太田述正コラム#14298(2024.6.26)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その10)>(2024.9.21公開)

⇒「注18」に照らせば、ここでも、大川が書いていることは相当杜撰であると言えそうです。

(注18)「孫文は日本亡命時代には東京府の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。なお、その邸宅の主は貴族院議員の中山孝麿侯爵で、孝麿の叔母中山慶子(中山一位局)は明治天皇生母である。また、宮崎滔天から孫文亡命の協力を頼まれた犬養毅と平山周が、身を隠すための孫文の日本名として中山忠能(明治天皇の祖父)から拝借したとする説もある。
 章士釗が1903年に宮崎滔天の『三十三年の夢』を『大革命家孫逸仙』に翻訳した際、孫の姓と偽名「中山樵」を併用しており、「孫中山」と呼び、後に<支那>での孫の通称になった。孫は自分を「孫中山」とは呼ばず、すべての公文書や手紙に「孫文」の名で署名している。・・・
 欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senとして知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87

 また、同じ「注18」から、滔天や平山が、(福澤が作った)慶應義塾出で(大隈が作った)立憲改進党から議員生活を始めたところの、バリバリの日蓮主義者にして島津斉彬コンセンサス信奉者であったと目される、犬養、の薫陶を受けてアジア主義者になった、ないし、抱懐するアジア主義をより強固なものにした、ことが伺えるところ、滔天にせよ平山にせよ、犬養が島津斉彬コンセンサス信奉者にまで育て上げたとは考えられず、彼らは、支那を辱める方の任務とは無縁のままそれぞれの生涯を終えた、と、見ればよいのではないでしょうか。
 「1923年1月<に、孫文は、>・・・孫文・ヨッフェ共同宣言<を>・・・発表<し、>・・・連ソ容共・・・へ・・・方針転換<し、>・・・1924年10月、<その>孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴え<、>同11月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行<い、>日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87
、と、事実上、前者になってしまったと日本を指弾し、日本との決別宣言を行ったわけですが、このような孫文の変節を、宮崎(1922年12月6日に亡くなった)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%BB%94%E5%A4%A9
は知らなくて済んだけれど、平山(1940年4月21日に亡くなった)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%91%A8
は自分達がやってきたことが報われなかったとさんざん嘆いてから死に、犬養(1932年5月15日に亡くなった)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85
は、自分達がやってきたことが報われたとを喜びつつ、支那の統一と富国強兵化を成就するのを待たずして、安易に(日本の最大の潜在敵であった)ソ連(ロシア)と手を組みその支援を受ける方策を採ってしまったところの、孫文、に代わる、ソ連と手を切ることができる人物、勢力を、秘密裏に支那で早急に見つけて育て上げる算段を講じなければならない、と、眦を決していたまま不慮の死を遂げた、といったところでしょうね。(太田)

(続く)