるところ、幸い、それが、対米英戦の帰趨に影響を与えることはなかった。
 なお、山縣ら・・貞明皇后もそうだ・・は、名実共の秀吉流日蓮主義でもって本格的日蓮主義戦争の第二フェーズを戦う想定をしていたので、昭和天皇の下では事実上信長流日蓮主義で第二フェーズを戦わざるを得なくなった以後においても、終戦後、天皇制が廃止されてもかまわないと腹を括っていた、と、私は見ている。
 ところが、昭和天皇のおかげで、彼らの想定、覚悟、にもかかわらず、極度に形骸化された形ながら、終戦後、天皇制は存続することができたのだ。
 もっとも、その結果は、(後述するように、)日本政府の脳死であり、日本文明のプロト日本文明への回帰だったわけだが・・。

  (ウ)日英同盟「破棄」

 この宮中某重大事件で敗北した山縣有朋だったが、翌1922(大正11)年2月に逝去するまでの間に、最後の大仕事を行っている。
 1921年11月4日の原敬首相暗殺事件を受けて、次期首相について、西園寺公望が小田原で静養中の山縣を訪問して協議をしているが、この時、併せて、日英同盟終了の可否についても両者間で協議がなされ、山縣が同盟終了の断を下した・・日英同盟の終了を定めた12月13日の四カ国条約調印を経て1923(大正12)年8月日英同盟失効。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E3%82%AB%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84
・・、と、私は想像している(コラム#14318)。
 言うまでもなく、これによって、日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者達は、そう遠くない将来に、日本が対米「英」戦争を決行する際に、対摂政殿下夫妻・・裕仁親王は1921(大正10)年11月25日から摂政
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF
・・及び英国に対するフリーハンドを得たことになる。

  (エ)輿論「扇動」

 これに加えて、私は、山縣は、西園寺への遺言で、普通選挙制度の可及的速やかな導入を指示した、と、見るに至っている。
 その狙いは、第一次世界大戦が如実に示したように、軍事強国間の戦争は文字通りの総力戦の時代になっており、そのこともあって、来るべき日蓮主義完遂最終熱戦を日本は総力戦体制で戦う必要があるところ、この戦争を担う意識を日本の全国民に持たせるためには普通選挙制度の導入が不可欠である、ということに加えて、普通選挙制度を日本に過早に導入することが日本の全国民の間でナショナリズムの普及・喚起をもたらす(注34)こと、を、山縣と西園寺が強く期待していたからだ、と思う。

 (注34)「民主的平和論(・・・ Democratic peace theory)とは、民主国家は、他の民主国家とみなす相手に対しては戦争を避ける傾向がある、という国際関係論上の主張。・・・トマス・ペイン<や>・・・イマヌエル・カントなどにより論じられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%9A%84%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%AB%96
 「しかし、戦争の歴史を調べると、民主的平和論で説明できないケースがあることが分かります。1789年のフランス革命はフランス革命戦争・ナポレオン戦争を引き起こしたように、革命や改革で民主化が実現した直後の国家は、武力紛争を開始する傾向があります。・・・
 <実>は民主化が進行した国家の多くが、深刻な政情不安に陥・・・<るので>す。これは選挙制度が導入されることで、多種多様な利害関係者が政界に入ることができるようになるためです。
 民主主義の理論では、利害関係者の対立や紛争を協議や交渉で処理する役割を政党が担うはずですが、民主化の直後は政党に十分な調整能力が備わっていない場合も多く、混乱が避けがたいものになると考えられています。・・・
 <その結果、>安定した支持基盤を確立できるイデオロギーを選択した政党以外は政界から淘汰され<てしまいます>。この際に用いられるのが民族主義(nationalism)であり、これは階級の利害、あるいは地域の利害を超え、民族としての利益を実現しようとする動員力の高いイデオロギー<だから>です・・・。
 国内の権力闘争では、エリートは自分の資産を課税から守るために、資産を持たない大衆に対して指導的地位を維持する必要があるので、国民の一体性を強調する民族主義によって、外国との利害対立に注意を向けようとすると説明されています。
https://note.com/takeuchi_kazuto/n/n07888c761273

 まず、その前史から。↓

 「<殖産興業の結果としての>工業の急速な発展に伴い、都市人口が増加しました。その結果、米の需要の急増に繋がります。さらに1917年に「ロシア革命」が発生すると、状況は一層悪化していきます。ロシア革命に対する「シベリア干渉戦争(シベリア出兵)」によって軍需米の大量需要が見込まれるようになると、商人の買い占めや地主の売り惜しみが起こりました。そして1918年7月、・・・「米騒動」<が起き、>・・・結果、寺内内閣は米騒動の責任を取って総辞職することとな<ります。>・・・元老たちは、・・・最初の本格的な政党内閣と呼ばれ<る>・・・原敬・・・内閣<を発足させます。>・・・
 原内閣が成立した後、1918年11月に第一次世界大戦が終結しました。
 [1919年秋には・・・<ロシア干渉戦争を1918年から始めていた連合国
https://en.wikipedia.org/wiki/Siberian_intervention
中の>英仏・・・両国はシベリア撤兵を決定した。<米国>も・・・1920年1月にシベリア撤退を決定した。しかし日本の原敬内閣は、列国の撤兵後も出兵目的を居留民保護とロシア過激派が朝鮮や満洲に影響力を伸ばすことの防止に変更することで駐兵を継続しようとした。そのため<米国>などから日本への不信感が高まり、日本国内でも批判が高まった結果、1922年10月に日本も撤兵となった。この出兵で日本は3500名の死傷者を出し、10億円に上る戦費を消費したうえ、日米関係の悪化を招<いた。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5 ]

⇒第一次世界大戦中に、大隈内閣をして1915年1月に対華21カ条要求でもって支那を辱めさせた上、さすがに結果論ながら、上述のような成り行きで、ロシアの脅威の復活の端緒が築かれ、かつ日米関係が悪化したことで、山縣有朋らは、日本を第一次世界大戦の連合国・・英仏露伊米葡支
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
・・の中でほぼ四面楚歌状況に置く、との目論見を予定より早く達成することに成功する。
 その上、わずかに残されていたところの、英国との紐帯、について、上述のように、彼らは、第一次世界大戦後、すぐに米国を利用して解消するのだから、彼らが、最初から日本の孤立無援状態を追求していたことは明らかだろう。
 もっとも、これは、日本が(露を含む)全欧米との紐帯が切れることを意味してはいなかった。
 第一次世界大戦への日本の参戦は1914年8月23日だが、当時まだ中立国であったところの、支那と米国、は、英国に対して日本の参戦反対を伝えていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC
が、その米国は、1917年4月6日(対独。対墺は12月7日)に参戦した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AF%BE%E7%8B%AC%E5%AE%A3%E6%88%A6%E5%B8%83%E5%91%8A_(1917%E5%B9%B4)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%A2%BA%E6%B4%AA%E5%AE%A3%E6%88%A6%E5%B8%83%E5%91%8A
 その直前、連合国の戦争目標が「ドイツがそれまで征服した領土のドイツからの分離、民族自決に基づくオーストリア=ハンガリーの完全解体、トルコ(オスマン帝国)をヨーロッパから追い出すなど」という中央同盟・・要するにドイツ・・にとって屈辱的なものであることが明らかになっており
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
、かつ、既に世界一の経済大国になっていた米国の参戦により連合国の勝利が確定したこともまた山縣らには自明であったことから、敗北したドイツが、その後、その復仇を図るであろうことも彼らは読み切っていて、将来、連合国内で孤立無援の日本がそのドイツによる復仇を利用して日蓮主義完遂最終熱戦を戦うことを期し始めた、と、私は考えるに至っている次第だ。
 (第一次世界戦争の1919年のパリ講和会議中に、<英国>のハルデーン卿が、この世界戦の最大の教訓は『<英国>が次の戦争に備えねばならぬということだ』と演説した(コラム#14310)けれど、そんなことは、山縣らなら、1917年時点で既にお見通しだった筈だ、ということだ。)(太田)

 「大戦を通じて影響力を拡大した<米国>は、「新外交」の名の下に、自らの信奉するイデオロギーとして世界中に民主主義を普及させることを試みるようになっていきます。
 このようなアメリカの動向は日本にも影響を与え、大正デモクラシーは新たな局面を迎えることとなりました。民衆が政治参加以外にも、自分たちが抱えるさまざまな問題を提起し、その解決のために積極的に運動するようになったのです。・・・
 1920年<から>・・・22年<にかけての、>・・・日本労働総同盟・・・誕生<、>・・・日本農民組合・・・結成<、>・・・小日本主義・・・提唱<、>・・・全国水平社・・・設立<、>・・・新婦人協会・・・設立<、がそうです。>・・・

⇒ペリーの乱暴な来日による倒幕・維新の実現、桂・タフト日本の朝鮮半島の支配権と米国のフィリピンの支配権を相互に確認した(日露戦争中の)1905年の桂・タフト協定による朝鮮半島併合のお墨付き獲得、と、智慧が総身に回りかねる米国を利用してきた彼らは、引き続き、米国を利用しての、日本での民主主義ムードの喚起、そして、米国における日本人移民排斥法の制定(後述)による棚ぼた的な日本での反米感情の醸成、と、何度も既述したところの、米国の圧力を利用した日英同盟の廃棄、に成功するわけだ。(コラム#14339)(太田)

 当時の選挙制度は、一定額の納税を行った男性だけが投票できる「制限選挙」<であっ>た<ところ、>・・・原内閣は納税額を10円以上から3円以上に引き下げるなど、選挙法を改正してい<るが、>原は、普通選挙は社会主義の台頭を招くと考えてい・・・た・・・ため<、>1920年に国会に普選法案が提出された際、原は反対の立場を表明してい<る>。
 このように原は、普通選挙実現を求める「普選運動」とは敵対的<だっ>た。そして1920年から「戦後恐慌」が生じた影響もあり、1921年に原は東京駅で不満を抱いた青年に襲われて、殺害されてしま<っ>た。」
https://liberal-arts-guide.com/taisho-democracy/

⇒西園寺が山縣を説得して原を首相に据えたという経緯がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
ところ、西園寺としては、平民宰相の原を首相に据えれば輿論の普選/デモクラシー希求が一層高まるだろうが、外交官としてフランスに4年近く勤務経験のある原(上掲)は、フランス革命時に過早に実施された普選がナショナリズムを掻き立てナポレオン戦争にまで至る大戦争を惹起させたこと等を(フランス滞在歴の長い)自分同様熟知しており、普選の実現に抵抗を続けるであろうこと、それにより、じらされた輿論の普選/デモクラシー希求は臨界値へと引き上げられる、ということを読み切ってそうした、と、解してよいのではなかろうか。
 とまれ、普選/デモクラシー希求・・大正デモクラシー!・・は猛威を振るい、軍部、とりわけ陸軍は日本国民からの逆風に苦しみ続ける。↓(太田)

 「「大正デモクラシー」は陸軍を取り巻く社会環境も変化させた。日露戦争においては勝利の最大の功労者として威信を高めた軍隊であったが、本格的な戦闘に加わらなかった第一次世界大戦の後には、国際的な平和潮流の中で、むしろ国民的人気を低下させていく。
 人々は戦争の原因を際限のない軍拡競争に見出し、軍事力によって安全を担保しようとする政策そのものに懐疑的な視線を向けるようになっていた。軍人の権威主義的態度も「デモクラシー」の時代風潮に反するものと観念された。そうなると悲惨なのは軍人である。軍人は「国家の干城(盾と城)」から「ウォー・モンガー(戦争屋)」に転落してしまった。
 国民、特に都市部住民やインテリ層の軍人に対する視線は冷たいものとなった。新聞や雑誌は公然と軍部批判の論説を掲載するようになる。軍人はときに露骨な侮蔑や非難の対象となり、軍服姿で街を往来することを忌避するようになる。世論の変化は軍人志望者数に露骨に反映された。各種軍学校の志願者は激減し、合格しても入校を辞退するものが続出する。志願者の減少は必然的に質の低下にも結び付く。若い将校は結婚難にも苦しめられるようになった。・・・
 軍人の昇進停滞も深刻な問題となっていた。軍隊組織は典型的なピラミッド構造になっており、下位階級では膨大な人数を必要とするが、上位に進むほど急激にポストは少なくなる。そのため必然的に人事の停滞が起こりやすい宿命を負っていたが、明治期の大量採用のツケが回り、平和な「大正デモクラシー」期には深刻な昇進停滞が起っていた。・・・
 そして昇進停滞に慢性的な予算不足と物価上昇が合わさった結果、軍人は生活苦にも陥っていく。・・・
 かつては政党政治との対決路線を主導した田中義一も・・・、予備役編入後は政友会総裁に就任して二大政党制の一翼を担うことになった。・・・
 <その後の>長期の景気低迷により、相対的な低所得層を中心として陸軍の復権が(主に経済的観点から)進んでい<っ>たことは事実である<が、その>一方で、陸軍の自己変革努力にもかかわらず、少なくともエリート層や都市部においては軍人の社会的地位はほとんど改善していなかったというべきだろう。・・・
 [<そんな中、一つの「光明」は、米国で>1924年5月26日に・・・成立した移民法(Immigration Laws ジョンソン=リード法ともいう)<であり、>・・・日本からの移民<を>完全に禁止<したところ、その>・・・背景は、日露戦争後で日本が<支那>大陸への進出を開始し、<米>資本と衝突するようになったこと<から、米国内で>日本人移民に対する排斥運動が強まっていたためであった。
https://www.y-history.net/appendix/wh1502-147.html ]
 「<もう一つの「光明」は、>1926年に始まった中国国民党の蔣介石による北伐(<支那>統一を目指した軍事作戦)<が>・・・及ぼした影響<であり、>・・・平和が揺らぎ有事が近づ<いた、という>・・・緊迫<感を軍部内に醸成した。>・・・
 <更に、ダメ押しの「光明」が>中ソ紛争(1929年)<だった。>・・・<これ>は、中ソ共同経営であった満州の東支(中東)鉄道を<支那>が実力回収し、これに対してソ連が武力介入して権益を奪還した事件である<が、>・・・国際連盟・ワシントン体制の前提となってきた国際情勢が今や明確に変わりつつあることを示した。
 <支那>の権益回収の過激性と切迫性、そしてソ連の軍事的強大化<という・・>。<そして、>紛争に際して国際連盟もワシントン体制も無力を露呈し、最終的に問題を解決したのが軍事力であったという厳然たる事実である。」
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29424

