太田述正コラム#14260(2024.6.7)
<板垣退助『立國の大本』を読む(その3)>(2024.9.2公開)
[神と人道]
「『神と人道』は、板垣退助の著書<であり、>・・・<維新後に>自身<が>信仰する<ところとなった>神道の立場から唱えた理神論。西洋の主義思想とその根底にあるキリスト教主義を批判し、東洋の家父長制度の美徳、敬神崇祖、日本独自の武士道的観念から来る人道主義を主張した。 1919年(大正8年)7月16日薨去した板垣を追悼し、同年12月1日、『立国の大本』、『一代華族論』と共に3冊セットで、東京忠誠堂から出版された。・・・
板垣は、天体の公転・自転、惑星の距離などの宇宙の法則が存在する以上、万物の創造主である「神」は存在すると認めている(理神論)。しかし、『聖書』と交わる思想はその一点のみで、その他の聖書の記載に関しては、「神が人を作ったのではなく、人が神(の概念)を作った」とし、天国・地獄も含めて古代人の空想的迷信の産物と断じた。尚且つ、その宇宙の法則を司る「神」とは人間とは全く異なる次元のもので、人の行為に関して「何々をしなさい」とか「何々をするな」などと干渉するものではなく、また人が祈って、それを叶えるという類いのものでも無いと述べている。
その一方で、板垣自身の体験として戊辰戦争時における「虫の知らせ」や「予感」などの概念は肯定した。「心だに 誠の道に 叶ひなば 祷らずとても 神や守らん」と詠んだ和歌を引用し、儀礼的に神を奉らなくとも、「良心」に従って行動すれば、自ずと道は開けるとし、理性を介して己と向き合い、赤誠の心を持つことを尊んだ(「至誠通天」の思想)。
また、先祖や過去の偉人を敬い、これを「神」と奉り、未来永劫に顕彰することは「人としての当然の感情の発露」として、これを推奨した。実際、板垣退助は亡妣の五十回忌の法要を行ったり、武市瑞山の贈位にあたっては、靖國神社で祭文を奏上している。
板垣の認める万物の創造主たる「神」を板垣は「造化の神」とも呼んでおり、「別天神」として「造化の三神」があったことは『古事記』や『日本書紀』にも記載があり、その点で言えば板垣は純然たる神道の史観より、哲学的要素を踏まえて語っているとも解釈可能である。・・・
自由民権家の中にキリスト教徒がいたため生前に出版を控えられていたが、・・・キリスト教批判ではなく「板垣らしい哲学的理神論の好著」と捉えられ、キリスト教徒であった安藝喜代香は、この出版の翌年、板垣を顕彰するための組織「板垣伯銅像記念碑建設同志会」を設立するなど、キリスト教徒を含めて、この書によって板垣の人気が凋落するということは一切なかった。・・・杉原千畝、樋口季一郎らにも影響を与えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%81%93
ところが・・。↓
「板垣退助の次男<の>・・・乾正士<(1868~1941年)は、>・・・東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業後、近衛師団へ入営。・・・大正4年(1915年)6月27日、妻 八重野が高知教会で洗礼を受ける。
大正6年(1917年)9月30日、妻の受洗により、正士も高知教会で洗礼を受けてプロテスタントとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E6%AD%A3%E5%A3%AB
「<その子の>乾一郎<(1908~2000年)は、>・・・日本福音ルーテル芦屋教会初代牧師。・・・
1946年(昭和21年)9月5日、福岡県小倉占領軍一等通訳官に任命され、姉夫婦の住むルーテル八幡教会に居を移すが、GHQの占領統治に疑念を感じ、1946年(昭和21年)11月20日、通訳辞任。
私は聯合国軍殿を通して、日本民族の立場を国際社会に伝える為に来たのだ。…日本を占領統治し、日本民族を半永久的に奴隷化するための施策であるならば、断じて之に協力する事は出来無い。
(小倉占領軍一等通訳を辞める時の言葉:乾一郎)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E4%B8%80%E9%83%8E
「川瀬徳太郎<(1886~1964年)は、>・・・日本福音ルーテル八幡教会創始者<。>・・・1919年・・・、板垣退助の二男・乾正士<(上出)>の長女の乾美世子(みよし)と婚姻。路傍伝道(辻説法)を行いながら廃娼運動にも尽力した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%80%AC%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E9%83%8E
⇒「家父長制度の美徳」と言っても、家父長制は、日本の場合は、武士を中心とした比較的最近の制度なのに、板垣は、無知だったのか、そんなことに無頓着だったのか、褒められたことではない。
但し、板垣が「一代華族論」を主張し、書き残す形で実践したのは、評価されてしかるべきだろう。
次男の系統が嫡系になった可能性もあったところ、その系統から、代々、板垣の理神論をはき違えてキリスト教徒になっただけでなく、その伝道に従事した者まで輩出したわけであり、彼らが、代々伯爵を称していく可能性を完全に閉ざしたのだから・・。
(続く)