太田述正コラム#14278(2024.6.16)
<板垣退助『立國の大本』を読む(その12)>(2024.9.11公開)
「・・・蓋し今日の国際関係は極めて複雑多端にして、之を世界の大勢より観察するに、一国を以て全然与国の間に孤立し、すべてを敵とするは極めて困難也。是故に利害相斉しく主義相同じきもの互に聯盟して、以て共同の敵に当るは已むを得ざる事に属す。此意味に於て今日は孤立の時代にあらずして聯盟の時代なりと謂はざる可らず。然りと雖も若し一国にして自主自立の根柢なくして、漫然として他と同盟若くは協約するあらんか、そは単に従属の関係を規定するに止まり、到底独立国としての体面を維持し得べきにあらず。之に反して一国にこの儼然として犯す可らざる所の自主自立の根柢ありて、始めて友邦を世界に求め、国家としての理想を遂行し得べき也。則ち要はたゞ我邦の世界に於ける地位を明かにし、実力を以て東洋の平和を維持し、国際間の正義を進め、道理をして世界を支配せしむるに在るのみ。」(77)
⇒板垣が亡くなったのは1919年7月16日、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9 前掲
国際連盟は、「規約は、1919年6月28日にヴェルサイユ条約の第1編として調印され、1920年1月10日に他の条約とともに発効し・・・設立<され>・・・た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E7%9B%9F
のですから、「聯盟の時代」の「聯盟」は、まだ形の上では有効だった日英「同盟」(注12)的なものを指しているのではなく、国際連盟を指すと見てよいでしょう。
(注12)「第一次世界大戦後の1919年に、パリ講和会議で日本とイギリスを含む「五大国」の利害が対立し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残り、1921年に、国際連盟規約への抵触、日英双方国内での日英同盟更新反対論、日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑、日本政府の対米協調路線を背景にワシントン会議が開催され、ここで、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の更新は行わないことが決定され、1923年、日英同盟は拡大解消した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
となれば、「然りと雖も若し一国にして自主自立の根柢なくして、漫然として他と同盟若くは協約するあらんか、そは単に従属の関係を規定するに止まり、到底独立国としての体面を維持し得べきにあらず。」は、そう遠くない将来における日本の国際連盟からの離脱を示唆していて、日本は「実力を以て東洋の平和を維持し、国際間の正義を進め、道理をして世界を支配せしむる」、つまりは、日本は熱戦を起こして道理・・人間主義・・を、まずは東洋(アジア)に、そして、最終的には世界に、普及し確立させることを事実上宣言している、と受け止めるべきでしょう。(太田)
3 終わりに
板垣退助は、日蓮主義者として、私の言う、本格的日蓮主義戦争の開始と続行に大いに貢献し、だからこそ、伯爵を授けられた、ということもさることながら、にもかかわらず、蓄財や閨閥作りに無頓着で、その没後にその遺志を汲んで爵位の相続を事実上拒否したという事績を残した、嫡男の板垣鉾太郎(ほこたろう。1868~1942年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%89%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E
を除き、さしたる事跡を残すことがなく、最新の世代に至ってはウィキペディア掲載者がざっと見たところ皆無、つまり、普通の人たる子孫しかいない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%AE%88%E6%AD%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E6%AD%A3%E8%B2%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9C%B0%E8%8C%82%E6%98%A5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%B3%B0%E6%B2%BB%E9%83%8E
・・キリスト教伝道者という困ったちゃん達がその中にいたことは措くとしてですが・・点こそ、私見では称えられるべきではないでしょうか。
(完)