⇒こうした成り行きもこれあり、ついに1925年に普通選挙法が成立し、1928年に最初の男子普通選挙が実施され、故山縣、と、最後の元老西園寺、が目論んだ通り、日本の輿論、すなわち、有権者達、とりわけ農村地域の有権者達、は、軍部、とりわけ陸軍、押しの姿勢を示すようになり、諸政党をその観点から叱咤するようになるのだ。(太田)

 話を戻すが、「<その>原は<、>1920年に議会を解散させて選挙に圧勝し<、>・・・普選法を否決した・・・。
 <しかし、上述したように、>1921年(大正10年)11月4日、原は<暗殺される。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
 「<そして、後を追うように、>1922年2月1日<には、>・・・山縣有朋<が>死<去する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B 
 「<残された>西園寺は<、私見では貞明皇后の了解を得つつ、高橋是清、加藤友三郎、山本権兵衛、と、内閣を切り替えていき、1924年1月7日に清浦圭吾内閣を成立させた。>
 政党に基盤を持たない清浦の推薦は立憲政治を期待する人々からの非難を受け、「元老の名誉は地の底に落ちた」「(西園寺は)天下の怨府」となったと評された。しかし西園寺は次の選挙(第15回衆議院議員総選挙)のために中立的な内閣が必要であると考えており、貴族院を主体とした清浦内閣に一種の選挙管理内閣としての存在をもとめた<の>であった。
 <こういう次第で、>清浦内閣は超然主義的な政治運営を行ったため、<西園寺の「期待」通り(太田)、>各政党が反清浦で団結する第二次護憲運動を呼び込むこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
 [<1924年>1月18日、退役陸軍中将三浦梧楼の斡旋によって高橋<是清>・加藤<高明>・犬養<毅>の三総裁が党首会談に臨み、]1924年(大正13年)<6月、>護憲三派は「憲政擁護、普選断行、貴族院改革」をスローガンに清浦奎吾内閣を攻撃し、選挙に圧勝し・・・た。
 これが第二次護憲運動<だ>。・・・
 護憲三派の立憲政友会も憲政会も普通選挙には積極的に賛成していたわけではなかったの<だ>が(犬養毅の国民党は賛成)、無視できない国民の声を取り込んで普通選挙法を成立させ・・・た。」
https://nihonsi-jiten.com/dai2ji-gokenundou/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%86%B2%E9%81%8B%E5%8B%95 ([]内)
 「<これは、>大正14<(1925)>年5月5日<に、>・・・加藤高明内閣によって制定された<ところの、>・・・満25才以上男子による普通選挙を規定する・・・法律<だ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%80%9A%E9%81%B8%E6%8C%99%E6%B3%95

⇒制限選挙を所与のものとしていた既成政党が、軒並み(原のような「高尚」な理由だけでなく、単なる)保身の見地から普通選挙制度の導入に消極的であったところへ、恐らくは、西園寺が、日蓮主義中枢に依頼されて汚れ役を間歇的やらされてきた三浦梧楼(注35)に、最後のご奉公的に、恐らくは資金も提供した上で、脅しも交えて、既成三大政党に普通選挙制度導入を飲ませるフィクサー役をやらせ、それに成功したのだろう。(太田)

 (注35)1847~1926年。長州藩士の陪臣の子。陸軍中将。1881年、谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準と共に連名で議会開設及び憲法制定を訴える建白書を提出、予備役に編入後4年間学習院長、1895年、在朝鮮公使時代に閔妃殺害事件を惹き起こす。後備役就任後、枢密顧問官、宮中顧問官などを歴任。政界の黒幕としても活動。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%A7%E6%A5%BC

  (オ)貞明皇后による昭和天皇・皇后掣肘

 さて、貞明皇后は、裕仁・良子夫妻を掣肘して反日蓮主義的言動を慎ませようという努力を続ける。↓

 「1921年(大正10年)に・・・皇太子裕仁親王<が>欧州訪問<から>・・・帰国後、後宮改革に着手しようとすると、一夫一妻制を推進していたはずの皇后は難色を示した。・・・
 [<後の香淳皇后は、>1918年(大正7年)1月14日、・・・皇太子裕仁親王の妃に内定し<ていたのだが、>・・・1924年(大正13年)1月26日に摂政宮皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)と<ようやく>成婚<することができた。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%B7%B3%E7%9A%87%E5%90%8E ]

 筧克彦(1872~1961年)は、藩主及びその祖先がかつて代々諏訪大社の大祝(おおほうり。最高位の神官)を務めた諏訪藩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BE
の藩士の子であったことも影響していると私は見ているのだが、「東京帝国大学法科卒業後、同大学教授となり、憲法学、法理学、行政法を専攻<し、>穂積八束、上杉慎吉らの天皇主権説を継承し、神道的国家主義を主張した。かんながら(神道)憲法学派ともよばれる。彼は古神道・仏教の研究を経て、天皇の神格を信じ、現神(あきつかみ)である万世一系の天皇が治め給(たも)う大日本帝国が人類世界を統一し、支配するのが当然であることを説き、国家主義の立場にたつ憲法学者として、第二次世界大戦前には軍部、右翼の理論的支柱として活躍した。大戦中は「大政翼賛」「八紘一宇(はっこういちう)」を講じた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AD%A7%E5%85%8B%E5%BD%A6-16000
ところ、「石原莞爾<が、>その著『戦争史大観』で、筧の『古神道大義』の読書遍歴を経て『日蓮聖人』に達したことを述べている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%A7%E5%85%8B%E5%BD%A6
ことからも分かるように、筧の思想は日蓮主義に通じるところがあったところ、「貞明皇后<が>非常に熱心な筧の支持者<にな>り、筧・・・<から>たびたび御進講を<受け、>高松宮によれば<同皇后>の遺書には筧の著作を秩父宮や三笠宮に形見分けする旨を記載していた」(上掲)ほど筧に入れ込んだ(注36)のは、自分の生んだ4兄弟を手元で育てることができる時代ではなかったために、いずれをも日蓮宗信徒にするどころか日蓮主義者にすることさえできなかったところ、昭和天皇が無信仰状態のままでは香淳皇后の影響でキリスト教徒になってしまうことも危惧し、筧が、明治政府によって宗教ではないとされた神道の宗教化を図っていることにも注目し、筧の東大法教授なる「権威」も借りて、昭和天皇らの、筧神道のシンパ化、ひいては日蓮主義者化、を図ろうとしたからだ、と、私は想像している。

 (注36)「筧が『古神道大義』を出版した1914年から、貞明皇后は筧の進講を受けてみたいと希望を持っていた<ところ、その>・・・筧・・・は1923年に秩父宮、翌1924年に貞明皇后への進講を行った<。>・・・<同年の>3<回目の進講には、>・・・内大臣牧野伸顕も・・・陪聴していた。・・・<また、>のちの三笠宮・・・の御養育掛長であった田内三吉<は、>・・・全10回のうち最低でも7回は・・・進講に出席していた<。>」(西田彰一「筧克彦の皇族論について」)
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no107_01.pdf

 「注36」も踏まえれば、貞明皇后が、当時摂政だった裕仁親王の3人の弟達には、筧ないし筧の思想に親しませることには成功しつつも、肝心の裕仁親王に関してはそんなことにすら失敗したらしいこと、と、どうやら、本件についても黒幕は牧野伸顕だったらしいこと、が、ぷんぷん匂ってくる。
 なお、「二六年十月、すなわち裕仁が病身の大正天皇の「摂政」となって五年、大正天皇が没する二ヵ月前に、伝承では事実上の女帝であった神功皇后を天皇の列に加えないとする詔書が渙発された<ところ、>それは神功の記憶の浮上とともに、貞明が将来「西太后」化して「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」を行うことを恐れた元老らの意志のあらわれとも考えられる」
https://gunzo.kodansha.co.jp/39016/39848.html
とされているが、話は逆で、貞明皇后が、大正天皇が無能力になって摂政が設置されて以来、「「垂簾聴政」を行」ってきていたところ、大正天皇が崩御し、摂政が新天皇になってからも事実上その状態を続かせることが、西園寺らの意志であったので、そのことを隠蔽するための隠喩的措置だった、と私は見ている。
 さて、「宮中で仕える女官長や女官が実際に<貞明皇后と良子女王との>衝突を目撃したのは、大正天皇崩御<(1926年12月25日)>の数ヶ月前、すでに摂政となっていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)と同妃良子(香淳皇后)夫妻が療養先である葉山御用邸に見舞いに訪れた際である。皇太子妃良子が姑である皇后節子の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、「二人は嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまった。・・・
 「貞明皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであった」と囁かれる。・・・
 皇太后はしばし政治にも介入したようで、2・26事件後に組閣された広田広毅内閣の閣僚を呼んで単独で会ったり、日中戦争で行き詰っていた近衛文麿を激励したとい・・・う。
 終戦前、沼津の御用邸で過ごしていた貞明皇后と接触の深かった山本玄峰老師は田中清玄らに、「皇太后様は、戦争でこれ以上国民に苦しみを与えたくないと、いかい(=大変)心を痛めてござるわ」ともらしていた<が、> 一方で皇太后は・・・最後まで戦争の勝利を祈る姿勢を崩しておらず<(注37)>、・・・昭和天皇は戦争末期には皇太后に会うことを恐れていたとも言われている。

 (注37)「貞明皇后<は、>・・・戦争の行く末については、支那事変の時から、勝てるとは考えていなかった、という証言が紹介されている。証言者は関屋貞三郎元宮内次官の夫人・関屋衣子である。湯浅倉平内大臣や宮様方にそう話していたというのだ。」
https://www.bookbang.jp/review/article/551261
 これは、軍事的には負ける、という趣旨であり、「しかし、戦争目的は達成できる」までは言わなかったということだろう。

 大戦末期、貞明皇后の大宮御所を軽井沢(旧末松謙澄別荘)へ移転させる案が浮上し、別荘の改修工事が急ピッチですすめられていた。1945年5月には東京の大宮御所が空襲により焼失し、同年7月には沼津御用邸も焼失。皇太后は直前まで天皇らとともに東京に残ることを望んだが、皇室内での直々の説得もあって最終的には<将来における>軽井沢への疎開を了承した。6月14日に疎開を勧め<るとともに、近く終戦の運びとせざるをえないことについて了解を得る(太田)>ために昭和天皇は大宮御所を訪問するのだが、天皇は訪問直前に緊張のあまり嘔吐し、翌日には終日寝込んだという。
 ちなみに、貞明皇后が<実際に>疎開したのは終戦後であり、それまで東京にとどまったのは、日蓮主義完遂本格戦争の総指揮官として、終戦までは、杉山元らから適時適切に直接報告を受ける形で見届けた上で終戦の了解を与えたいとの責任感からだったと思われる。(コラム#14397)
 天皇は戦争末期の1945年(昭和20年)の7月30日に宇佐神宮、8月2日に香椎宮に勅使として水谷公揖を、8月1日には埼玉県大宮の氷川神社に勅使・本居弥生を派遣して敵国撃破を祈願したが、この勅使派遣には皇太后の意向があったと見られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E

 この勅使派遣についてだが、「宇佐神宮は「主祭神はの3柱。一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) – 誉田別尊(応神天皇)とする。二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) – 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする。三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) – 別名として息長足姫命とも。主神は、一之御殿に祀られている八幡大神の応神天皇であるが、ただ実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神であり、なぜそうなっているのかは謎とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%A5%9E%E5%AE%AE
香椎宮は「仲哀天皇・神功皇后の神霊を祀<っているところ、>」[仲哀天皇2年、1月に立后。天皇の九州熊襲征伐に随伴する。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。『古事記』分注の没年干支では仲哀天皇の崩御は西暦362年に比定される。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。翌年、仲哀天皇の嫡男、次男である麛坂皇子、忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利し、そのまま都に凱旋した。この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれ]、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%A4%8E%E5%AE%AE (「」内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E ([]内)
そして、氷川神社は「主祭神は・・・須佐之男命(すさのおのみこと) 稲田姫命(いなだひめのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと)・・・3柱。・・・クシナダヒメの変身した櫛は、クシナダヒメが本来有していた女性としての生命力に加えて櫛の呪力を合わせ持ち、さらに体の材質まで竹に変化することで竹の材質自体が持つ生命力も合わせ持つことになり、魔的存在たるヤマタノオロチに対し、強力な武器の一つになったと考えられる」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE
ということから、貞明皇后は、格式が高い諸神社の中で、事実上、女性が主祭神である三社に勅使を派遣させたわけであり、これは、本格的日蓮主義戦争で勝利する目途がたったことを踏まえ、その勝利の完全達成(戦争目的の完遂)を祈念させると共に、この戦争の第二フェーズの最高指揮官が自分であったことを後世の誰かが察知する手掛かりを残した、ということだったに違いないこと、これには、牧野伸顕の助言があったのではないか、ということについて、先に既に触れたところだ。
 (1945年5月9日のドイツの降伏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E6%88%A6%E7%B7%9A%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%B5%82%E6%88%A6_(%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6)
を踏まえ、杉山元第1総軍司令官、梅津美治郎参謀総長、阿南惟幾陸軍大臣らが、戦況分析の再確認的擦り合わせを行い、ドイツの降伏を含め、先の大戦の進展はおおむね予想通りであり、従って日本の戦争目的の達成はほぼ間違いないとの結論を出した上で、牧野伸顕に対し、貞明皇后の了解を得た上で、木戸幸一内大臣を通じ、昭和天皇に、軍部は終戦のタイミングを見極めようとしている、という情報を伝えてもらったのを受けて、昭和天皇は貞明皇后にこのような話をした、と、私は見るに至っている。
 その一つの根拠は、これも前述したことだが、翌6月に陸軍が原子爆弾開発を中止したことだ。(海軍は7月だが・・。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E9%96%8B%E7%99%BA
 これは、もはや対米抑止目的としてすらかかる開発を続ける必要はない、と、彼らが見切ったことを示している。)
 以下、蛇足ながら、昭和天皇以外の、秩父宮、高松宮、三笠宮についても、彼らの中でれっきとした日蓮主義者になったのは、筧の薫陶を直接受けた秩父宮だけだった。
 秩父宮(1902~1953年)は、陸士、陸大・・優秀な成績を収めた・・を経て、「1931年(昭和6年)11月23日より第一師団歩兵第3連隊(歩三)の中隊長を務めた。歩三時代には安藤輝三などとも交流を持ち、彼らの革新思想の影響を受けた。本庄繁の日記によると、この頃に秩父宮は昭和天皇に対して親政の必要を説き、憲法停止も考えるべきと意見したため激論となった。昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して「秩父宮の考えは断じて不可」と述べ、さらにこれを受けて1932年(昭和7年)6月21日に宮内大臣官邸において、一木喜徳郎、木戸幸一、近衛文麿、原田熊雄が「秩父宮の最近の時局に対する御考がややもすれば軍国的になれる点等につき意見を交換」している。秦郁彦は谷田勇から聞いた話として、秩父宮が村中孝次に同行し北一輝の自宅を訪問していたとしている。・・・
 1936年(昭和11年)2月26日早朝に皇道派青年将校らによって二・二六事件が発生した。26日朝に高松宮宣仁親王から連絡を受けた秩父宮は倉茂周蔵連隊長の許可を受けた上で、翌日の27日に奥羽本線、羽越本線、信越本線、上越線経由で上京した。平泉澄が群馬県の水上駅まで迎えに行き、車中で一時間半ほど会談している。平泉はのちに「みちのくのつもる白雪かき分けていま日の皇子は登りますなり」と和歌を詠んだ。秩父宮は夕方に上野駅に到着して憲兵の護衛を受け参内し、昭和天皇に拝謁したが、翌日谷田には「叱られたよ」と語っている。同日に歩三の森田利八大尉を介して青年将校らに自決せよと伝えた。『木戸幸一日記』によると、昭和天皇は「秩父宮は五・一五事件の時よりは余程宜しくなった」と広幡忠隆侍従次長に述べている。・・・
 日独伊三国同盟の締結が議論されていた1939年(昭和14年)、同盟に消極的な兄・昭和天皇に対して週に3度参内して締結を勧めたが、「この問題については直接宮には答えぬ」と天皇に突っぱねられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E5%AE%AE%E9%9B%8D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
という調子だった。
 高松宮(1905~1987年)、と、三笠宮(1915~2016年)については省略する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%AE%AE%E5%AE%A3%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%AC%A0%E5%AE%AE%E5%B4%87%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 なお、「<明仁>皇太子は皇后宮職の管轄に入ったため、養育の責任者は広幡忠隆皇后宮大夫(侍従次長)となった。皇太子の教育方針は、広幡を中心に牧野伸顕内大臣、湯浅倉平宮相などが検討を行った。昭和天皇は、皇太子を、しばらくは内親王と同じく、宮城内の呉竹寮で育てたかったようである。しかし、元老西園寺公望は、すでに1934年6月9日に・・・親子別居を主張した。皇太后も皇太子は天皇個人の子供ではないとして反対した。
 1934年10月31日、木戸幸一内大臣秘書官長は西園寺に「御誕生御一年後、次の御誕生日迄の間に方針を決定解決すること、赤坂離宮にてご生活のこと等を決定したる」と話しており、親子別居はすでに既定路線になっていた。」
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/18839/0201000108.pdf
ということから、西園寺と貞明皇后がタッグを組んで、明仁皇太子を昭和天皇夫妻の影響下で育つことを妨げようと努力したことが分かる。

 (カ)明治天皇の最後の抵抗を巡って

 ところで、明治天皇が京都への埋葬を希望したのは、日蓮主義勢力が牛耳る維新政府の中枢である東京を忌避したからだ、と、私は見るに至っている。↓

 「東京で生涯を終えた天皇の陵が京都にあることに違和感を持つ方もおられるかもしれません。明治天皇陵が京都にある理由は、「生まれ故郷である京都の地で眠りたい」という天皇の生前の意志によるとされています。」
https://www.histrip.jp/170329kyoto-fushimi-2/

 但し、同天皇が、京都のどこへ埋葬されたいかを語ったことはない。↓

 「かつて伏見に住んでいた文学者・稲垣足穂の著作「武将の街」に・・・「明治10年頃、青年皇帝は陸軍大演習のついでに桃山城<(伏見城)>址に立ち寄り『ここは良い。この森を買っておくがよいぞ』と髭を撫でながら云いつけた‥」と書いている。
 近ごろ、宮内庁の陵墓監にこの話の真偽をたずねると、大演習か観艦式かは不明だが、その話は本当だそうである。
 したがって明治45年(1912年)7月30日、天皇の崩御にのぞみこの話が出て、陵墓に指定されたのである。」
https://furafurakyoto.com/momoyamagoryo/

 この同天皇の戯言を奇貨として、旧伏見城・・豊臣秀吉の最後の居城!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E
・・の本丸跡に明治天皇陵を作ったのが、私が日蓮主義者だと見ている閑院宮載仁親王であり、これは、同天皇の意に反しても、日蓮主義のいわば広告塔を死後も務めさせるのが目的であった・・日蓮主義関係者にはそれが分かる・・、と、見て良いのではなかろうか。↓

 「閑院宮載仁親王殿下には、宮内省諸陵頭並に内匠寮諸員を隨へさせられ、炎暑を冒して御躬(みずか)ら陵寢の豫定地桃山方面の實地踏査を遂げさせられ、伏見大喪使總裁宮殿下と御詮議の後、陵域を伏見桃山と御決定になつた。・・・
 豊公はこの地に城閣樓殿[・・伏見城の本丸・・]を築き、その結構と輪奐の壯麗さは我が國美術の一期を劃(かく)するものであつたのに不幸慶長七年兵燹(へいせん)の爲烏有に歸し、爾來獨り三夜の莊の小閣がこの風光を擅にし來つた外、疎林肅條(そりんしょうじょう)、雜草離々、徒に往時を偲ぶのみであつたが、素より天の爲したる絶勝の境、こゝを 明治天皇の陵域に定められたのは國民等しくその選に欽服したのであつた。」
https://www.obayashi.co.jp/chronicle/yoshigoroden/t2c33.html
http://nmiya.my.coocan.jp/2211fusimimomoyam.html ([]内)

 閑院宮載仁親王は、それだけではまだ不足であると考え、日蓮主義のいわばご先祖様である、桓武天皇構想を作り、完遂して行ったところの、桓武天皇から始まる復活天智朝の嫡流に明治天皇が位置づけられる・・これも、日蓮主義関係者には分かる・・ことにした、というわけだ。↓

 「当時、陵墓の形状に関する決まりがない中で選ばれた陵墓の形状は「上円下方墳」です。上下に分かれた墳丘のうち、下は方形でその上が円形という形状の墳墓。この形は、京都にある天皇陵の中で長らく上円下方墳とされていた天智天皇陵に則って作られたそうです。」
https://www.histrip.jp/170329kyoto-fushimi-2/ 前掲
 「(なお現在では、天智天皇陵は円形部分が実は八角形ということが分かり、分類上は「八角墳」とされています)。明治天皇は江戸から明治へと時代の画期にあたる天皇であり、本来であれば神武天皇の陵墓に倣うべきとの声もありましたが、現実には神武天皇陵は姿が無く、また聖帝と讃えられた仁徳陵に倣うのは規模大きすぎました。そこで、同じく時代の画期である大化の改新を成し遂げた天智天皇の陵墓に倣うことになりました。」
https://www.kyoto-tabiya.com/2014/08/15/39345/

 下掲の引用最終センテンスは誤りであり、典拠はないはずだ。
 (いずれにせよ、明治天皇が東京での「仕事」をいかにいやいややっていたかが伺える。)↓

 「「己は京都に生れて又京都で育つたから京都は大変好きだ、京都へ行くと東京に帰りたいとも無い気持ちがする、夫故に己は京都へ行かぬ、東京は帝都にして大切の地だから東京の地は離れない、国家の為にも離れてはならぬ」(『明治神宮奉賛会通信』第4号附録(大正5(1916)年4月))
 生前、明治天皇が宮内大臣に伝えていた言葉だという。・・・
 陵墓は京都の伏見桃山に内定していた。」
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/260011

 念には念を入れ、同じ日蓮主義者として、澁澤榮一は、閑院宮載仁親王と連携して、肉体こそ京都に埋葬した明治天皇の魂魄を東京に封じ込めようとしたのだろう。↓

 「<澁澤>のもとには崩御の翌日から、『もし明治天皇の亡骸が京都に帰ってしまうのであれば、自分が線路に横たわってでも止めたい』と陳情に訪れる人があったといます」と、今泉さんは当時の東京市民の熱の入りようを微苦笑交じりに説明する。そして、「陵墓が無理ならば神社を造営することはできないかと舵を切り直した。ここから<澁澤>をはじめとした民間有志による運動が本格化していきます」と続ける。・・・
 <澁澤>は造営方法に関して、内苑は国費でまかない、外苑は国民による献金で作ると明言しました。実際、外苑は「明治神宮奉賛会」なる民間団体が全国から募金活動を行い、建設されるにいたりました。当初の目標金額だった450万円を大きく上回る700万円が寄せられたという事実に鑑みても、いかに民間有志によって明治神宮が造営されていったかがうかがい知れます」・・・
 大正3(1914)年4月11日。昭憲皇太后が崩御したことを受け、明治天皇とともに皇后も祭神として祀られることが決まる。翌年、正式に明治神宮の創建が発表された。」(上掲)

  オ 昭和天皇による日本文明否定

  (ア)戦前:プロト日本文明回帰布石

・「昭和天皇が、軍人上がりの田中義一首相・・元陸軍大臣・・が、「軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたにもかかわらず、1929年(昭和4年)6月27日に・・・関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であったと<昭和天皇>に奏上したところ、天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問し<、>このあと奥に入った天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」との旨を述べたが、これを鈴木が田中に伝えてしまったところ、田中は涙を流して恐懼し、7月2日に内閣総辞職した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80
 ・・・これが「大事件」になったのは、田中が恐懼死してしまった(上掲)からだが、この「大事件」は、ずっと以前にも指摘した(コラム#省略)ように、私の言う縄文モードの時代が到来しつつあることを、当時の日本人の多くに感づかせ、この趨勢を促進したに違いない、と思う。」(コラム#12208)
 これは、陸軍で日蓮主義者が暗躍していることを不快に思っていた昭和天皇が、海軍将官の鈴木と相談の上、鈴木に言わせたのだろう。
 また、昭和天皇は、自分の反日蓮主義を直接注入することができなかったところの、明仁皇太子に、学習院での教育を通じて反日蓮主義を注入させようとする。
 「<恐らく、昭和天皇の指示の下、>松平恒雄宮内大臣は、1936年5月6日に元老西園寺公望の秘書である原田熊雄に対し、学習院の・・・院長として野村吉三郎の起用を示唆した。翌年3月に木戸幸一宗秩寮<(注38)>総裁は松平に対し、学習院長に野村を起用するための交渉を行うことを勧めた。

 (注38)宗秩寮(そうちつりょう<。>Bureau of Peerage)は、・・・宮内省の内部部局の一つであり、皇族、皇族会議、朝鮮王公族、爵位、華族、朝鮮貴族、また有位者に関する事務を掌る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E7%A7%A9%E5%AF%AE

 そして野村は松平の要請を受諾し、4月に学習院長に就任したのである。野村は・・・「乃木式教育の復活」を目指して院内刷新を図ろうとした。

⇒「乃木式教育」とは、要するに反戦争教育なのであって、恐らく、昭和天皇は、直接、野村に、指示したのではなかろうか。(太田)

 しかし、<ロ>ーズベルト米大統領とも親交のある野村を、当時の社会状況は放っておかなかった。すぐに、駐米大使に起用しようとする動きなどが起こり、1939年9月14日、阿部信行首相兼外相から、<欧州>での第二次世界大戦勃発による情勢に対応するために、専任の外相への就任を要請された。野村は皇太子入学一年前に院長が代わるべきではないとして一度は拒否するが、海軍長老の鈴木貫太郎、岡田啓介、米内光政は外相就任を強く勧め、また昭和天皇も許可したので、野村は急遽学習院長を辞任することになった。後任には同じ海軍の山梨勝之進大将が就任した。野村が外相に就任した9月25日の前日には、すでに海軍から湯浅倉平内大臣に山梨を推薦するとの希望が出されており、原田や米内も賛成している。また山梨自身は松平宮相と米内に推薦されて海軍を代表して就任したとのちに回顧しており、海軍からの登用を前提にしていたことは間違いないと思われる。・・・
 <また、>国際感覚のある人物、とくに英米協調派に属する人物を選んでいる点が挙げられる。野村はパリ講和会議、ワシントン会議に相次いで随員として参加しており、原田も野村のことを条約派と考えていた。また山梨は、ロンドン海軍軍縮会議時の海軍次官として条約の成立に貢献したために、後の条約派一掃人事によって予備役に編入されている。さらに、双方とも海軍出身者である。前述したが野村から山梨への交代の際も、陸軍からは全く起用する意志がみられない。その意味では、当時の軍国主義的風潮からは距離のある人物を選ぼうとしていたように見える。・・・
 軍人出身の傅育官は1944年7月に任官した黒木(当時は西郷)従達海軍主計大尉のみであるが、パラオ沖で乗船が撃沈されるなどの実戦を経験していたとはいえ、東京帝国大学卒で三菱重工に入社し、その後に海軍短期現役主計士官となった人物であり、海軍兵学校卒の軍人ではなかった。1945年4月になってから、将来のお付き武官就任の含みで、高杉善治陸軍中佐が学習院御用掛として疎開中の日光へ赴任した。しかし高杉が山梨学習院長から聞いた話によると、天皇は自分が幼年時に任官した経験から、あまり幼少の頃から任官することは望ましくないと考えていたようである。」
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/18839/0201000108.pdf 前掲

⇒昭和天皇は、明仁皇太子の傅育官に、海軍軍人だが事実上の文官を起用し、陸軍軍人で同様の者の起用も可能であったにもかかわらず、陸軍軍人を徹底的に忌避したわけだ。
 戦後日本において、海軍善玉陸軍悪玉観念が確立したのは、昭和天皇のせいだと言ってよいのではないか。
 但し、この時期の昭和天皇の海軍びいきは、将来の終戦、その更に将来の軍の廃止をにらんだところの、陸海軍に楔を打ち込むことを目的とした昭和天皇の策略であったという面も我々は忘れてはなるまい。(太田)

 実際、「昭和天皇は、自分の長男で皇太子の明仁、及び明仁の後を襲うことになるそれ以降の諸天皇が、(<日本の陸海軍の最高司令官>として)聖断を下さなければならない立場になることを回避させる<ために、軍人にはせず、軍との関係を絶たせる>ことを<決意>して、皇族身位令第十七条皇太子皇太孫ハ満十年ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス 親王王ハ満十八年ニ達シタル後特別ノ事由アル場合ヲ除クノ外陸軍又ハ海軍ノ武官ニ任ス」
http://gyouseinet.la.coocan.jp/kenpou/koushitsu/kouzokushinirei.htm
を停止または廃止して、<1943年(昭和18年)12月23日に満十年に達した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81
後も、>明仁を陸軍及び海軍の武官に任官させなかった」(コラム#12208)
 「<また、>明仁親王の教育係として、大日本帝国陸軍の軍人を就けることを・・・拒否し<た。>」(コラム#12204)

 上述したように、「四五年六月、終戦の方針を立てた昭和天皇は貞明皇太后の説得に臨んだ。実母と会う前には緊張感から嘔吐し、面会後はまる一日寝込んだ。」(コラム#12194)・・・
 これは、昭和天皇が、近く、自分の命をかけて天皇制の維持だけを条件に連合軍に降伏し、その占領下で、日本の陸海軍は、5月に降伏したドイツの軍が(政府と共に)6月5日のベルリン宣言に基づいて解散させられた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%AE%A3%E8%A8%80_(1945%E5%B9%B4)
ように解散させられるだろうが、日本が主権を回復しても陸海軍は復活させないようにするので了解して欲しい、と、決死の覚悟で貞明皇后に話したところ、予想に反して同皇后が(日蓮主義戦争が概ね目的が完遂される形で終わるめどがたっていたことから)簡単に同意したので天皇は安堵し疲れが一気に押し寄せてきた、という光景が目に見えるようだ。
 「昭和天皇は、自分もそうであるところの北朝系の歴代天皇が、明治、大正両天皇と自分自身とを除き、軍事に直接には関わらなかったこと、かつまた、<(自分自身を含む)光格天皇家の歴代天皇が、全天皇の中で<、>とりわけ、私の言うところの縄文人的であったこと、>をも踏まえつつ、自分の代で天皇制の継続が危ぶまれるような事態に陥ったのは、日本に国軍(国家の軍隊)が存在し、(国際法上)天皇がその日本の元首である以上、天皇が直接軍隊に関わろうと関わるまいと、観念的、かつ国際的、には、天皇が、即、国軍の総司令官であるとみなされるところ、その国軍が暴走したからなのであり、日本に武装放棄・・・させれば天皇制が恒久的に継続する可能性が顕著に高まるはずであると考え、そうすることとし、但し、それだけでは非武装の日本が外国の侵略を受けて天皇制が廃止されてしまうというリスクが残るので、<当分の間は>連合国の中の世界覇権国であ<り続けるであろうところの>米国を全面的に信頼することにして、その米国に日本の国際的安全の確保を依存することとし、その担保として米国の軍隊を日本に駐留してもらおう、と<、1943年末までに>決意した、と私は考えるに至っている次第だ。」(コラム#12833)
 「戦後日本には、単なる縄文モードの深化、と、縄文モードの深化プラス日本文明からプロト日本文明への転換、の二つの選択肢を杉山元らは残してくれたところ、昭和天皇、岸信介、及びその他大勢、が、後者を意識的に選択したのであって、別段、それは、日本の戦勝の必然的結果<ではない>」(コラム#14191)ことを、我々は銘記すべきだろう。

 (イ)戦後:プロト日本文明回帰断行

〇昭和天皇

・司馬史観の先取り?

 「昭和天皇は戦後間もない1945年(昭和20年)9月9日に、栃木県の奥日光に疎開していた長男、皇太子の継宮明仁親王(現:上皇)へ送った手紙の中で、戦争の敗因について次のように書き綴っている。・・・
 「・・・我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には山縣 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた 戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」・・・」(コラム#12206)
 どうしてそんな「私信」の内容が明らかになったのかが解せないが、ホンモノであると思われ、それが、「司馬の作り上げた・・・「司馬史観」と評される・・・歴史観・・・の特徴としては日清・日露戦争期の日本を理想視し、(自身が参戦した)太平洋戦争期の日本を暗黒視する点であ<り、>・・・右派からは自虐史観の土台になったとして・・・批判されることがある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
ところの、この司馬史観そのもの、であることから、プロト日本文明以来の、天皇の抱懐する理念が、公表非公表のいかんを問わず、日本社会を規定していく、という伝統は、(前述の海軍善玉陸軍悪玉観念もそうだが、)戦後日本においても生きている、と、言えよう。
 但し、(海軍善玉陸軍悪玉観念のところも申し上げたように、)昭和天皇の本当の史観は「日清・日露戦争期の日本を理想視し、・・・太平洋戦争期の日本を暗黒視する・・・司馬史観」
https://ja.m.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
とは全く異なり、戊辰戦争以来の日本の戦前史における諸戦争全てを暗黒視するものであったことを忘れてはならない。

・米国迎合

 「終戦翌年の1946年(昭和21年)4月より、学習院大学英文科教授のイギリス人であるレジナルド・ブライス<(注39)>を、<皇太子の>英語の家庭教師として迎える。

 (注39)Reginald Horace Blyth(1898~1964年)。「<イギリスで>生まれる。第一次世界大戦のさなかに良心的兵役拒否者として<処罰される。>・・・ロンドン大学・・・卒業。この頃より菜食主義者となり、生涯菜食を続けた。・・・1925年、ブライスは日本統治下の朝鮮に渡り、京城帝国大学英文科の助教授となる。・・・妙心寺京城別院禅師・華山大義について禅を学ぶ。・・・金沢に移り第四高等学校(現・金沢大学)の英語教官となる。第二次世界大戦が勃発すると、ブライスは敵性外国人として収容される。日本支持を表明し、日本国籍を取得しようとしたが却下された。・・・戦後、ブライスは平和への円滑な移行のため日米両当局と協力し精力的に活動した。1946年4月より皇太子の英語教師として雇われ、皇室との関りは亡くなる直前の1964年5月まで続いた。皇室との連絡調整役を務め、またブライスの親友で連合国総司令部民間情報教育局に勤務していた陸軍中佐ハロルド・ヘンダーソンHarold Gould Hendersonとともに昭和天皇の人間宣言起草に加わった。1946年、学習院大学英文科教授となり、当時の皇太子に英語を教えている。禅の思想と日本の詩歌、特に俳句が西洋に広められたのはブライスの功績が大きい。1954年、東京大学より文学博士号を受ける。・・・
 鈴木大拙<は、>・・・終生の友<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9

 また、同年10月から1950年(昭和25年)12月まで、父・昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ばせる」という新しい皇太子への教育方針に従い、<米国>の・・・エリザベス・ヴァイニング<(注40)>(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81 ・・・

 (注40)「裕仁は、平和理念としてのキリスト教に関心を示し、1946年3月に日本を訪れたアメリカの教育使節団の団長、ジョージ・ストッダート博士に会った際に、裕仁自ら明仁親王のための家庭教師を斡旋してくれるように依頼した。その条件は、「狂信的ではない女性のキリスト教徒であり、日本ずれしていない人」というものだった。・・・
 クエーカー教<徒で>・・・[児童文学家の]アメリカ・フレンズ奉仕団広報部に勤務<していた彼女は、>1946年、GHQによって皇太子明仁親王の家庭教師に選ばれ来日し、少年時代の皇太子と義宮正仁親王(現:常陸宮正仁親王)をはじめ、その姉弟らに英語教育などを施すなどした。また、学習院大学や津田塾大学においても講義などを行なった。・・・任期が延長され、その期間は4年に及んだ。
 1969年6月19日、クェーカー行動委員会のベトナム戦争反戦デモに参加し、ワシントンの米議会議事堂前で逮捕されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0
https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Gray_Vining ([]内)

 要するに、昭和天皇は、2人ともインテリだが、日本人以上に日本人的だったイギリス人男性のブライスをWASPの米国人女性で置き換えたわけだ。
 (ちなみに、大正天皇は青年時代にフランス人女性と日本人男性から個人フランス語教育を受けている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87
が、昭和天皇は個人語学教育を受けていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87 )
 狙いは、昭和天皇が、主権を委ねようと決意した米国に対して、恭順の姿勢を示すと共に、皇太子にもまた恭順の姿勢を、しかもより自然な形で示し続けさせるため、皇太子を一定程度アメリカナイズするところにあったと見てよかろう。
 これは、占領軍当局の思惑にも合致した。
https://prideandhistory.jp/2016/11/29/post_271/
 この昭和天皇の姿勢は一貫しており、1951年(昭和26年)1月から2月にかけて訪日した米国のダレス・・・(John Foster Dulles)特使」
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000092063&page=ref_view
「に向かって、<米国>の条件に沿う形での基地貸与に「衷心からの同意」を表明している。・・・米軍の駐留に基地の提供を求める<ダレスに対して、当時の首相の>吉田<が>基地不要論を唱え<て抵抗していたにもかかわらず、だ。>」(コラム#12833)
 (吉田は日本が主権を回復する前にマッカーサーに再軍備指令を出させようとしたがマッカーサーの突然の解任によって果たせなかった(コラム#12833)のだが、主権回復した直後の当時、自分の発意で再軍備のために必要十分な憲法改正を行うのは世論の動向から不可能との認識から、ダレスの再軍備要求を拒否した上で、米軍駐留を認めない日米安保条約を締結することさえできれば、早晩、日米安保に実効性なしとして日本国内で再軍備機運が高まるはずだ、という目論見だったと思われるが、この首相、すなわち、日本政府、の目論見を、まだまだ対米的かつ対国内的に戦前のオーラを帯びていた昭和天皇が粉砕したわけだ。)
 ちなみに、これ以上ない対米迎合だと私は思うが、、「1975年10月31日、・・・公式記者会見の席上、天皇裕仁は、広島の原爆被災についてきかれ、「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。」と発言している。
https://ameblo.jp/hirai-h/entry-11917515735.html 

・靖国神社親拝停止

 靖国神社は、本格的日蓮主義戦争従軍犠牲者を祀る神社であり、例えば、元寇はもとより、秀吉の朝鮮出兵の戦没者も祀られていない。

 「靖国神社」の起源は、文久二年(一八六二)に「安政の大獄」の犠牲者の慰霊を京都・東山の霊明舎で行い、翌年、京都・祇園社(現在の八坂神社)の境内に小さな祠を建てたことに始まる。<これは、>「招魂の祭り」場としてあって、恒久的な神社ではない。・・・

⇒靖国神社の起源は戦死者ではなく、戦死者を含むところの「殉難者」であったこと、かつまた、軍人、軍属等の概念が導入される前であったこと、を銘記すべきだろう。
 また、本格的日蓮主義戦争従軍犠牲者を祀る神社だからこそ、祭神に「第一次インドシナ戦争などの「太平洋戦争後のアジア独立戦争」で戦没した者も含む」。(太田)

 ちなみに「招魂」とは、「神道」のものではなく、儒教的祭祀、「葬礼」の一部としてあった(『礼記』『儀礼』)。それが古代日本に入り、陰陽道祭祀として、おもに病気治療、延命長寿を目的に行われてきたものである。・・・
 [<18>68年6月江戸城内で戊辰戦争戦没者の招魂祭を,7月には京都河東操練場で招魂慰霊の祭典をそれぞれ執行した。大村益次郎の尽力で69年に勅命により東京招魂社を九段坂上に設置し,鳥羽・伏見より箱館戦争にいたるまでの戊辰戦争戦没者を合祀した。79年東京招魂社は別格官幣社靖国神社となる。
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%8B%9B%E9%AD%82%E7%A4%BE-1375716#goog_rewarded ]

⇒靖国神社の旧名称が東京招魂社であり、「招魂」という言葉を「招魂の祭り」からとっている以上、祭神に、戦死者ではないところの、「殉難者」、を含めないことはありえない。実際、東京裁判以外の連合国の裁判にかけられ処刑されたBC級戦犯「殉難者」達も靖国神社に何の問題もなく合祀されている。(太田)

 そして明治十二年(一八七九)六月に、「東京招魂社」は「別格官幣社・靖国神社」に改称され、明治二十年(一八八七)に「陸軍・海軍省」の所管とされて、神職もそこから選出するという特殊な形態をもった。それゆえ伊勢神宮をはじめ、日本国内の神社が内務省神社局の管轄下に置かれたときも、靖国神社のみは、そこから独立した陸軍・海軍省管轄の神社の形を維持したのである。・・・
 <但し、>創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括した<。>・・・
 あらためて注目されるのは、内務省神社局の管轄に置かれたもろもろの神社が「神道」としての宗教性を奪われ、喪失していくなかで、靖国神社のみは、その規制の枠組みから自由であったところだ。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/64/5/64_54/_pdf/-char/ja

⇒だから、靖国神社参拝は信仰の自由だ、という言い方そのものは間違ってはいないわけだ。(太田)

 「嘉永6年(1853年)のペリー来航(いわゆる「黒船来航」)以降の日本の国内外の事変・戦争等、天皇を頂点とした国家体制のために殉じた軍人、軍属等<(注41)>の戦没者を「英霊」として祀り、その柱数(柱(はしら)は神を数える単位)は2004年(平成16年)10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ。

 (注41)「軍属は,陸海軍文官,雇員,傭人に区分される。陸海軍文官は官吏であり,ふつう文官,教官,陸士海兵等の教授,特殊技術をもつ技師,法官,通訳官,陸海軍看護婦長等をいった。雇員は官吏に準じて下士官,判任官に相当する職務を行い,傭人は司令部,官衙(かんが)学校等における労務者で,看護婦,小使,馬丁などをいった。軍属は直接戦闘行動には参加しないことになっていた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BB%8D%E5%B1%9E-58394
 「等」が何を指すのか、調べがつかなかった。

 当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する。
 本殿での祭神の神座は当初は1座であったが、1959年(昭和34年)に創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙疆神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。従って現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座である。
 日本の旧植民地出身の軍人・軍属も祭祀対象となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE

 「天皇が亡くなってから17年が過ぎた平成18<(2006)>年のことだった。7月20日付の日本経済新聞は、「A級戦犯合祀 昭和天皇が不快感」という見出しで、いわゆる「富田メモ」のことをスクープした。
 スクープしたのは、同新聞社会部の元宮内庁担当記者だった。この記者は昭和天皇のもとで宮内庁長官をつとめたことがある富田朝彦が亡くなった後、遺族から富田元長官の日記帳を借り出し、そこに昭和63<(1988)>年4月28日の日付のあるメモが貼り付けられているのを発見した。そのメモは次のようなものだった。
 私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取(ママ)までもが、筑波<(注42)>は慎重に対処してくれたと聞いたが松平<(注43)>の子の今の宮司<(注44)>がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ

 (注42)筑波藤麿(ふじまろ。1905~1978年)。「山階宮菊麿王の第3王子[。母は島津忠義の娘]・・・<東大国史学科卒。>・・・
 1946年(昭和21年)、靖国神社宮司に就任。宮司在任中に、いわゆるA級戦犯合祀が討議された。合祀はするという方針を取りつつも、時期については慎重に判断するとして、結局在任中には合祀しなかった。・・・
 〈<他方、>厚生省引揚援護局<が>・・・、1959年3月に初めてBC級戦犯の祭神名票を靖国神社に送付した<のに対し、>・・・筑波・・・はBC級戦犯の合祀には、すぐに応じ<ており、>送付翌月の4月に346柱を合祀した・・・。その後も、<筑波>は1967年10月まで4次に分けて合計984柱のBC級戦犯を合祀していった。なお戦犯の合祀にさいしては、遺族の同意は求めなかったという(合祀を望まない遺族もあった)。〉
 《<A級戦犯については、具体的には、>1965年6月30日の靖国神社の総代会で合祀する方針が決定されたが、合祀の時期は宮司に一任された<ところ、>・・・「<総代会の>ご方針に従う。時期は慎重に考慮したい」と<し、>・・・1966年(昭和41年)〈2月〉に旧厚生省からA級戦犯〈・・12名<、そ>・・・の内訳は、絞首刑になった7名(土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章、東條英機)と判決後、服役中に病死した5名(平沼騏一郎、小磯国昭、白鳥敏夫、東郷茂徳、梅津美治郎)。なお、判決を受ける前に病死した松岡洋右と永野修身の場合、この時点では、12名とは別枠で扱われていた。・・〉の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった<もの。>》
 また1965年(昭和40年)7月、鎮霊社を建立し、「嘉永6年以降、幾多の戦争・事変に起因して、非命に斃れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命を断った命達にして、靖國神社に祀られざる諸々の命の御霊」一座と「西暦1853年以降、幾多の戦争・事変に関係して、死歿した諸外国人の御霊」一座とを併せ祀った(共に無名不特定の集合霊であって、本殿の「靖國大神」とは、全く異なる)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%B3%A2%E8%97%A4%E9%BA%BF
https://www.nippon.com/ja/in-depth/a02404/ (〈〉内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E9%BA%BF%E7%8E%8B%E5%A6%83%E5%B8%B8%E5%AD%90 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF%E5%90%88%E7%A5%80%E5%95%8F%E9%A1%8C (《》内)
 (注43)松平慶民(よしたみ。1882~1948年)。「元福井藩主・松平慶永の三男<。>・・・オックスフォード大学を卒業し・・・陸軍に進み、・・・1912年に侍従に就いて以降、一貫して宮内省に奉職。・・・1946年1月16日、宮内大臣に就任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%85%B6%E6%B0%91
 (注44)松平永芳(ながよし。1915~2005年)。「祖父は松平春嶽。父は春嶽の長男・松平慶民(子爵、宮内大臣、戦後は宮内府長官)。母幸子は男爵新田忠純<・・新田義貞の子孫・・>の四女。妻充子は<当時>侍従武官<であった>侯爵醍醐忠重(海軍中将)の二女。また、尾張徳川家を継いだ侯爵徳川義親(靖国会初代会長)は叔父に当たる。・・・
 [岳父の醍醐忠重(だいご・ただしげ)海軍中将は、オランダのBC級裁判で銃殺刑となり、靖国に合祀されている。]
 1937年(昭和12年)海軍機関学校(第45期)を経て、1944年(昭和19年)10月、海軍少佐<。>・・・戦後は陸上自衛隊に入隊<するも、>・・・大病に罹り、再起後は防衛研修所戦史室勤務を経て、1968年(昭和43年)、1等陸佐で退官した。 同年より福井市立郷土歴史博物館館長を務めた。1978年(昭和53年)[3月、筑波が急逝<し、>]・・・最高裁判所元長官で英霊にこたえる会初代会長・石田和外の強い勧めで、宮司に就任した。松平は「東京裁判を否定しなければ、日本の精神復興は出来ないと思うから、いわゆるA級戦犯者の方々も祀るべきだ」と云う意見を、石田に言った。それに対して石田は、「これは国際法その他から考えて、祀ってしかるべきものだ」と明言したが故に、命がけで神社を創建の趣旨に違わない本来の姿で守ろうと決意したと云う<が、>・・・7月1日、靖国神社の第6代宮司に就任<するや、>10月17日、宮司預かりの保留であった極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯14柱(靖国神社での呼称は昭和殉難者)の合祀を実行した。・・・
 松平は、1970年代に遺族などが要望していた国家護持法案には断固反対の立場で、「戦前と異質な、戦後の国家による国家護持では危険なので、靖国神社は、国民一人一人の「個の連帯」に基づく国民護持・国民総氏子で行くべき」と強く提唱し、靖国神社を絶対に政治の渦中には巻き込まない方針を堅持した。宮司退任に当たっては、「権力に迎合・屈伏したら、創建以来の純粋性が失われてしまう」ことを懸念し、「権力の圧力を蹴とばして、切りまくる勇気をもたないと不可である」ということを、次の宮司への一番の申し送りとしたと云う。また、国家護持反対の理由として松平は、宮司就任後、明治以来の同神社の財政状況調査に着手し、同神社は当時の明治政府によって創建された一方、収入のほとんどが玉串料やお賽銭など社頭収入であり、実質的に民営である事実を強調した。更に、松平が国家護持反対を確信するに至ったのが、1985年の終戦の日の中曽根康弘元首相の公式参拝である。中曽根が「手水」を使わなかったこと、玉串を捧げなかったこと、「二礼・二拍手・一礼」の神道形式をとらなかったこと、お祓いを拒否したこと、更には参拝の際、ボディーガードを伴い行ったことを問題視、激しい憤りを抱いていたとされ。中曽根が戦後の歴代首相として初めて公式参拝と表明して参拝に訪れた際、松平は出迎えに応じることはなかった。同神社の宮司が参拝に訪れた首相を出迎えなかったのは後にも先にも1985年の終戦の日ただ一度だけである。・・・
 1992年(平成4年)3月に宮司を退き、再び福井市立郷土歴史博物館長に復帰した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%B8%E8%8A%B3
https://www.nippon.com/ja/in-depth/a02404/ 前掲([]内)

⇒「大橋武夫<(注45)>法務総裁答弁(参院法務委員会・昭和26<(1951)>年11月13日)は、>「戦争犯罪なるものは、これは国内法上におきまする犯罪と観念すべきものでは私はなかろうと思います。これは国内法におきましては、飽くまで犯罪者ではない。従って国内法の適用におきまして、これを犯罪者と扱うということは、如何なる意味においても適当でないと思うのであります」」
http://www.seisaku-center.net/node/505
 
 (注45)1904~1981年。「陸軍少将・・・の長男。・・・<一中、一高、東大法、内務省。1949年衆院選当選、>翌1950年、第3次吉田第1次改造内閣で法務総裁に抜擢された。・・・1951年には、警察予備隊担当大臣となり、同隊の育成に努めた。・・・宗教は日蓮宗。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A9%8B%E6%AD%A6%E5%A4%AB_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)

としたわけだが、これは、もちろん、大橋を(恐らくは第1次吉田内閣の時に司法大臣に起用し、そして後の第3次吉田第3次改造内閣以降重用することになるところの、)公職追放中の木村篤太郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%AF%A4%E5%A4%AA%E9%83%8E
のピンチヒッターとして)起用した吉田茂が木村や大橋と相談した上で大橋に言わしたものであり、吉田、大橋による、一種の吉田内閣日蓮主義内閣宣言だった。
 <<これを受け、第5次吉田内閣の時の1953>年8月6日、A級、B級、C級を問わず、戦犯を犯罪者と見なすのではなく、公務で亡くなった「公務死」と認定し、・・・戦犯遺族たちに遺族年金、弔慰金を支給する戦傷病者戦没者遺族等援護法の一部改正法が成立し<、B、C級の>靖国神社への合祀も・・・進められた。(注46)
https://www.sankei.com/article/20140118-67MTVP3Q5FNVBJZXEWNQVZVF5A/2/ >

 (注46)「戦後に日本および東アジア全域で実施された戦犯法廷でBC級戦争犯罪として有罪を宣告され処刑された約1,000名については<昭和殉難者>として靖国神社に合祀されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF%E5%90%88%E7%A5%80%E5%95%8F%E9%A1%8C

 ところが、(結果的にではあるが)占領軍史観とほぼ同じ近現代日本史観を抱懐していた昭和天皇は、これに腹を立て、靖国神社宮司の筑波藤麿に、A級戦犯合祀に応じないよう働きかけ、合祀を阻止してきた。
 ところが、吉田の無念の思いを共有し、受け継いできていた木村篤太郎(~1982年)は、全日本剣道連盟初代会長で1974年に「会長を退き名誉会長に就任<し、その>後任の会長<が>・・・石田和外であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%AF%A4%E5%A4%AA%E9%83%8E
ところ、この2人で靖国神社宮司の後任探しに着手し、「靖国神社国家護持貫徹国民協議会<の後>身<であるところの、>・・・靖国神社の遊就館に中央本部事務局、都道府県全てに地方本部を置き、・・・靖国神社の祭神に戦友や家族を持つ旧軍の将兵・遺族をはじめ、靖国神社が国に殉じた人々(英霊)への慰霊・顕彰の中心施設であるべきと考える人々によって構成されている・・・英霊にこたえる会<を>・・・1976年6月22日<に>・・・石田和外<を>会長と<して>・・・設立」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E9%9C%8A%E3%81%AB%E3%81%93%E3%81%9F%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BC%9A
した上で、1978年3月の筑波藤麿の死後、(以前から内々話をつけてあったと想像される)松平慶民を後任の宮司に擁立し、A級戦犯の合祀を実現させ、吉田の無念の思いを、その1967年の死
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
後11年目にしてようやく晴らしたと思われる。
 これを知った昭和天皇は、怒り狂ったに違いない。(太田)

 私とは昭和天皇のことで、松岡とは、近衛文麿内閣の外務大臣として国際連盟からの脱退、三国同盟の締結などを主導した松岡洋右のことである。白取とは、駐イタリア大使としてやはり三国同盟の締結に貢献した白鳥敏夫のことである。ともにA級戦犯として極東軍事裁判にかけられたが、松岡は裁判の途中で病死した。白鳥の方は終身禁固刑となり、服役中に病死した。

⇒当時侍従次長だった徳川義寛(注47)は、・・・「合祀のことを伝えられ、「一般にもわかって問題になるのではないか」と文句を言ったとされるが、その理由としては、「私は東條さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言った」と・・・されている。」(同氏の回想録より)
https://www.gentosha.jp/article/16194/

 (注47)1906~1996年。東大文(美学美術史)卒。帝室博物館研究員を経て1936年侍従。「尾張(名古屋)藩主徳川慶勝の孫で、実弟津軽義孝は常陸宮正仁親王妃華子の父であり、妹祥子は北白川宮永久王の妃で皇籍離脱後は香淳皇后付の女官長、皇太后宮女官長を務めた。・・・1985年(昭和60年)から1988年(昭和63年)には入江相政の後任を受けて侍従長を務め、昭和天皇に仕えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%AF%9B
 
 しかし、これは、日蓮主義家出身ながら、自身、及び、妹と姪の立場から、昭和天皇を守らなければならず、徳川は、天皇の許しを得て、天皇の意向が、形式論・・過去において類似の合祀事例があったかどうか調べがつかなったが・・によるものであって、実質論によるものではなく、いわんや、A級戦犯全員に否定的なものではないかのようにメーキングを行うことによって、しばらくの間、凌ごうとしたのだろう。(太田)

 この富田メモは、昭和天皇が靖国神社への親拝を停止したのは、A級戦犯を合祀したことにあるとするものである。新聞報道が行われた当座の段階では、メモの信憑性をめぐって議論が巻き起こり、内容を否定する人間も少なくなかった。
 しかし、その後、昭和天皇の侍従を22年間にわたってつとめた卜部亮吾の日記が平成19<(2007)>年に刊行され、その昭和63年4月28日の項目に、「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」と記されていた上、平成13年7月31日の日記にも、「朝日の岩井記者来……靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」などと記されていた(御厨貴・岩井克己監修『卜部亮吾侍従日記』全5巻、朝日新聞社)。
 徳川義寛侍従長も、歌人の岡野弘彦に対して、「(A級戦犯)の人達の魂を靖国神社へ合祀せよという意見がおこってきた時、お上はそのことに反対の考えを持っておられました」と語っている(岡野『昭和天皇御製 四季の歌』同朋社メディアプラン)。
 こうした記録がある以上、富田メモに信憑性があると考えないわけにはいかない。何より、A級戦犯が合祀されて以降、昭和天皇が靖国親拝を行っていない事実が、その点を雄弁に語っている。しかも、・・・徳川侍従長は、靖国神社の側からA級戦犯の合祀について打診を受けた際、「そんなことをしたら陛下は行かれなくなる」と伝えたというのである。
 A級戦犯合祀に踏み切った松平永芳は、宮司退任の翌年、『祖国と青年』誌の平成5<(1993)>年1月号で、「私の在任中は天皇陛下の御親拝は強いてお願いしないと決めていました」と語っている。さらに、共同通信の記者、松尾文夫に対しては、「合祀は(天皇の)御意向はわかっていたが、さからってやった」とさえ語っている(前掲『靖国神社の祭神たち』)。

⇒要するに、2007年までには、昭和天皇がA級戦犯の合祀そのものに反対であったこと・・それは論理必然的に、引き続き親拝を行わないでいるところの、上皇も今上天皇も、反対であることを意味する・・は周知の事実になったわけであり、今なお、そう断定しない者は、かつての私も含め、論外だろう。(太田)

 これは、松平元宮司が確信犯だったことを示している。彼は、A級戦犯を合祀することによって天皇の親拝が難しくなることを分かった上で、それを強行した。しかも、それが天皇の意向に逆らうことになるにもかかわらず、あえてそれを実行に移した。その点では、松平元宮司は、天皇親拝の道を自らの考えで閉ざしたことになる。・・・
 それは、かなり重大な問題であるはずである。
 ただ、それを実際に合祀を行った松平元宮司だけの責任に帰すわけにはいかない。祭神名票を送ったのは厚生省援護局である。いくらこのセクションが元軍人主体で運営されていたとは言え、国の機関であることは間違いない。A級戦犯合祀へと向けてイニシアティブをとったのは、日本国家にほかならないのである。」
https://www.gentosha.jp/article/16196/

⇒厚生省援護局は、ABC戦犯が国内法上の犯罪者ではないとの吉田内閣の決定を受け、靖国神社の要請に応じて、まず、BC級(だけ)法務死(注48)者名簿を同神社に伝達し、次いで時間をおいて、A級(BC級を含む)法務死者名簿を同神社に伝達しただけであるのに対し、単なる象徴に過ぎない存在でしかなくなっていた昭和天皇が、日本政府の決定に不服で同決定に反対する意思を側近達に表明しただけでなく、この意思を、親拝を二度と行わないという不作為の形で行動に移した、ということこそ、「かなり重大な問題」なのだ。

 (注48)「第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)を始めとした戦犯裁判による日本人・・・刑死者や収監中死亡者の死因を指す用語。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8B%99%E6%AD%BB

 ところで、「昭和天皇が靖国参拝に対し、「明治天皇のお決(め)になって(「た」の意か)お気持を逸脱するのは困る」(1988年(昭和63年)5月20日)と発言したのを書いた部分も発見され、・・・「昭和天皇が靖国神社の合祀のあり方について、明治天皇の創建の趣旨とは異なっているとの疑問を抱いていたのではないか」と判断<され>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF%E5%90%88%E7%A5%80%E5%95%8F%E9%A1%8C
についてだが、私は、昭和天皇がまだ存命中の明治天皇からその戊辰戦争観を直接聞かされていたと考えており、それは、明治天皇は父孝明天皇の公武合体路線を踏襲したかったのに、即位した1867年から1868年初にかけて事実上のクーデターが行われ、まだ15歳であった自分は抵抗するすべもなく、いやいや戊辰戦争の発動を認めさせられた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87 ←事実関係
が、こんな不正義な戦争であっても形の上で命じたのは自分なのだから、謝罪と鎮魂目的で官軍側の戦死者を祀らせることにした、といったものだった、と、私は想像している。
 そして、仮に、戊辰戦争に官軍側が敗北し、事実上のクーデターを起こした連中が幕府側に処刑されたとして、かつまた、明治天皇は、元服前後で無能力だったとされてそのまま在位した(させられた)として、処刑されたそんな連中への謝罪と鎮魂をされると思うか、と。
 蛇足ながら、「・・・昭和23年11月12日、A級戦犯25名に対して絞首刑をふくむ有罪判決が下された。その日「陛下は眼を泣き腫らして、真っ赤な顔をしておられた」(村井 宮内官)。」
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-9980845589
をどう解釈するかだが、東條英機ただ一人に対する私情(注49)がそうさせたのだろう。

 (注49)『昭和天皇独白録』には、下記のように東條を評価する言が多くみられる。
 元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝わらなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた。・・・
 東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中〻良い処があつた。・・・
 東条は平沼に云はれて<首相の>辞表を提出した。袞龍<(こんりょう)>の袖に隠れるのはいけないと云つて立派に提出したのである。私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない。只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く。・・・
 <補足すれば、東條が、>日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名である。これは近衛内閣の陸相時の開戦派的姿勢と矛盾しているようにみえるが、東條本人は、陸軍の論理よりも天皇の直接意思を絶対優先する忠心の持ち主であり、首相就任時に天皇から戦争回避の意思を直接告げられたことで東條自身が天皇の意思を最優先することを決心、昭和天皇も東條のこの性格をよく知っていたということである。首相に就任する際、あまりの重責に顔面蒼白になったという話もある。『昭和天皇独白録』で語られている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られたことからもそれが窺える<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F

 私は、東條が、日本側がどう努力しようと、米国の対日開戦意欲は変わらないことを見越したうえで、昭和天皇の信頼を勝ち取るために行った渾身の演技に昭和天皇が見事にだまされた、と、見ている。
 ———————
 「・靖国神社」の項を以上のように書き終えてから、昭和天皇家は、タテマエ上は司馬/丸山史観だが、実態は戦前史全面否定史観であることを勘案すれば、同家が、A級戦犯合祀反対である、というのもタテマエ上の話で、実は靖国神社全面否定である、と考えた方が自然であることに気付いた。
 仮に私のこのヨミが正しいとすると、昭和天皇は、靖国神社に対してA級戦犯合祀反対を伝えてあったにもかかわらず、同神社が合祀を行ったときに、周りの人々に怒ってみせつつも、内心は安堵した、ということになる。
 なぜなら、同天皇は、かねてより靖国神社参拝を永久に止めるタイミングを計っていたからであり、これを契機に参拝を止めたところ、同天皇が期待したようにそれを靖国神社そのものに対する忌避であるという受け止め方をされることは全くなく、A級戦犯合祀のせいではないかという、昭和天皇の真意とは異なる憶測がなされ、同天皇の死後も、なおこの状況が変わらまま、上皇も今上天皇も靖国神社参拝を回避できているからだ。
 そうなると、徳川義寛侍従長が侍従の時に昭和天皇のこの真意を知っていて、同族である松平永芳靖国神社宮司と示し合わせた上で同宮司がA級戦犯合祀を実行した、という可能性さえあるのではなかろうか。(太田)

・中共への宗主国移行準備

 上述の、靖国神社親拝中止にも表記の含意もあるわけだが、より明確に分かるのが下掲だ。↓

 『一九七八年八月、日中平和友好条約が締結されてのを機に、<中共>の鄧小平副首相が十月に訪日した。(中略)鄧副首相は天皇と会見した。その際、昭和天皇は鄧副首相に謝罪の言葉を口にした。そのやり取りの状況は資料によって異なるが、戦前からの昭和天皇の言動や『入江日記』の記述をふまえると、昭和天皇が会見冒頭、独断で、「わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です」と述べた上で今後の日中親善を呼びかけ、鄧副首相が衝撃をうけた、という『毎日新聞』の取材内容が正しいと判断できる。』
(古川隆久『昭和天皇』)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1490191659

 これは、戦後すぐの頃に、対米恭順姿勢を打ち出したのと同じく、対中恭順姿勢を打ち出した、ということでもある。
 (岸カルト(後述)創始者の岸信介も、かかる宗主国移行を想定していた、と、私は見ている。
 その根拠だが、一 満洲国の経済高度成長に満洲で携わった岸が、これを見本にして、同じことを、支那全土で、日本人の直接的関与なしでも支那人なら行える、と、考えたであろうこと、二、岸信介の戦後キャリアは、1956年に外相として始まり、1957年に首相就任後もしばらく外相を兼務しているが、この岸の下で、外務省内に、親中共政策を親米政策と並行して進める体制が構築されたと考えられ、北米局や条約局の主流の日米基軸派にとアジア局の親中派が対峙しつつ次第に親中派が勢力を伸ばしていく構図が確立したと考えられるところ、この岸の親中共政策が、彼の出身官庁の戦後版である通産省の貿易担当部局を通じ、通産省全省にも浸透した、と考えられこと(コラム#14333)、三 1980年代後半には、日本で一番早く、当時の通産省・・岸の出身の商工省の後継省。現在の経産省・・の私の知人の官僚達が中共の経済高度成長は本物で継続することを確信するに至っていたこと、四 落選後の私が2005年に通産省の外郭団体の貿易研修センターの雑誌に寄稿した時に、最初の中共を批判した論考(コラム#721)が忌避され、当たり障りのない内容のもの(コラム#741)で差し替えざるを得なかったほど、当時の通産省が既に中共に迎合的になっていたこと(コラム#1118)、だ。
 誤解なきよう補足するが、中共が米国の経済力を追い越し、西太平洋において、米国の軍事力を中共の軍事力が凌駕する時代になっても、(というか、どんなに日本を取り巻く安全保障環境が変わろうと、だが、)日本は絶対に再軍備させない、というのが、昭和天皇家/岸カルト(後述)の掟である以上、彼らは、いつかの時点で宗主国を米国から中共へ乗り換えざるを得なくなるとと考えていて、だから、中共には、常に宥和的に接し続けざるを得ないと腹を括り、実際、そうしてきている、と、私は見ている、ということだ。)

・再軍備反対

 「昭和26年1月24日の拝謁で・・・「今一つは再軍備の問題だ こゝで私の責任の事だが従来の様にカモフラージュでゆくかちやんと実状を話すかの問題があると思ふ 此点急に媾和が出来てあは(わ)てぬやうに考へておいて欲しい」と田島長官に求めた」
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-03.html
 [「吉田ニハ再軍備の事ハ憲法を改正するべきだといふ事を質問するやうにでもいはん方がいゝだらうネー」(52年2月18日)などと述べ]
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-08-22/2019082204_03_1.html

⇒一見良く分からない書き取り文だが、読み解いてきた前述のような光格天皇家論を踏まえれば、引用前段は、自衛隊は軍隊ではないことを自分がやっているように(後出)貫徹せよ、引用後段は、憲法改正なくして、再軍備は不可能である(、なし崩し的再軍備は不可である)、と、宣言せよ、ということだろう。(太田)

・軍部悪者論

 「昭和27年2月20日の拝謁では「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めたうえで、「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるいことがあるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しいと思ふ」と述べ、政府や国民もともに反省して二度と繰り返したくないという認識を示した・・・

⇒先の戦争について、届かぬ、つまり、行き届かぬ、要するに自分にも過失があり、国民にも軍部の専横を見過ごすという過失があったが、軍部は故意に開戦へと自分及び国民を導き敗戦をもたらした、と言っている。(太田)

 その6日後の拝謁(昭和27年2月26日)で、・・・昭和天皇が「犠牲者ニ対し同情ニ堪えないといふ感情をのべる事ハ当然であり それが政治問題ニなる事ハないと思ふが…」と述べた・・・

⇒徴兵/招集された民間人やそれ以外の民間人の犠牲者には同情するが、彼等にも上出の過失があったのだから、元首であったとはいえ、自分は彼等に謝罪はしない、という趣旨だろう。
 (支那を事実上代表する鄧小平に対して上出のように謝罪したのは、支那に日支戦争勃発に関して故意過失がなかったと昭和天皇が考えていた以上、当然だということだろう。)(太田)

 拝謁(昭和27年3月11日)でも続き、昭和天皇が「私ハあの時東條にハツキリ英米両国と袂を分つといふ事ハ実に忍びないといつたのだから」と述べたところ、田島長官が「陛下が『豈朕が志ならんや』と仰せニなりましても、結局 詔書ニ書いてある理由で 宣戦を陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたこと故 表面的ニハ陛下ニよつて戦(いくさ)が宣せられたのでありますから、志でなければ戦を宣されなければよいではないかといふ理屈ニなります」と述べた・・・

⇒その前の月に自分には過失があると言ったが、そうとすら言いきれないのではないか、という思いを明かした、ということ。(太田)

 昭和27年4月18日の拝謁では、文案への意見を求めていた吉田総理大臣から戦争への悔恨を表す一節全体を削除してほしいと求める手紙が届いたことを昭和天皇に報告します。
 田島長官は「一昨日夕方 手紙を送って参りました。処が一節全体を削除願ひたいといふ申出でありましたが それは此節であります」と述べてその一節を読み上げたあと、吉田総理大臣の反対の理由について、「折角(せっかく)今声をひそめてる御退位説を又呼びさますのではないかとの不安があるといふ事でありまして、今日(こんにち)は最早(もはや)、戦争とか、敗戦とか、いふ事はいつて頂きたいない気がする(原文ママ)、領土の問題、困苦ニなつたといふ事ハ今日申しては天皇責任論にひつかゝりが出来る気がするとの話でありました/其次の勢の赴く所以下は兎ニ角 戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険があると申すのでございます」などと説明したと記されています。・・・

⇒田島が論点ずらしをしてしまったこともあり、結局、昭和天皇には分からずじまいだったことだろうが、(岳父の牧野伸顕から杉山構想を開示され、1952年ともなれば、吉田の目から見て先の大戦に日本が勝利したことは明白になっていたことから、)吉田の真意は、勝利した戦争への悔恨などありえない、というものだった筈だ。(太田)

 昭和27年4月22日の拝謁で、・・・「木戸が巣鴨に居る。内大臣として再側近のものだ。それが戦犯といふ事ハ私ニも責任といふ論が出るのではないかと思ふ」と述べ」
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-03.html 前掲

⇒連合諸国は、自分にも本当は故意責任があると思っているが政治的計算に基づき自分を免責している、という正しい認識を昭和天皇は持っていたということ。(太田)

 「・・・記者会見で戦争責任を問われても、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、良くわかりませんから、そういう問題についてはお答ができかねます」(1975年10月31日)と回答を拒否していました。・・・」(上掲)

⇒先の大戦で日本が戦った相手国に対しては元首として責任があるが、日本国民に対しては責任はない(少なくとも故意責任はない)、と、回答したかったところを逃げたわけだ。(太田)

〇上皇

・上皇の天皇時代の不自然な慰霊の旅

 「天皇<(現明仁上皇)>皇后両陛下の・・・日程
http://www.kunaicho.go.jp/page/gonittei/top/1
・・・の中で明確に慰霊を目的としたもの(と明記されているもの)は、以下の二つ・・<米>自治領北マリアナ諸島サイパン島・・・訪問(平成17年<(2005年)>)と、
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h17america/eev-h17-america.html
パラオ・・・訪問(平成27年)
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h27palau/eev-h27-palau.html ・・
だが、・・・(・・・宿泊先には海上保安庁の大型巡視船を初めて利用<された。>・・・」
http://www.asahi.com/articles/ASH3S5GC6H3SUTIL02J.html?iref=comtop_list_nat_n02 ・・・」(コラム#7563)
 ・・・海保の船ではなく、自衛艦を使うのが旧陸海軍軍人達の慰霊という慰霊目的に照らして筋だし、この巡視船に両陛下が宿泊する部屋を設ける工事をした(典拠省略)ことも、どうせカネをかけるのなら、海上自衛隊には、例えば、迎賓艇があって、「はしだて」が1999年に就役していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%97%E3%81%A0%E3%81%A6_(%E7%89%B9%E5%8B%99%E8%89%87)
のだから、同艇を改装する方が、改装後にその部屋を別用途に活用できる・・同艇は病院船としても使用される(上掲)・・ことから、費用対効果上、より適切だったはずだ。・・・

・自衛隊の部隊・機関公式訪問回避

 そもそも、「≪昭和天皇も今上陛下(現明仁上皇)も、自衛隊の部隊や機関の公式訪問を一度もしておられない。
 今上陛下(現明仁上皇)は、≫<国内では、遅きに失したきらいはあるが、慰霊目的で平成6年に>硫黄島<にも>訪問<をされているが、それ>に続いて≪自衛隊部隊がいない≫父島訪問≪も≫されてい<るところ>、そちらでは「視察」を何か所かでされている<というのに>、≪自衛隊部隊がいる≫硫黄島ではされて<おらず、>・・・自衛隊部隊「視察」・・つまり公式訪問・・を徹底的に避けられていることが明確に分か<る>。」
 ・・・昭和・今上両天皇が、自衛隊の栄誉礼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E8%AA%89%E7%A4%BC
を単独で受礼されたことがないばかりか、日本を訪問した外国元首が自衛隊の栄誉礼を受礼する際においてまで、国際慣行に反して巡閲に同行されてこなかったこと、外国を訪問された際に、これまた国際慣行に反して、同外国軍の栄誉礼を受礼する際に、巡閲に駐在武官等の自衛官ではなく、同外国の武官を随行させてこられた<。>
http://www.sankei.com/premium/news/161105/prm1611050018-n1.html
・・・」(コラム#9370)

・司馬遼太郎史観天皇家史観宣言

 半藤一利(1930~2021年)は、このような人物だ。↓

 「<東大文(国文)卒、文藝春秋社に入社し同社専務取締役を経て文筆業。>
 太平洋戦争(大東亜戦争)当時の日本軍部(特に日本陸軍)及び靖国神社におけるA級戦犯の合祀には極めて批判的である。昭和天皇については、当時の軍部による暴走を押し留めようとしたことを肯定的に評価しているが、昭和天皇の戦争責任についても否定していない。晩年(遅くとも2015年以降)は護憲派としての活動を積極的に行っており、「憲法9条を守るのではなく育てる」のが持論であった・・・。・・・
 作家司馬遼太郎とは、半藤が『文藝春秋』編集者時代からの付き合いであり、親交が深かった。司馬の没後、関連論考・著書を発表した。また半藤は司馬が書こうとして書けなかった、『ノモンハンの夏』を執筆した。同じく長い付き合いのある秦郁彦や保阪正康との共著も多い。
 日本近代史の歴史観において、・・・2017年<に>・・・「40年史観」を提唱している。その主張は、明治以降の日本は40年ごとに興廃を繰り返しており、明治政府樹立から40年後である日露戦争で軍事大国化し、その40年後の第二次世界大戦で大敗し、さらに40年後にはバブル期の経済的絶頂をむかえ、バブル崩壊後の40年後には再び没落するという予測。その理由として、戦争による悲惨さを経験した世代が入れ替わる期間が40年ほどであるためとしている。
 2018年、<翌2019年に>上皇<となる、当時天皇であった>明仁<(平成天皇)>の推挙により悠仁親王に近代史(太平洋戦争)について進講を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E8%97%A4%E4%B8%80%E5%88%A9
 後付けで「バブル崩壊後の40年後」の「予測」をしていることはさておき、戦前史の見方は司馬史観とほぼ同じだ。
 (この2人が違うのは、司馬と違って半藤が、軍事大好き人間だった(上掲)点だけだ。)
 こんな半藤に、翌年上皇となる平成天皇が侍従を通して「秋篠宮悠仁(ひさひと)殿下に、太平洋戦争はなぜ起こったのかを、わかりやすく話してください」と依頼し、同殿下と付き添いの皇嗣に御進講をさせた。
https://friday.kodansha.co.jp/article/53220
 間違いなく、平成天皇は、歴史学者である当時の皇太子・・現在は今上天皇・・と相談の上、昭和天皇家の公定戦前史観は司馬史観であることを、皇嗣と悠仁殿下に周知させようとしたのだろう。

・備考

 「天皇家の歴史観」(コラム#214、215)を書いた時点では、上皇(当時天皇)の先の大戦観を180度逆のものとして誤解していた。
 ここで、若干の懺悔と申し開きをしておきたい。

 「<明仁天皇(当時)は、>平和であったご自分の平成の最初の15年間とお父上の昭和天皇の即位後の15年間を比較され<た。>・・・
 <そして、後者について、>まず、支那事変に至る経緯の冒頭に済南事件が挙げられていることが注目されます。つまり、事件の背景たる山東出兵や、更にこの山東出兵の背景たる南京事件ではなく、日本側が支那側から被害を受けたこの済南事件(この事件で支那側も外交官等が殺害されたと主張しているが、根拠薄弱)が冒頭に挙げられていることです。・・・
 要するに陛下は、支那において日本人が被害を受けたことが支那事変につながって行ったと示唆しておられると私は考えるのです。
 この日本側が被害者だったというスタンスは、ご発言とお答えの全体を通じて貫かれています。

⇒そうではなく、昭和天皇の先の大戦観、ひいては光格天皇家の歴史観、に照らせば、日本国民が先の大戦に積極的に賛同してしまうという過失を犯したのは、被害者感情だった、という趣旨なのであって、この被害者感情を掻き立てたのは軍部だった、と、本当は続けたかったところだった、というのが私の現在の見方だ。(太田)

 先の大戦・・・で(支那人等の死者の数がはっきりしないということもありますが、)日本人の死者の数だけを具体的に挙げられつつ、日本人も外国人も「生命が失われ」と客観的な言い方をされた上で、戦後の原爆後遺症やシベリア抑留、或いは沖縄戦での被害や沖縄の本土復帰が遅れたことに言及されており、これは「日本」の天皇だからそのような言い方をされた、という域を超え、支那事変の相手方たる<蒋介石政権>と中国共産党、とりわけ先の大戦の主たる相手方たる米国とソ連を批判されている、としか私には受け止められないのです。

⇒ここもそうではなく、先の大戦において、日本が、国民が、先の大戦の戦中から戦後にかけて、これほど大勢、不慮の死を遂げたところの、(私に言わせれば間違いだが、)大敗戦を喫した、ということを指摘しているのだ。(太田)

 これに対し、日本の国内の事件に対しては陛下の暖かいまなざしを感じます。
 「5・15事件や2・26事件があり、・・政党内閣も終わりを告げ・・首相、前首相、元首相、あわせて4人の命が奪われるという時代」の背景として「厳しい経済状況下での国民生活、冷害に苦しむ農村」を挙げておられるくだりです。」(コラム#214、215)

⇒ここは、昭和の最初の15年間の日本国内の客観的事実を振り返っているだけだろう。(太田)

 私がどうしてこんな誤った理解をしてしまったかだが、一つには、私自身天皇制に思い入れがあり、(現在は違うが)歴代天皇に敬意を抱いてきていたことが私の目を曇らせたからだろうし、二つには、引用コラムを書いた当時の私は、現在の私が批判しているぶつ切り出たとこ勝負史観から完全脱却できていなかったからではなかろうか。

〇今上天皇

・武を否定し北朝正統論を主張

 少し長いが、過去コラムから引用する。↓
 
 「<nnqItDQ6>

 ↓の今上陛下の皇室史の捉え方について<、太田さんはいかなる>感想<を>持たれますか?
 南北朝の内乱に言及した後で、北朝の諸天皇に触れ、「武ではなく文である学問を大切にされてきた」としていることが印象的です。
 仁政に意を用いることは前提として、南朝的な天皇の在り方を否定的に見て、花園天皇の示した在り方に従ってきたからこそ皇室が存続してきたと捉えられ、自らが持明院統、北朝の継承者であることを強く意識されているようにも見えます(誡太子書を取り上げているのは、自らを花園天皇に、悠仁親王を量仁親王=光厳天皇になぞらえているのかもしれません)。
 また、浄土真宗と日蓮宗では唱えない般若心経に繰り返し言及していることも気になります。
 壬申の乱への言及は結局皇統が天智系に戻ったことを、嵯峨天皇への言及は薬子の変を起こした平城天皇の系統が皇統を継がなかったことを意識しているのではないかと深読みしたくなります。
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/51
 「皇室の歴史を紐解くと,皇位が連綿と継承される中では,古代の壬申の乱や中世の南北朝の内乱など皇位継承の行方が課題となった様々な出来事がありました。
 そのような中で思い出されるのは,上皇陛下が以前に述べておられた,天皇は,伝統的に,国民と苦楽を共にするという精神的な立場に立っておられた,というお言葉です。
 このお言葉に込められた思いは,ひとり上皇陛下のみのものではなく,歴代の天皇のお考えに通じるものと思います。
 平成28年に愛知県の西尾市を訪問した折に岩瀬文庫で拝見した戦国時代の後奈良天皇の宸翰般若心経は,洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行で苦しむ人々の姿に心を痛められた天皇自らが写経され,諸国の神社や寺に奉納されたものの一つでした。
 その後,京都の醍醐寺では,後奈良天皇の般若心経を拝見し,奥書に「私は民の父母として,徳を行き渡らせることができず心を痛めている」旨の天皇の思いが記されていました。
 さらに大覚寺でも,嵯峨天皇のものと伝えられる般若心経や,後光厳天皇,後花園天皇,後奈良天皇,正親町天皇,光格天皇が自ら写経された般若心経を拝見しました。このように歴代の天皇は,人々と社会を案じつつ,国の平和と国民の安寧のために祈るお気持ちを常にお持ちであったことを改めて実感しました。
 また,武ではなく文である学問を大切にされてきたことも,天皇の歴史を考えるときに大切なことだと思います。
 例えば,鎌倉時代の花園天皇が皇太子量仁親王に宛てて書き残された,いわゆる「誡太子書」においては,まず徳を積むことの大切さを説かれ,そのためには道義や礼儀も含めた意味での学問をしなければならないと説いておられます。
 このような歴代の天皇の思いに,深く心を動かされました。
 私は,過去に天皇の書き残された宸翰などから得られる教えを,天皇としての責務を果たしていく上での道標の一つとして大切にしたいと考えています。
 そして,その思いと共に皇位を受け継いでこられた,歴代の天皇のなさりようを心にとどめ,研鑽を積みつつ,国民を思い,国民に寄り添いながら,象徴としての務めを果たすべく,なお一層努めてまいりたいと思っています。」

 <太田>

 今上天皇の壬申の乱への言及については、記者達からの質問状の中に、「皇室の歴史を振り返ると,過去には皇位を巡る危機的な時期が幾度もあり・・・」
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/51
とあるところ、その事例として欠かせないからに過ぎないように思います。
 また、般若心経への言及についても、「弘仁9年(818)・・・の春、大旱魃から全国に疫病が蔓延したことに対し、嵯峨天皇が、「朕の不徳にして多衆に何の罪かあらん」と、正殿(御所)を避けて離宮嵯峨院で質素倹約に努められ<、>4月26日から28日までの3日間、弘法大師のお勧めにより、嵯峨天皇及び公卿百官は素食精進のもと、般若心経に帰依して読誦転経し、殊に嵯峨天皇が紺紙に金泥で一字三礼の誠を尽くして般若心経を書写され<た>」
https://www.daikakuji.or.jp/bojutsu/intro/
ことを嚆矢として、「歴代天皇<が、飢饉や>疫病が蔓延すると、『般若心経』を写経してきた」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65354
ということを踏まえれば、浄土真宗と日蓮宗の忌避的な含意があるとは、必ずしも言えないのではないでしょうか。
 そもそも、「浄土真宗は『浄土三部経』を、日蓮宗・法華宗は『法華経(妙法蓮華経)』を根本経典とするため、般若心経を唱えることはない。これは該当宗派の教義上、所依経典以外は用いる必要がないとされ、唱えることも推奨されない。しかし教養的な観点から学ぶことは問題視されて<いない>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C
ところですしね。
 他方、後光厳天皇への言及部分は、『大日本史』の史観/戦前の公定史観、からすればもちろんですが、客観的にもいささか問題があります。
 (「関連質問」を、記者の誰も、この点について(すら)行っていないのにも困ったものです。)
 後光厳天皇は、北朝の「天皇」ではあっても、その「在位」当時において、北朝は「廃朝状態」だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
のですから・・。
 そういう目で見ると、どちらもれっきとした天皇ではあったものの、自分の後を襲った大覚寺統の後醍醐天皇を少なくとも外向けには批判した(コラム#省略)ところの、持明院統の花園天皇、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87
と、その即位を「後南朝」から激しく非難された後光厳天皇、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
に言及しつつ、「民を慈しむ歌」を多数残している後醍醐天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
を意図的に落としたとしか思えないことから、ご指摘のように、今上天皇が「南朝的な天皇の在り方を否定的に見て」おられる可能性は大です。
 その関連で、最も問題なのは、「<歴代>天皇<が>・・・武ではなく文である学問を大切にされてきた」のくだりです。
 皮肉なことに、「武ではなく文・・・を大切にされてきた」は後醍醐天皇にはあてはまる・・万能人であったにもかかわらず、武芸に興味を示した形跡がなく、直轄兵力を持とうともしなかった・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
けれど、天智天皇(乙巳の変)と天武天皇(壬申の乱)(兄弟)の頃までの歴代天皇には必ずしも当てはまらないばかりか、例えば、江戸時代の後光明天皇・・「武芸を学<び、>・・・源氏物語を淫乱の書と決め付け、その類のものを一切読まず、また和歌も詠まなかった」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
にも当てはまらない(コラム#省略)のですからね。
 そして、「武ではなく文である学問」に至っては、今上天皇が歴史学者である以上、ありうべからざる言明です。
 というのも、1615年の禁中並公家諸法度の第一条の「天子諸藝能之事、第一御學問也」に言う「學問」の解釈一つとってみても、「条文の続きには具体的な書物の名が挙げられているがいずれも・・・唐の『貞観政要』『群書治要』や宇多天皇が記した『寛平御遺誡』といったものであり、名目上の存在とはいえ天皇は君主であり、あくまでも君主として必要なことを学ぶよう求めてい<る>」ことを踏まえ、「朝廷において天皇に求められた学問は和歌や文学よりも「国家治政の学問」であるという論理は『禁秘抄』が書かれた昔から一貫して変わっておらず、その朝廷側の論理を幕府が汲み込む形で第一条は成立したと考えられ<る>」というのが通説と言ってもよく(コラム#省略)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E4%B8%A6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6
かつまた、その「国家治政の学問」の「国家治政」に「武」(軍事)に係る「治政」が含まれるのは自明の理だからです。
 要するに、今上天皇は、天皇は、私の言う縄文性「だけ」の象徴である、と言っておられるに等しい、ということです。
 (なお、今上天皇の「誡太子書」への言及に関するご指摘は、図星だと思います。)」(コラム#12591)

〇皇嗣と悠仁殿下

 表記の2人には、上皇及び今上天皇から、日本の戦前史について、タテマエ上は司馬史観、ホンネは戊辰戦争から先の戦争までの日本の戦前史の全面否定、日本史全体については北朝正統史観、を信奉する以外は許されていない、と見る。

 (3)吉田ドクトリン?

 一般には、戦後日本の国の形を形成したのは吉田茂であって、それを吉田ドクトリンと呼ぶ習わしになっているが、話はその真逆であって、光格天皇家がついにそのエースたる昭和天皇によって、終戦を契機にしてその宿願を果たそうとしたことに対して、真っ向から抵抗したのが吉田茂だったのだ。
 (その一具体例を、靖国神社を取り上げた箇所で既に示した。)
 そのことを、私は、吉田茂が意識的に残したと見ているところの、三つの手掛かり・・「日米安全保障条約への吉田のたった一人での署名(1951年)、日本の主権回復の年(1952年)だけにおける臣茂という言明、そして、マッカーサーの葬儀(1964年)への高齢を押しての吉田の遠路はるばるの出席」・・に取り組むことによって明らかにした。(コラム#12833)
 それらを読んでもらうとして、ここでは、(既に部分的には触れたところだが、)吉田茂が、昭和天皇の横やりがなかったならば、一体どういう成行を期待していたのかを想像してみよう。
 その前に、彼の意に沿わなかった旧安保を振り返ってみよう。

 「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(・・・Security Treaty Between the United States and Japan)は、日本における安全保障の為にアメリカ合衆国が関与し、アメリカ軍を日本国内に駐留させること(在日アメリカ軍)などを定めた2国間条約。いわゆる旧日米安保条約と呼ばれるものであり、1951年(昭和26年)9月8日の日本国との平和条約の同日に署名された。11月18日に第12回国会で承認される。翌年の4月28日、平和条約、そして第三条に基づき締結された日米行政協定と同日発効した。1960年(昭和35年)6月に日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)が発効したことに伴って失効した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E6%9D%A1%E7%B4%84

 旧安保では、米国に日本防衛義務がなかったと思われているが、この条約が発効したのと同じ日に交わされた日米行政協定で、米国は日本防衛義務を負った。↓

 「日米行政協定(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定)・・・1952年2月28日作成,1952年4月28日発効」
https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19520228.T1J.html
 「日米行政協定の第24条で「日本区域の防衛のため必要な共同措置を執」るとしている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E6%9D%A1%E7%B4%84
ところ、その第二十四条は、「日本区域において敵対行為又は敵対行為の急迫した脅威が生じた場合には、日本国政府及び合衆国政府は、日本区域の防衛のため必要な共同措置を執り、且つ、安全保障条約第一条の目的を遂行するため、直ちに協議しなければならない。」
https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19520228.T1J.html
というものだ。

 日本国憲法においては、条約は、国家間の文書による法的合意中、国会の承認を必要とするものを指すが、それ以外の国家間の文書も、双方の締約国を拘束する点では同じことだ。
https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2020pdf/20201102017.pdf
 だから、この点では、条約で米国が日本防衛義務を負ったところの、新安保と異なるわけではない。↓

 「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」(新安保の第五条)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E7%9B%B8%E4%BA%92%E5%8D%94%E5%8A%9B%E5%8F%8A%E3%81%B3%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E6%9D%A1%E7%B4%84

 いや、むしろ、「自国の憲法上の規定及び手続に従って」が入ったため、効力が弱まったとさえ言えそうだ。
 つまり、岸カルト(後述)の創始者の岸信介があれほどの大騒動を巻き起こして新安保を締結し、国会に承認させたのは、「右」の人々向けのパーフォーマンスに過ぎなかった、と、言えそうだ。
 さて、その上でなのだが、吉田は、日本の主権回復後、朝鮮国連軍関連後方支援部隊以外の日本駐留米軍全ての撤退を求めるとの要求を米国に突きつけ・・なお、朝鮮国連軍関連後方支援部隊までも退去を求めてしまうと米国の反対で日本の国連加盟は絶望的になる・・、その上で、米国が日米安保締結を提案して来れば、米国の出方に応じて日本にとって最も有利な内容のものにするし、万一、締結に至らなかったとしても、米国が最高司令官を出すことになっているところの、朝鮮国連軍関連後方支援部隊を米国は日本国内に維持することは至上命題であるところ、この関連機関を、朝鮮有事の場合はもちろんだが、第三国・・中共は朝鮮国連軍の敵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%BC%91%E6%88%A6%E5%8D%94%E5%AE%9A
なので、事実上ソ連のみ・・が日本に侵略してきた場合も、守らなければならない以上、その反射的効果として、米国によって日本の安全保障が、理論上は、というか、捕らぬ狸の皮算用的には、確保される、と、腹を括っていたのではなかろうか。
 もちろん、いくらなんでも、これでは、日本の世論も安全保障上の不安に駆られるに違いないので、折を見て、一挙に憲法第9条の政府解釈を、芦田解釈のラインまで変更した上、警察予備隊を国軍へと再編することを狙っていたのではなかろうか。
 しかし、そうはならず、こと志とは異なった形で、主権回復をした戦後日本は、旧安保/行政協定、と、(朝鮮国連軍に係る)吉田・アチソン交換公文、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%81%E3%82%BD%E3%83%B3%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E5%85%AC%E6%96%87
の二本立て・・三本立てとも言える・・でもって、米国の属国となる形でスタートすることとなった。
 こうして、集団的自衛権行使を解禁する憲法政府解釈変更すら断念した吉田は、警察予備隊を保安庁/保安隊へと改変し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%AE%89%E9%9A%8A
それを更に防衛庁/自衛隊へと改変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%9C%81
するところまでやって、傷心のまま首相の座を降りるのだ。

 (4)岸カルト

 上述したところの、吉田茂の、昭和天皇への抵抗を完全に無に帰せしめたのが岸信介であり、その岸が形成した岸カルトだった。
 既に何度も登場したところの、この「岸カルトとは、一体何ぞや。
 それは、コア商品たる冒頭に掲げた見せ金再軍備商品・・(それ自体が<吉田茂の真意を無視してでっちあげられた>架空の存在たる)吉田ドクトリンを「克服」対象として掲げるところの、コア商品、とも形容することができる・・のほか、日本の「右」の人々が好むありとあらゆる政治的課題を掲げる一方で、(阿吽の談合関係にあるところの)「左」の人々を使嗾してそれらに対して反対の言動を行わせる、というマッチポンプを継続的に行うことによって、それが永遠に達成できない、という形で商品化して、「右」の人々向けに「売り」出す、という世界を見渡しても他に例を見ない、政治屋家業、であって、岸信介から始まるところの、この岸カルト、の、世襲される代々の教主が、日本の「右」の人々をして、これらインチキ商品を、合法非合法の政治資金を提供したり、票を投じ、集めたりして購入する信徒たらしめ続けることによって、これまた同カルトが創りだした、自由民主党なる政党、を恒久政権政党化すると共に、その政党を事実上支配し続ける、つまりは、日本を支配し続ける、という、統一教会も真っ青の醜悪極まりない詐欺師的カルトなのだ。
 この岸カルトは、必然的に、<戦後>日本<に>、米国への属国化、<と>、宗主国の中共への移行準備、をもたらすこととなり、その結果として、日本の脳死と日本文明の滅亡・・プロト日本文明への回帰・・を招来して現在に至っている。」(コラム#13029)
 さて、既にお気付きになっている方も少なくなかろうが、岸信介が創設した岸カルトは、昭和天皇の意思、及び、その後の二代の天皇に受け継がれているところの昭和天皇の遺志、ひいてはその大部分が縄文人であるところの戦後日本の有権者達の生来的世界観、の、実現と維持に権謀術数を駆使し清濁併せ飲んで尽力し続けてきた、賞賛すべき(歴代天皇の)忠臣達にして(戦後日本国民の)忠実な代弁者達である、ということに論理的にはなるわけだ。
 更に言えば、岸カルトが、韓国の、日本人搾取を教義とする旧統一教会、と癒着していたのだって、元々昭和天皇も岸カルトも日本の主権を外国に委ねることにしてきた以上、岸カルトの選挙用マンパワーを無償で提供してくれていたのだから、(敵性外国勢力であるとはいえ、)同教会の宣教活動に岸カルトが利用されるくらい、いいではないか、ということにもなる。
 というわけで、岸カルトは、昭和天皇家カルトとでも呼ぶべきものの応援団の中枢であるに過ぎないのであって、戦後日本は、この岸カルトと同カルトに意識的無意識的に協力する政治諸勢力からなるところの、天皇を頂点に戴き、国民の大多数を事実上の会員とする、大政翼賛会体制、下にあり続けてきた、というのが私の痛切な結論だ。

 (5)脳死した日本–終わりに代えて

 私は、拙著「防衛庁再生宣言」(2001年6月)の中で、「牛は8000年前に家畜化されたが、その結果、防衛本能が低下し、脳のシワが少なくなり、また一年中発情するようになったという。安全保障に関心を持たず、カネまみれになっている自民党の政治家たちを見ていると、彼らがみんな牛に見えてくる。」と書いた(コラム#28)
 そう書いたのは、こういったことを知っていたからだ。↓

 「ブタ、ネコ、イヌ、ヒツジなどの家畜やペットの脳が野生動物よりも小さいことは「Domestication syndrome(家畜化症候群)」という現象として広く知られていたが、・・・新たに牛を飼いならすほど脳は小さくなるという研究結果が・・・明らかになった。
 牛を品種別で分け、脳のサイズに関する大規模な調査を行ったところ、人間(にんげん)>とより深く接している品種は、独立した生活を送る品種よりも脳が小さいことが判明した。つまり牛を飼いならすほど脳は小さくなるということが推測される結果となった。・・・
 現在の進化論上、「脳を使わないから脳が縮小していった」という可能性よりも、脳が小さい個体は捕まえやすいので「小さい脳の家畜が繁殖され続けた」その結果として脳が小さくなった可能性が高いという。
 しかし、・・・「家畜の脳の変化についての理解は、まだ初期段階にあります」と、あくまで脳が小さい原因は仮説の域を出ていないと<する>・・・研究者<もいる。>」
https://vevelarge.com/domestication-syndrome/

 (もちろん、自民党の政治家達≒中央政府、という前提の下でだ。)
 幸か不幸か、この私の予想は的中した。
 的中したことを間接的かつ象徴的に示すのが、東大法学部にその大部分が進学するところの、文I入学者の偏差値と、文II、更には文III入学者のそれとの逆転であり、国家公務員上級職合格者に占める東大卒者の割合の顕著な低下だ。(典拠省略)
 これに加えて、少子化も進行しており、脳死に続いて、日本が肉体死に至る可能性が現実味を帯びてきている。
 とはいえ、少子化の進行は日本だけではなく全人類が共通に直面している問題なので、我々は日本固有の問題である脳死の方をより深刻に受け止めてしかるべきだろう。
 しかも、考えようによっては、脳死は必ずしも問題ではない。
 というのも、それは、単にプロト日本文明への回帰をもたらすものでしかないからだ。
 私は、弥生時代と私の言う拡大弥生時代の都合約1000年をプロト日本文明時代としているところだが、弥生時代には日本に中央政府は存在しなかったし、中央政府が存在した拡大弥生時代においても、地政学的に恵まれていて内外からの脅威が少なかった日本には中央政府軍(注50)がなきに等しかったことから、中央政府といっても名ばかりものだったと言ってよいのだ。
 
 (注50)「古墳時代・飛鳥時代には、各豪族(国造)の私兵(国造軍)が軍事力の中心だった。
 奈良時代には、律令制の整備により徴兵制に基づく大規模な国家兵力である軍団が設立されおよそ100年続いた。
 平安時代になって軍団の廃止後、武力は再び私的な在地主体へ戻った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%8F%B2
 「軍団は、7世紀末(もしくは8世紀初め)から11世紀までの日本に設けられた律令制によ<って、一定期間設置されていたところの、>国家規模の軍事組織を指す(軍団兵士制)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%9B%A3_(%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC)
 「防人が東国から徴兵された時期、その規模は2000人程度を数えた。・・・任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。・・・当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E4%BA%BA
 わずか100年しか続かず、しかも、私見では、律令制そのものがいわば絵にかいた餅に過ぎなかった(コラム#13549等)以上は、軍団の実態はなきに等しく、実在したのは杜撰な防人制度くらいだった、と、私は見ている。

 もとより、かつてのプロト日本文明の時代の軽武装は、必然的に日本に一人当たりGDPの停滞をもたらしていたところ、武士がのさばり中央政府が健在であった、日本文明時代、においてさえ、支那における海禁政策や徳川幕府の「鎖国」の結果、国際交流が制約され続けたこと等により、一人当たりGDPは停滞気味で18世紀末まで推移したのであり、プロト日本文明回帰に伴う一人当たりGDPの停滞は、いわば、このような日本経済の巡航状態への回帰に過ぎない、と、達観する手もなきにしもあらずだ。
 他方、かつてのプロト日本文明の時代と現在の回帰しつつあるプロト日本文明の時代の決定的な違いは、前者では日本は独立していたけれど、現在は(米国、そしてやがては中共、なる)外国の保護国に堕しているところにある。
 米国は、一国二政府の対象たる日本に対して収奪や抑圧はほどほどにしか行わなかったけれど、将来の中共ないしその後継政権もそうしてくれる保証はないわけだが・・。
 幸い、中共に関しては、毛沢東・・日本大好き人間だった!(コラム#7989等)・・の時代以来、そして、習近平時代においてはそれを加速化する形で、私の言う日本文明総体継受戦略を採ってきており(コラム#8407等)、我々としては、当面は、それが成功することを、ひたすら祈るほかあるまい。

(完)

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太田述正コラム#14418(2024.8.24)
<徳富蘇峰『皇道日本の世界化』を読む(その5)>

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